奈良の竜を喰う菩薩

水心 白夜

前篇 日本 奈良県

第1話 大道町の怪異


 奈良県奈良市、破石町わりいしちょうのバス停にて。この日の朝も僕はAirPods Proで『ターゲット1900』の英単語を聴きながら市内循環バスを待っていた。


 もう八重桜の時期ではあるが、時折カーディガンの細かい目を春一番のような冷たい風が吹き抜ける奈良盆地。おそらく今年も5月になるまでカーディガンが手放せないのだろう。


 破石町の前の停留所である高畑町をバスが発車したと、傍に立つ四角い柱からアナウンスが告げる。きっとあと二分もしないうちに到着するはずだ。


 この頭塔ずとうを背にした東向きのバス停ならどれに乗っても降車地の近鉄奈良駅には着くが、朝はやはり市内循環バスに乗りたくなる。

 昼には観光客で賑わう市内循環バスだが、今ならまるで静まり返った法堂にいるかの如く過ごせるから、少し得した気分になれるのだ。


 僕の家は破石町とその次の停留所である春日大社表参道の間に位置する。とはいえ春日大社表参道のバス停は急な坂道を登った先にあるため、僕はいつもこの破石町でバスを待っている。


 幼馴染の金剛運こんごうさだめはそんな僕と真逆の事をする。お隣さんの彼は志賀直哉旧居に近い東側に住んでおりバス停への道のりは僕より遠いわけだが、朝から坂道越えをして春日大社表参道のバス停から市内循環バスに乗る。


 彼曰く、浮見堂うきみどうを左手に飛火野とびひのを右手にして朝の春日山原始林の空気を吸いながら坂道を歩くのは、身に余るほど贅沢な時間らしい。鹿臭さが森に化けたようなひと時だということは僕にもわかる。


 視界の端に黄色いバスが映り、ドアの軋む音と共に目の前に停車した。


 市内循環バスは総じて黄色い。英語の苦手な運転手が観光客を市内循環バスへと案内する際単に「Yellow bus」と言うくらいだから、おそらくこの辺りを走る黄色いバスは市内循環バスだけなのだろう。


 市内循環バスの運賃は先払い。CI-CA——奈良交通専用のICカード——に現金をチャージしておくと多少お得に乗れる。


 僕は聞き慣れた電子音と共に運転手の横を通り抜け、いつもバスの中ほどにあるステップを一段上がったところの二人席に腰掛けた。


 破石町の小さな交差点で信号待ちを終えたバスがゆっくりと動き出す。対向車線の向こうに見えて来る大型駐車場の横を通り過ぎると、ささやきの小径へと続く家の前の道が見え、小さな竹林を過ぎれば朝日を浴びた飛火野が広がる。


 何ヶ月も前から念入りに計画を立ててやって来た観光客が早起きをして見るこの景色が、僕の通学路だ。


 そう思うと、奈良公園の鹿が蚤を置いていくせいで庭に洗濯物が干せなくなるとか、もうすぐ咲きそうだと楽しみにしていた蕾を鹿に食べられるとか、車道を地獄渡する鹿を待つせいでバスが遅延し電車を逃す等といったこの辺りに住む事で被る弊害も我慢できる。


