第12話 one of them

 収穫というか、不幸中の幸いというか、字城は決して勉強ができない側の人間ではなかった。世の中にはどれだけ頑張っても涙を流しても、知識が定着しない学生だっている。それはもうどうしようもないことで、脳科学の領分だ。対して、字城にその兆候は見られなかった。物覚えはかなりいい方で、やればやるだけ実になる。聞くところによると、これまでも授業さえきちんと受ければテストはどうにかなったらしい。


「そもそもなんでウチ来たの? もっと緩そうな私学、それなりにあったと思うけど」

「ここが一番近そうだったから」

「あー……」


 なんで公立高にこんなすごい人が?! 入学間もない頃にそんな衝撃を受けたものだが、理由はこの上なくシンプルだった。……まあ、俺も似たような経緯だから文句は言えないのだが。

 とにかく、彼女の学習能力に問題はない。絵以外のことになったら集中力が続かないのではという疑問もクリア。やるとなったらとことん没頭するのはなにを対象にしても同じようで、逆に俺の意識が散漫になりかけるくらい。これはもしかしなくても、赤点回避程度なら成し遂げられるのでは。そんな期待感に胸を膨らませていたある日のこと。


「け、けーくん……」

「悪いてんな、もうちょい待ってて」


 昼休みのうちに、今日の分のスケジュールを組んでおくのが日課になりつつあった。どの科目をどれだけ進めて、もし時間が余ったら次は……と、予め見通しを持っておくことで目標に近付く速度が上がる。いくら字城の要領がいいとはいっても、やはり半年のブランクは大きい。それを埋め合わせるだけのサポートが必要だ。

 そうやって頭を悩ませる俺の二の腕を、ぽんぽん、ぽんぽん、と何度も叩いて鞘戸が急かしてくる。そんなに急ぎの用なんだろうか。


「どした?」

「外、外見て外!」


 外を見ろと言われたので、言葉のままに窓の外を見る。怪獣でも出現したかと思ったが、広がっているのはなんてことないいつも通りののどかな風景。「あ、外っていうのは窓の外じゃなくて、教室の外で」補足によって、おそらく廊下側を見て欲しいのだというのが伝わった。応じて、視点を移す。すると。


「廊下でおしゃべりしてたらけーくん呼んでってお願いされて……」


 教室の敷居をまたぐかまたがないかのぎりぎりで、字城が俺に手招きをしていた。予期せぬ有名人の襲来にクラスメイトはざわつき始めていて、このまま放置したら収拾がつかなくなりそうだ。

 やれなんの用かと慌てて立ち上がる。しかしよく見れば、彼女の手には教科書が握られているようだった。


「森谷、ヘルプ」

「なんかあった?」

「和訳、あんまりしっくりこなくて」


 廊下の真ん中ではやり取りに難儀するからか、字城は近くの学年共用スペースまで俺を連れ出してから教科書を開いた。範囲的に、今ちょうど授業で取り扱っている箇所だ。もちろん、テストで出題される可能性を孕んでいる。

 本当に、やると言ったらやり抜くらしい。放課後まで待つのも惜しかったのか、空き時間を見つけて俺を尋ねてきたようだ。……こうやって頼られると、嫌でもやる気になってくる。力を尽くさねば無作法。


「彼らのうちの一人とか、彼女たちのうちの一人とか、そうすれば意味は通るんだけど……。でも、なんか変。ほとんど使わないじゃん、そんな日本語」

「one of them ね。そう訳しても正解になるだろうけど、確かに機能的ではないよな」


 字城が悩んでいたのはイディオムの扱い。和訳特有のカタコト感が気に入らないようで、「これ、どうすればいい?」と眉根を寄せている。芸術の世界に身を置く彼女だから、こういう美しくない日本語が嫌なのだろう。これを乗り越えたところで点数アップが狙えるわけではないが、頼ってもらった以上こっちも本気で応えないと。


「文意を汲み取ってそれっぽい日本語を割り振るのが一番かな。ここでの one ってつまり、主体のない第三者とか有象無象の一人とかを指してるわけで。文全体のニュアンスとしては、そういうやつもいましたよって感じだし」

「じゃあ、その中に遠くから眺めているだけの人が一人いた、みたいな?」

「悪くないと思う。ただ、熟語のパーツを今みたいに遠くに離しちゃうと文章理解してないって判定されて減点食らったりするから、その中の一人が~から始める方が無難かも」

「…………」

「いや、言いたいことはすごいわかるよ。全然美しくないよな」


 ただ、美しい文章を組み立てたからってそれが点数に結びつかないのが学校英語であり受験英語だ。求められているのはいかに文章に忠実になれるか。意訳の領域に足を突っ込むと、手痛いしっぺ返しを食らう。

