声雄志願と文術士

紙季与三郎

第一声 声雄志願と文術士1/3


——誰もが誰かに憧れる。


稲光の啓示を受けたように鮮烈に、大潮に飲まれたように掻き回される感情。突き刺さる自己否定の破片の痛みを解く為に、或いはさらなる深みに突き刺して己を鼓舞したいと血飛沫の涙を溢れさせる為に。


ここもそんな世界。


「はぁ……はぁ……」


心が叫ぶ。体が軋む、彼女は走って森深い苔むした木陰へと潜んだ。


追っ手は直ぐそこに居るのか、一心不乱だった彼女には分からない。


「こ、これが……魔功話術……はぁ、はぁ」


荒れ果てた吐息を整え、首をガクリと項垂れて。


「やっぱりスゴイなぁ——‼」


感嘆の声を漏らしかけた矢先、本が閉じられる音が当たりの森中に響いて。木陰に潜む彼女は森をこだまし、反響する音の発生場所を探す。


——居る。確実に、居る。それもとても近くに。


『上だよ』

『——⁉』


唐突な声掛けに、辺りを警戒して左右に動いていた少女の首が声のした方向を向いた。


そこには自然の法則を無視し、地面とは水平に木の腹に両足を不遜に置く学校制服のような格好をした男が立っている。


左の顔を覆い隠す眼帯が猟奇的で。


彼女は駆け出した。咄嗟に、その場を離れようと。


が——、


『驚きの胸中、刹那の反応で動いた少女だったが、男はその上を行っていた』

『文字通り上を行き、回り込んで餓えに這いつくばる』


これから自分が行う行動を不可思議に響く言葉で宣言し、逃げようとした少女の前に立ちはだかる男。


着地と同時に腹が空腹だと鳴いていて。


『男は狼だった——空腹に喘ぎ、弱りかけた兎を追い詰めた狼』


更に続けた言葉の通り、彼は人間の姿からみるみると体毛の濃い灰かぶりの獣へと変貌を遂げていく。


『——いぃ?』


そのあまりの異常事態に、身を引いた少女は呻いて。そして圧倒的な存在感に威圧され後退していた足を樹木の根に引っ掛け、腰すらも抜かしてしまった。


『オオオオォォォン……』


狼に変り果てた男の遠吠えは、どこか寂しげで。しかし絶対的な捕食者の威厳を滲ませて少女の身の毛をよだたせる。


「——そこまで‼」

そんな遠吠えの終わり、森の端から女性の勇ましい声が響く。


狼となった男に追い詰められた少女が目を向けると、そこには森に似合わぬ赤いスーツを着た女性の姿。


「そこまでだ、道真みちざね。話術を解除しなさい」


「ふぅ……助かった……」

元和泉もといずみ、いつまでも座って無いで、こちらに来なさい」

「は、はい‼」


赤いスーツの女性は腕を組む厳格な佇まいと顔つきで、或いは元和泉と呼ばれた少女にとっては狼よりも怖い存在なのかもしれない。


彼女が掛けた一声に緊張が走り緩和していた筋肉が締まった様子。


しかし——、

「……腕の一本でも食い千切った方が良くないか、神原こうばらさん」


現れた女性に対する態度が元和泉とは対照的な狼から人の姿に戻った左目が眼帯の男。


道真が気だるげに落としていた本を拾いながら不吉な言葉を吐くと、少女の顔は青ざめ両腕を思わず後ろに両手と共に隠す姿が見て取れて。


「教諭か先生を付けろ。それは二学期の文化祭の後でミッチリと演習する予定だ」


「去年のお前たちもそうだっただろう。トラウマになって文化祭で使えなくなったら困ると」


「え」


更に不穏な神原教諭の発言にギョッと傍らを見上げる少女であった。


「記憶にないですよ、俺は去年の文化祭すら出てない。ブックワン、結界を解除しろ」


「命令するなワン! 言われなくても解除するワン」


そんな少女を他所に話は進み――、眼帯の青年が一つしか動かない瞳で何処かへと向け声を掛ける。


すると、本の栞のような尻尾に乗り浮遊して移動する犬のような生物が深い樹海の情景を飛び回り、道真に甲高い声で言い放って。


その時だった――、


朽ちた絵画の絵の具が剥がれるが如く空が次々に剥がれ落ち、打ちっぱなしのコンクリート壁が垣間見え始める。


森は、偽りの世界。


「文化祭どころか普通の授業にも顔を出さないだろう。貴様らが文術科じゃなければ去年の二学期の頃には、この碧海ヶ坂に在籍すらしてなかったぞ。この社会不適合者が」


「……辛辣だな。嫌いじゃあないが」


それを何の違和感もなく受け入れている様子の彼らが深い信頼関係があるような会話を交わした頃合い――、


周囲の光景は碧海ヶ坂高等学校にある特別演習室、完全な立方体ワンルームへと変貌を遂げたのであった。


「で、元和泉はどうだった。後で演習の評価文も書いてもらうが、見込みはありそうか」


そして神原教諭の鋭い眼差しが傍らの生徒、元和泉に流れる。


先の異常な光景の中に置いての、彼女の行動に対する審査を道真に求めたのである。


先ほど描写した展開は試験的なものの結末。


「ご指導よろしくお願いします‼」


故に元和泉は審査員である先輩、道真に真摯に頭を下げ敬意を払う。


「……見込みがない奴なんて居ないし、見込みがある奴も別に居ないだろ」


「そもそも育てるのは先生方の仕事で、俺は通例として二年と一年を戦わせるこの授業は反対なんですよ。任意ならともかく二年は強制だしな」


「しかも一年だけは対戦相手を選べる。こっちにも拒否権が欲しいんだが」


「私とてお前らに関わらせるのは本意ではないさ。しかし選ばれただけ光栄に思え。誰からも指名を受けてない奴も居る」


それは元和泉自身が道真という男に審査されることを望んでいたからでもあったのだが、


当の道真は神原教諭に悪態を吐きつつ学校の精度に不愉快そうに文句を付けていて。


神原教諭も教諭で溜息を吐き、道真の論調に同意を示しながらも嫌悪を示す。


「……ま、大方の察しは着くが」


気だるげに顔を神原から背けた道真。片目瞼をヒタリと閉じて頭の中で何処かの誰かを脳内で映像にした様子である。


そして、

「その一年の評価なら、Dプラスって所か。体力、瞬発力、判断力も普通。魔力に関しては未知数だからな。何も使われてないし、走り方が雑な所を含めて完全に素人って感じだ」


彼は小さな溜息を吐いた後、置き去りにされていた元和泉を見下げ評価も下した。特に感情こそ声に込めてなかったが、


「Dプラス……」


淡々とした口調で放たれた言葉の中身に元和泉は心を沈められたような気分に陥る。


狼に変身できる魔法使いのような先輩と逃げ隠れるしか出来なかった自己を比べ、致し方ない当然の帰結と思いつつも肩を落として。


「ふふ、ずいぶん逃走劇に優しいじゃないか。私ならEマイナスかFプラスだ」


「ええ⁉」


「そうワンね、本薬ほんやくにしては高評価ワン」


しかし、他の観戦者からすればどうやら意外なものだったらしく。栞のような尻尾に乗る犬、ブックワンに至っては道真をからかうように彼の周りを無邪気に飛び回る。


「俺を選んでくれたからな。教師じゃないんだ、生徒を公平に見る義務はないだろ」


するとそんなブックワンの頭を掴み、道真は冷淡な表情で語った。


呆ける元和泉。


「あー、えこひいきワン‼ PTAが黙って無いワンよ‼」


「そんなに甘やかしたいなら蜂蜜の池にでも叩き落としてやりゃいい。ご満悦だろうさ」


「あひゃひゃひゃ、それは最高ワンね! きっと鯛焼きくんも水槽に帰りたがらないワンよ」


悪態を吐く道真の腕に吊り下がるブックワンとの親しげな会話。強烈な悪友ぶりに元和泉は圧倒されていて。


それでも、

「……ゴホン、二人とも口が過ぎるぞ。今のは聞かなかった事にしてくれ元和泉」


「あ、はい!」


神原教諭の咳払いに我に返り、流し目に僅かに緊張を走らせる。


「今回の結果だが、あまり気にする必要は無い。魔功話術がどのようなものかを体感させるための演習だからな。一年の君が、【キャラ】を持っていないのも自然な事だ」


「ゆっくりやれよ。声雄、目指してるんだろ?」


そして授業の終わりを予感させる神原教諭とブックワンを放り投げた道真先輩の発言に、


「は、はい‼ ありがとうございます‼」


元和泉は胸を躍らせた。碧海ヶ坂高校声術科一年、この世界に存在する声雄という職業の第一歩を踏み出した自覚によって細胞の全てが高揚し、目を輝かせて、胸を躍らせたようであった。