 朝露に濡れた飛火野の遥か向こうに高円山たかまどやまの大文字を見て、僕はイヤホンをNorth Faceのリュックサックに仕舞った。


 春日大社表参道にて、市内循環バスは停車した。


 乗ってきたのは観光客ではない。とはいえ彼が学生服を着ていなければ世間の人は観光客だと思っただろう。


「おはようさん。今日も朝から菩薩の顔拝めて幸せやわぁ」


 イントネーションも完璧な関西弁を話しいつもの如く僕の左隣に座ったさだめは、どう見ても西洋人だった。


「おはようさん……」


 僕は挨拶してから俯いて欠伸をした。


「なんやねん。朝からテンションっくいなぁ〜!そんなんで今週いっぱいやってけんのか?」


「大丈夫。明日土曜やし」


 目を擦りながら右隣の車窓から春日大社の参道を見ると、一人の観光客もいなかった。こういった景色によって朝を感じるのは好きだ。


「なんや、曜日感覚しっかりしとるやん。ほむら朝はいつも元気無いから、俺心配してんねんで?」


「運は朝からテンション高すぎんねん」


 東大寺の前の信号をバスが鹿を轢かないようにゆっくりと曲がる。いつも観光客で埋め尽くされる南大門までの道さえ今は石畳が見えていた。


「若いねんから元気出しや〜。若い時間なんかほんま一瞬やで?」


「自分いくつやねん」


「十七。九月一日で十八や!」


「今なんで誕生日までうたん?まだ五ヶ月くらい先やろ」


 市内循環バスは待ち人のいない奈良国立博物館前のバス停を通り過ぎ、氷室神社に近づいた。先日までは満開だった境内も、葉桜がずいぶん目立っている。そこで景色から目を離し、僕は運の顔を見た。


「だって、忘れられたら悲しいやろ?こーゆーのは機会あるごとにうとかんと」


 透明感のある真っ白な肌に青い瞳。生徒指導の教師も諦めたどう見ても遺伝による金髪。加えて左のこめかみの上あたりに編み込みまでしているのだから、どれほど早起きかなど想像に難くない。


「忘れん忘れん。ほんまいつからの付き合いやと思ってるん?」


「年少さんからやから、三歳やな」


「せやろ?そんな僕に千度うくらいやったら、高校の子ぉにうたり」


 県庁東の大きな交差点で市内循環バスは停車した。ここの信号にはしばしば止められる。


「ええねん。あいつらはほっといたかて勝手に覚えとる」


「へぇ。たいしたもんやなぁ」


「あいつら阿呆やからそんな事しか覚えよらへんねん」


「大和高校の友だちやねんからそんなことないやろ」


 大和高校は奈良県で一番偏差値の高い高等学校として有名だ。祖母のとみによれば、それは昔から変わらないらしい。


「ちゃうちゃう。あいつらは〝友だち〟ってより〝取り巻き〟や。友だちってのは、友だちがあかんことしてたら注意するもんやろ?あいつら俺が何したかて肯定しよるから、友だちちゃうねん」