 あくまで点数のためだと字城をなだめすかして、どうにか受け入れてもらった。「ありがと森谷。じゃあ放課後」早足で去っていく字城の後ろ姿を改めてまじまじ見つめる。しゃんと伸びた背筋には無類の存在感があって、見る者を無意識に惹きつけるスター性の片鱗がうかがえる。相変わらず画になりすぎて怖いくらいだ。

 それにしても、one of them か。その他大勢の一人。栄光への輝かしい道を歩いている字城視点からの俺が、ちょうどそれに該当すると思う。たとえに出していればわかりやすかっただろうか。


 彼女の学習意欲の高まりに感心しつつ、指導法に誤りがなかったかと反省しながら教室に戻る。――そんな俺を出迎えたのは、クラスメイトからの手荒い歓迎だった。


「もーりやっ! はーなせっ!」

 

 男子数名に組み付かれて身動きを封じられ、さながら取調室の刑事のように俺に自白を強要してくる。はあ? こっちには黙秘権があるんだが? ……そう主張したいのはやまやまなのだが、変に黙ると余計に燃え広がるからよくない。だから正直に、


「勉強教えてんの。ほら、俺ってこの学年で一番優秀だってお墨付きもらってるじゃん? どうせ教わるならできるやつの世話になった方がいいだろ?」


 できる限りうざったく、気障っぽく。論点からみんなを遠ざけるように。


「向こうから頼んできたのかよー」


 しかし、言葉一つでおさまるような熱気ではなかった。素顔が謎のベールに包まれたままの字城に接近した人間には希少価値が生まれる。ミーハー根性はなにも俺に限った話ではなく、高校生なら誰だって持っているものなのだ。


「先生の仲介。前に全校放送で呼び出されたとき、ちょこちょこっと」

「かーっ、羨ましいな畜生。美人の横顔眺めたい放題じゃねえか」

「成績上げればお鉢が回って来るかもよ」

「どんな会話すんの? そもそも字城がどういう性格なのかもわかんないんだけど」

「普通だよ普通。今日は天気がいいですね。昼休み明けの国語は眠くて辛いですね。早起きすると一日得した気分になりますね。そんな感じ」

「普通の高校生はそんな会話しねーっての」

「世間話のたとえだって。察してくれ」

「ってか惚れた?」

「雲の上の存在すぎて邪なことなんか一切」


 俗っぽい質問をいなし続けるが、止まる気配はなかった。いつか明らかになる関係だとは思っていたが、いざ直面すると多方面からの食いつきがすさまじい。字城は排他的な性格をした孤高の存在。独り歩きしたその噂から一転して俺と普通にやり取りをしていたのだし、無理からぬことか。

 たぶん、字城が嫌っているのはこういう空気なんだと思う。無邪気ゆえ増幅する悪意というか、集団的意識の膨張というか、とにかく自分の一挙手一投足がゴシップになる感じ。ただでさえ男女が仲良くしているだけで冷やかしを受けるような学校社会で、字城の存在は大きすぎる。余人には及びもつかないような才能があって、他者を寄せ付けない雰囲気があって、おまけに美人と来ている。そこに接点が生まれたら、人がなだれ込むのも予定調和。


「だけど、意外と普通の人だよ」


 しかし、これだけは伝える義務があった。彼女が今後も学生をやっていくのなら、それが容易な空気感が用意されているべきなのだ。理解しがたい存在として腫れ物みたいに扱うのは違う。


「寝不足のときは機嫌悪いし、動物好きっぽいし、そういう生態は俺たちとまんま一緒」


 たまたま近づいた身として、せめて彼女と世界とをつなげるパイプになれれば。俺にあるのはその思いだけだ。……自分だけが知っていたはずの情報群をあっさり公開してしまうことに若干のためらいこそあったが、微々たる優越感か彼女の過ごしやすさかで前者を選ぶ理由がない。

 先入観が偏見を生む。事実、最初は俺だってそういう目を持っていた。だけど、素顔の彼女は拍子抜けするほどに普通の少女で、変に構えてかかることの愚かさを思い知らされたものだ。


 俺の見た景色を、少しでも誰かと共有できたら。


 字城の生きにくさだって、いくらかマシになるのではないか。


「どっかーん!」

「うおっと……!」

「ほらほら、けーくんまだお昼食べられてないんだからみんな気にしてあげなよー」


 なおも続きそうだった質問責めの気配を断ち切ったのは鞘戸だった。彼女は俺のことを横から突き飛ばすと、ぐいぐい席まで押し出していく。昼休みは有限だから、みんなひとまずその言葉に乗っかったらしい。


「そういや鞘戸がいたな」


 去り際に聞こえた言葉の意図はわかりかねたが、ヒートアップはピークを終えた。このままでは腹の虫をおさえつけながら午後の授業と戦うことを余儀なくされたから、鞘戸の乱入は助かった。誤解とか、先入観とかいうものは、一朝一夕で解消されない。はるか長い期間をかけて醸成されるものなのだから、打ち消すにもそれなりの時間が要る。……根気強くだな、うん。


「助かった。お腹減ってたんだ」

「いいよいいよ。……それより、ほんと仲良くなったんだね。字城さんと」

「仲良く……って言われると微妙なラインだけど」


 手近な椅子を引っ張り寄せ、鞘戸が俺の机に陣取った。もちろん、傍らには相良もいて、昼食のおにぎりをぱくついている。


「仲良しだよ。そうじゃないと、この前みたいに怒れないもん」

「あれは俺の暴走みたいなもんだし」

「けーくんが親身になってくれるから、字城さんも遠慮なく頼れるんだと思うなー」


 さあ、どうだか。言って、弁当箱を開いた。白米を箸で掴んで口許に運びながら、仲良く……という言葉を脳内で噛み砕く。

 俺と字城は、たぶん友達ではない。ファンと推しとか、先生と生徒とか、そういう役柄を当てはめる方がしっくりくる。そもそも友達を名乗ろうにも、俺はまだまだ字城のパーソナルな部分について無知すぎるのだ。


「気にしないでよ森谷。鞘戸ってば、森谷が字城さんにかまけて全然自分の相手してくれないからイライラしてんの」

「ちょっ、夕ちゃん!?」

「俺としては、てんなにはいい加減独り立ちしてもらいたいんだけどなあ」

「けーくんまで!?」

「いやいやマジ。少なくとも次のテストはお前の勉強見てやれないかもしんない」

「えっ……」


 鞘戸は一気に顔面蒼白になって、


「ほ、ほんとに?」

「俺がてんなに嘘ついたことあるか?」

「……それなりにあると思うけど」

「まあそれはさておいて、実のところ字城さんの成績が結構ギリギリでさ。本番まで付きっ切りでなんとかって感じなんだ」

「わ、私も付きっ切りでなんとかしてもらわないとヤバいかもなー」

「てんなはまずちゃんと授業受けろよ。午前中いびきかいてたぞ」

「……っ!」


 頬を赤らめ、ばっと口を手で覆う鞘戸。堂々と居眠りする割に、乙女として最低限の恥じらいは残っているようだ。


「まあ嘘だけど」

「な、なぁーーーっ!!」

「テスト直前の詰め込み学習にもそろそろ限界見えてきてるんだから。あんまり成績酷いとレギュラー剥奪されるかもよ」

「そ、それは、うん……」

「てんなはやればできる子なんだから、まず手ぇ動かしてみな? そのうえでどうしようもないってなったら、俺も手伝う」

「ほんと?」

「言ったろ。俺がお前に嘘ついたことなんてないよ」

「それがもう嘘じゃん!」


 おっと、そういえば今さっきホラ吹いたばっかだったっけ。適当に煙に巻こうとしすぎたか。鞘戸も地頭は優れている方だから、毎日と言わないまでも週に一、二回復習作業の時間を設けるだけで見違えると思うんだけどな。


「ダメだよ森谷~。鞘戸、テスト前は森谷となが~くおしゃべりできるボーナスタイムだと思ってるんだから」

「ええ……。いっぺん見捨てた方が薬になると考えますがどうでしょうか相良さん」

「さんせ~。そしたら私が鞘戸独り占めする~」

「もう、二人とも勝手に話進めないでよぉ!」


 テストで鞘戸がやらかすという前提で話が進行している。それに腹を立ててか、ぷんぷんという擬音が聞こえてきそうなほど顔を紅潮させた鞘戸。このまま放置はさすがにかわいそうだから、飴の一つもぶら下げておくべきか。


「まあまあ、この前のテストより点数良かったらなんかご褒美でも考えとくから」

「聞いたよ! 覚えたからね!」

「良かったらだからな」

「私だってやればできるんだから!」


 この程度で燃えてくれるならありがたい。なんて、さっきみたいに世話になることが多々あるから、鞘戸には日常的に感謝しているんだけど。

 とにかく、目下の課題は字城をどう導くか。さあ、俺の手腕が問われるところだ。

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