「で、先生。次は、用意出来てるのか?」


「出来ている。元和泉舞歌もといずみまいか、君も見ていきなさい、きっと良い勉強になる」


初めての演習を終え、緊張から解き放たれた元和泉の安堵の中、道真と神原教諭の言葉が予期させる次の展開。


「? はい、えっと私以外で道真先輩に演習を頼んだ人が?」


それは元和泉には心当たりが無いものだった。碧海ヶ坂高校での二年生との初回演習において道真本薬という男も、


ある理由からとても不人気で、自分一人しか選択していないと元和泉は思っていた。


 少なくとも自身が所属するクラスの声術科の生徒が道真と演習を望んだという話は聞いていない。


どころか、道真と演習をすると聞きつけた校内生徒のほぼ全ての顔が、まるで通夜に参列でもしているかのような憐れみの表情を向けてきた事が強く印象に残ってすらいて。


「はは、さりげに酷いな……次は——少し骨が折れそうだ」


自嘲気味に微笑み俯く眼帯。道真は元和泉の問いに答え、そして意味深に深い黒の瞳で元和泉の後方にある部屋の出入り口を傾げ見つめる。


「私の番ですね」

「——⁉」


元和泉からすれば、唐突な声だった。涼しげな声で、振り返れば凛とした美しい黒髪ながらどこか憂いの雰囲気を帯び漂させる同級生の姿。


文月ふみつきさん………なんで」


同級生だった。とても、とても意外な事に。


「久しぶりです、兄さん」


しかしまるで他人のように元和泉の横を通り過ぎ、文月と呼ばれた少女が兄と呼んだ道真の前へ。約束されていたような再会に想い馳せ、小さな微笑みを浮かべて。


「ああ。久しぶりだな、京香きょうか。相変わらず元気過ぎるみたいで何よりだ」


対する道真は素知らぬ顔で迎え撃つ。サラリと単眼の瞳を外へと流し、傾げ気味の首を片手で押さえる仕草。そんなぎこちない挨拶を終えると、


「元和泉さんも見学するんですか?」

「あ、うん……よろしくね」


文月が次に背後の元和泉へとようやく目を向けた。


同級生とはいえ、元和泉は文月に対して初対面に近く名前を知っている程度の間柄である事を如実に表すような緊張気味の応対。


凛とした美しい佇まいに気圧されていたのかもしれない。誰の目から見てもの愛想笑いで笑み、片手を小さく振って文月を見送る。


すると、気まずい空気に救いの手を差し伸べる為か——


「ほどほどにしとけよって、話だ」

「……分かっています」


或いは意味深な言い回しで言葉に含みを持たせた道真自身が文月の頭を兄らしく撫でる為か。


それに瞼を閉じて答える文月は、心なしか少し嬉しそうで。


「両者、指定の位置に。ブックワン、後は頼みます」


そこへ腕時計を見ながら時間を気にして割って入る神原教諭。


そして、


「了解ワン。じゃあルールも僕が決めるワンね。単純な遊びワン、校章のバッジを相手から奪った方の勝利ワン」


神原教諭の号令によってブックワンも動き始める。


演習の開始——


「元和泉、君はこちらへ。観戦結界を張る」

「は、はい……でも——」


しかし神原教諭の指示を受けて尚、元和泉の表情は心配の色合い、見つめ合う兄妹に名残惜しい瞳を向けたまま、彼女は疑念を抱く声を漏らす。


「魔声結界、もう一度、展開するワン‼」



「レッツ、アドリブ‼ ワン!」


「文月さんは、確か普通科の——」


——同級生だった。とても、とても意外な事に。


碧海ヶ坂高校の全科混濁のクラス割りにおいて――、他にも偏差値の高い高校を幾らでも選べたはずの眉目秀麗にして成績優秀な文月京香は、


声雄を目指す元和泉とは違い、何の事はない普通の生活を送る学徒であったはず、なのだから。


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