 運は肩を竦めて鼻で笑った。


「へぇ。相変わらずやなぁ……。そんなん運が他校の子ぉに喧嘩ふっかけられて我慢せんとボコボコにするから、お育ちの良いご学友は引いてはるんちゃう?」


「それなぁ、一年の頃は俺もそうかなぁて思とったんやけど…三年なっても変わらんし、やっぱちゃうわ」


 バスの降車ボタンが押された。朝に県庁前・興福寺のバス停で降りるのは、観光客ではなく県庁の職員だ。


「せやかて、うちの大和北高校にまで〝大和高校の皇帝ってやつがめっちゃ凄いらしい〟って噂流れとるで。皇帝って、明らかに運やんな?あんま無茶しなや」


「ははっ!そこは疑ってくれへんねやなぁ〜」


 運は快活に笑った。


「当然やろ。中学校までずっとその渾名ついとったやん」


 ようやく長い赤信号から解放されて、市内循環バスは交差点を発車した。


「そーいやせやなぁ。渾名のルーツってほんま謎やんな〜」


「えっ。いつも態度でかいからちゃうの……」


 奈良公園の松林の横にある県庁前・興福寺で市内循環バスは停車した。県庁の職員らしき五人の乗客が降りていった。

 いってらっしゃい。今日も奈良県を宜しくと、僕はいつも心中で呟いて見送る。


「そうかぁ?まぁ俺のはともかく、焔の〝菩薩〟は納得やけどな」


 乗客はおらず、後ろ扉だけを開閉して、市内循環バスは発車した。


「いやいやいや。僕はまだ納得してへんからな。菩薩は如来と違って修行中で〝現世の欲がまだ断ち切れてへん〟って所しか共通点見出せへんし」


「それ、如来と違って菩薩の装飾品が多い理由やん」


 運はからかうように笑った。


「僕は春日さんの玉鬘たまかずらしかつけてへんからな」


「もう内申点とかあらへんし、我慢せんくてええんやで?」


「してへんしてへん。だいたい体育の度に外さんならんやん。玉鬘はつけてたかて怒られた事無いけど」


「そりゃそうやろ。大抵の事は宗教上の理由で〜とかうといたらなんとかなるわ」


「それほんま大丈夫なんやろか…」


「おっ!やるん?」


「やるわけないやろ。僕は真面目な生徒やねん」


 近鉄奈良駅を目前にして、市内循環バスは再び信号に止められた。左前方に東向通りと行基の噴水が見えたが、やはり観光客は見当たらない。


「そういや行基さんは菩薩って呼ばれるよなぁ」


 運も噴水を見ていたようだった。


「せやなぁ。装飾品はつけてはらへんけどな」


 信号はすぐに変わり、市内循環バスは動き出した。


「だってあれ袈裟着てはるやん。袈裟って学ランみたいなもんやろ?せやったら焔と一緒ちゃう?」


「上手くうたつもりやろうけど、だいぶ罰当たりやで」


「はははっ!俺に罰当てられる奴なんか地球にはそうおらん」


「たぶんそーゆーとこやで、皇帝言われんの」


 近鉄ビルを通り過ぎ、交番の前で市内循環バスは停車した。乗客の誰もが降車ボタンを押さずとも、運転手は知っていると言わんばかりに近鉄奈良駅とJR奈良駅ではバスを停めてくれる。


 僕は急ぐ乗客が先に降りるのを待ってから、運とバスを降りてすぐの所にある地下へと続く階段より近鉄奈良駅の改札口に向かった。


 ◆◇◆


 運は近鉄奈良駅から約五分で到着する大和西大寺駅にてたとえ乗り換えることになっても、いつも大阪方面に向かう僕と同じ電車に乗る。大和西大寺で乗り換えても、次の高の原駅で降りるから席に座れるかどうか等はどうでも良いらしい。


 僕らはいつも左側のソファに座って朱雀門を背に平城宮跡を見つめる。平城宮跡は新大宮駅と大和西大寺駅の間にある広漠たる大平原を含む公園だ。秋になればススキの美しい場所だが、今の季節は所々桜が見られる。


 運も平城宮跡を眺めている間は静かにしていることが多い。きっと僕と同じくこのだだっ広い草原に何か思うところがあるのだろう。


 僕は平城宮跡を見ると初めての海外旅行先だった中国を思い出す。中国は道路も駅も公園も、日本の倍以上の大きさだった。もちろん小学生が遊ぶような小さな公園もあるが、たいていの公園は平城宮跡に匹敵するほど広い。きっと、思う存分土地を使っても有り余るほど広大な国土なのだろう。地平線まで続くトウモロコシ畑を見つけた時、派手好きな僕の心が小躍りしたのを覚えている。


「なぁ。焔なら、この土地どう使う?」


 運は相変わらず平城宮跡を見つめていた。


「なんや急に。広すぎて想像つかんわ。運ならどうするん?」


「ん?いやぁ…研究がどんくらい進んでんのとかは知らんけど、奈良時代の服装で奈良時代の生活を体験できるようにしたら、観光客は喜ぶ気ぃするわ」


「そりゃおもろそうやけど無茶言うなぁ〜。雰囲気とかまで考えるんやったら、周りの環境とかと切り離すんは難しいんちゃう?」


 大和西大寺駅に近づいて電車が速度を落とし始める。今ならきっと自転車で追い抜ける。


「そうか?そーