第9話 また明日

 どたどたと騒がしい足音が廊下から鳴り響いている。高校生にもなってちょっと落ち着きがなさすぎるんじゃないですかと一言諭してあげたくなるような慌ただしさだったが、その足音の主が高校生などではなかったことが明らかになって、よりいっそう「ちょっと落ち着きがなさすぎるんじゃないですか」の思いが高まった。もしかすると、口に出していた可能性もある。


「あ、さとみー」


 最初に気付いたのは鞘戸だった。仲の良い友達に接するように手をぶんぶんと振り、呼吸を乱しながら教室までやってきた人物に声をかける。しかしながら、『さとみー』なる愛称で呼ばれた彼はれっきとした我が校の教諭であり、長幼の序を重んじるのであれば『里見先生』とするのが的確だった。


「おお、鞘戸。元気そうでなにより。ところで森谷はいるか?」

「けーくんならそっちに」


 体格が良く、ともすれば体育教師に間違われかねない里見教諭だが、実際のところ受け持っている科目は国語。さらに、威圧感を与える見た目とは裏腹に、生徒に厳しく接するタイプではない。あだ名で呼ばれることにも抵抗はないらしく、気にかけず「森谷、ちょっとこっちに」と俺に対して手招きをしている。


 先生に呼び出される。この出来事を好ましく捉える学生がいたとしたら、変人の誹りを免れないだろうなと思う。往々にして呼び出しと説教がセットメニューとして提供されているというのはもちろん、短い休み時間を教師の手によって使いつぶされるのは単純に面白くない。授業で何時間何十分と顔を合わせるのだから、せめて数分の休み時間くらいそっとしておいてくれよというのが正直な思いになるだろう。


 そして、それは俺とて例外ではなかった。クラス運営や誰かの手伝いというのに積極的に参加する方ではあるが、一方で貧乏くじを引かされているなという感覚も確かに持っている。素行優良で成績優秀がために、不要な有名税を払わされている感は否定できない。


「どうしました?」


 さらに、こと今回に関して言えば、里見教諭の来襲というのは俺にとって肝の冷える事態に他ならないのだ。字城とわのお付きとしての役割を受け、表面上は勉強の面倒を見ている立場。けれど実際は美術室に通うだけ通って彼女が絵を描く様子を眺めているだけ。少なくとも、当初受け持った仕事をまるでこなしていないのは確かで、それが明るみになった可能性がある。

 あれやこれやと考え、頭が混乱する。ただでさえ昨日、勢い任せで字城に向かって行った記憶だってまだまだ薄れていないのに、連日イベントが畳みかけてくるというのか。


「森谷!」


 里見教諭の大きな手が、勢いよく俺の両肩に置かれる。当然、驚く。教師陣の中では親しみやすいとされる彼だが、その目には凄味があって全身が妙に強張った。お縄か。お縄に違いないな。そう観念して、言い訳の練りこみを始めると、


「お前ならとは言ったが、まさか本当にやってくれるとはな!」

「…………あの、先生、みんなびっくりしてるんで」

「ああ、すまんすまん。つい昂ってしまって」


 はは、と豪快に笑いながら、ジェスチャーで俺を外に導く先生。必然的に、これからする話は人に聞かせるものではないのが見て取れる。けれども、当初俺が目論んでいた流れとは違う雰囲気があって、余計頭がこんがらがった。本当にやってくれるとはなんだ。俺はなにもしていない。なにもしなかったことにかけては、他の誰にも負けない自信すらある。


「いくら森谷といえど、さすがに難しいかと思っていたんだがな」


 先生はもったいつけて頬を緩ませると、先ほど同様に俺の肩をがしりと掴んだ。責める意図がないのは経験上理解しているのだが、初めてやられたときはたいそう怯えたものだ。このまま膝裏を蹴手繰られたら、美しい大外刈りが完成するのだから。


「いやぁ、ははは。俺にかかればこれくらい」


 展開は全く読めていないが、ちょっと誇らしげにふるまってみる。「頼もしいな!」先生もそれに追随し、うんうんとその場で何度も頷いて見せた。

 さて、話を強引に合わせたはいいものの、なにが起こっているかはさっぱり理解できていない現状。ストレートに問い質したいのはやまやまなのだが、そこからボロを出しては元も子もないという理由で肝心の一歩を踏み込めずにいる。おおよそ字城にまつわる案件なのは推察できているが、それ以外はさっぱりだ。


「どんな調子ですかね?」


 どんなってなんだ。調子ってなんだ。そう問い詰められたらお手上げだが、意外とそうはならないことを知っている。英語でいうところのHow are you? とか What's up? とかに相当する万能な質問は、小手調べには最適だ。なにせ、主語や目的語を出さずとも、向こうが勝手に補足してくれるんだから。


「それがだな、今日の頭からついさっきまで、きちんと授業を受けているんだ。俺も自分の目で確かめたから間違いない」

「……あ」

「どうした?」

「ああいや、色々試した成果が出てうれしいなって」


 字城さんが? とは聞けない。探りを入れた意味がなくなる。……もたらされた情報に内心動揺しているのを取り繕いつつ、言う。


「それで報告に?」

「ああ、クラスが違う以上、森谷に確かめる術はないだろうと思ってな。こんな勝手なお願いを押し付けた以上、伝書鳩の代わりくらいは務めるさ」

「鳩って」


 受け答えの最中、無限に沸き上がる疑問の種。退学を後ろ向きに捉えていなかった彼女が、どうして今さら授業なんかに臨むのか。気分屋なのは知っているが、その気分とやらが恒久的に乗らなかったからこそ成績が悪化の一途をたどったはずなのだ。崖っぷちに立って初めて学生でいられることのありがたみを理解した可能性を完全に否定できるわけではないが、正直、今の彼女がここからひと月足掻いたところで、赤点レベルから抜け出せるかどうかも怪しい。そんなこと、本人が一番わかっているはずなのに。


「そろそろ次の授業だな。じゃあ森谷、困ったことがあればいつでも相談してくれ」

「そうならないよう努めます」


 先生が立ち去っても、ついぞ疑問が尽きることはなかった。一番手っ取り早い解消法は字城本人に尋ねてしまうことだが、昨日も実感したように、俺と彼女は美術室の外でのつながりを持たない。それどころか、変に見知ってしまったせいでただの他人よりも面倒な距離ができている気がする。

 だから、結局は悶々としたまま放課後を待つしかないのだ。幸か不幸か、俺たちには「また明日」の約束があるのだから。

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