第27話 影響

 もしかしたら取り乱しているかもしれない。最悪の予想を立てながら顔を合わせた彼女は、しかし非常に落ち着いていた。


「お疲れ、森谷」

「お疲れさま」


 真昼の美術室に、やはり字城は一人で佇んでいる。凝り固まった体をほぐすようぐぐっと上半身を反らしたあとで、彼女は、


「……まずいかも」

「えっ」

「うそ」

「えぇ……」


 からっとした表情から放たれた一言にその余裕が焦りが一周し終わった故のものなのかと勘繰って、全身の汗腺が一瞬のうちに開いた。だが、即座の否定。それの意味するところはすなわち。


「……たぶん、大丈夫。今日の分は、だけど」

「心臓に悪い……。まあ、本当に大丈夫そうだから冗談言ってられる余力が残ってるんだって前向きに解釈しとくよ」

「ごめんって」


 ひと月前の字城は、果たしてこの手のジョークを使いこなせただろうか。……おそらく否。俺のおふざけ成分をいつの間にか吸収してしまったと見るのが自然。そりゃあ付き合った期間が長くなればなるほど相手からの影響は受けやすくなるものだが、いざ目にするとなんとも言えない気持ちになる。……俺が襟元正さないと、いつか字城がちゃらんぽらんになってしまうのではなかろうか。


「……昨日はよく眠れた?」

「あんまり。でも、今日からはぐっすり寝られそう」

「寝過ごして遅刻することだけは注意ね」

「心配なし。目覚まし何個もかけてるから」


 そんなことを言っている俺自身がかなり寝不足気味なのは伏せておく。一夜漬けをしたわけではなく、字城がどうなるか不安でなかなか寝付けなかった。自分のことなら妥協可能だし諦めもつくが、自分が面倒をみた他人のこととなるとそうもいかない。もっとああしておけば。このやり方を選んでおけば。後から振り返ると反省点は尽きなくて、気づけば朝だ。テストはまだ続くというのに、初日からこれでは身が持たない。


「じゃ、明日の科目の要点だけさらっていこう」

「……あのさ、森谷」

「どうかした?」

「森谷の方は大丈夫そう? 自分の勉強できてる?」

「そりゃもうばっちり」


 嘘だった。日常的に予習復習をしてきたのである程度はなんとかなったが、これまでテスト直前に注いできたほどの熱は今回ついぞ発揮できずじまい。それゆえ、手ごたえの方もまずまず止まり。だが、そう正直に伝えたところでノイズにしかなり得ないため、笑って誤魔化す。そもそも、答案が返却されるまではなにが起きるかわからない。

 自分の優先処理事項は、現状こっち。複数の作業をまとめてこなせるほど要領がよくはない。


「さ、始めた始めた。余裕のつもりでも、どこから足元すくわれるかわかったもんじゃないんだから」

「……ん」


 机と椅子を引っ張り出して、いつも通りに並べる。やることがはっきりしているのだから、あとは淡々とこなすのみ。俺が出題者、字城が回答者の形式で配点の大きそうなジャンルを端から片付けていく。一教科の赤点も許されないため、ここまでやれば安心だというラインはかなり引き上げた。俺の予想がドンピシャで当たる確証などなく、それを思えばどれだけやっても足りない。

 正直、かなり不安だ。入試の前日だってもっと落ち着いていたと思う。他人の今後が今まさに左右されるという状況に立ち会うのって、こんなに恐ろしいのか。……三年生を担任してる教師のメンタル、きっとぐちゃぐちゃだろうな。


 やはり、時間の進みが早い。字城が心変わりを迎えてから今日この瞬間まで手を抜いたつもりはないが、それでも足りないと思ってしまう。ベストを尽くして失敗したなら納得できるか。いや、そんなわけない。それが本当はベストなどではなかったと疑い始めるだけだ。

 彼女の努力を肯定するには、試験突破がマストになる。そのために、一点でも多く拾えるようにしなければ。


 そして、鐘が鳴った。全校生徒の下校を促す最後通牒。とっくに日は暮れ馴染み、校舎から人の気配は感じない。


「……帰るか」

 

 一言呟く。字城は無言で頷き、てきぱき支度を済ませた。荷物を持って退室し、施錠。俺はそのままなんとなく鍵を返却する字城に付いて行き、気づけば職員室が目の前だった。

 入り口は開け放されている。中では何名かの教師が作業中で、そこには里見教諭の姿もあった。どうやら字城に話しかけているようだったが、距離があるので内容までは聞き取れない。……意外と会話は盛り上がっているらしく、俺はしばらく待ちぼうけになりそうだ。

 それからしばらくして、字城が出てきた。彼女はドア前でぺこりと一礼すると、


「長引いた。なんかよくわかんないけど」

「なんの話だった?」

「調子はどうかって」

「なんて答えた?」

「……まあまあって」

「先生との話なんて、大体そんなもんか」


 納得。それ以上もそれ以下もありやしない。俺たちはそのまま学校を出て、家路をのんびり進んだ。よくよく考えれば一緒に帰る意味などないのだが、今日はなんとなくそういう流れだった。

 二人の間に言葉はない。字城がどうかは知らないが、俺に関して言えば蓄積した疲労が世間話のネタ探しすら妨害してきている。まだゴールしていないのだから、燃え尽きるにしても尚早だ。

 元来、無言はそこまで好きじゃない。場つなぎのために喋り続けることもままあって、誰かといるときは基本にぎやかなのが好ましい。……しかし、字城が黙りこくっているのに、それほどの違和感はなかった。お互いに言葉を探って譲り合う独特の間合いが、彼女と俺の間にはないからだと思う。せめぎ合いの末に生まれた沈黙でないなら、俺は苦にしないらしいことを初めて知った。

 そうこうしているうちに、俺たちは開けた交差点にさしかかり、


「私、こっちだから」

「送るよ、夜だし」

「…………大丈夫。森谷も疲れてるんだから、早く帰って休みなよ」


 やけに溜めてから、字城は言った。確かに彼女の家まで行くとかなりの遠回りになるから、今の体力ではちと心もとない。……でも、独り歩きに適さない暗がりなのは本当だし、どうしたものか。


「ん……」


 ぽすり。字城の握り拳がゆっくりと、黙考していた俺の胸の真ん中に刺さった。押すでも叩くでもないその一撃がなんのために放たれたものかわからず、しばしの困惑。事情の説明があるだろうなと待ち構えるも、彼女の瞳はこちらを見つめるだけで解答は得られない。


「これ、なに殴り?」

「……森谷の賢さ、お裾分けしてもらおうと思って」

「本気?」

「……本気」


 本気と言うなら信じるしかない。ジョークであって欲しかったと願いつつも、出処不明なオカルトに頼りたくなる瞬間は誰にだって訪れるものと飲みこんだ。俺だって夜に口笛吹かないし。


「…………」

「…………」


 ぐりぐり押し付けられる拳を茫然と眺めながら、ああ、彼女は本気なんだなと何度目になるかわからない実感を得た。人事を尽くしたうえで、こうやって天命まで祈り出しているのだから。

 クリアして欲しいと思う。俺の能力とか責任問題とかを抜きにしても。ここまで一生懸命走ってきた字城には、報いの一つや二つあってしかるべきだ。胸元の拳に俺の拳を重ね、気を送り込む。どうか、この女の子の努力が実を結びますようにと願って。


「……うん。大丈夫」

「ならよかった」

「後で返すから」


 引っ込めた拳を、大事そうにポケットにしまう字城。転ぶからやめなよと言っても、それだけは聞く耳を持ってくれないらしい。別に返してもらわなくても構わないんだけどな……。


「じゃ、また明日」

「じゃあね。おやすみ、森谷」

「気が早くない?」

「……こう言っとかないと、また電話しちゃいそうだから」

「すればいいのに。付き合うよ、ここまで来たら」

「……問題なし。だから、おやすみ」

「ん、良い夢を」


 別れ、青信号になりたての横断歩道を渡った。期間はあと三日。確かに、今日は早めに休んだほうがいいかもしれない。――そう考えている俺のポケットが、わずかに揺れた。


『今、ちょっとかっこつけた?』


 ポップアップに浮かび上がった短文。それに慌てて、今しがた通り過ぎたばかりの道を振り返る。


「……帰ればいいのに」


 俺の振り返りを察知した字城が、大きく手を振っている。……こういう変な茶目っ気も、俺との付き合いの中で獲得してしまったのだろうか。


『それは言わないお約束』


 返信し、こちらも手を振り返す。暗がりでわからないはずなのに彼女が微笑んでいるように見え、色々変わりすぎだなと嘆息。

 

 でも、


「悪くないな、これ」


 好ましい変化だった。きっと、今にみんなが字城とわを見つけ出す。友達が増え、学校に新しい居場所が生まれる。……だがそれも、試験を攻略してこそ。


「頑張れ」


 一人呟き、今度こそ本当に家路につく。新月の夜。真っ暗な帰り道に、仄かな熱を感じた気がした。

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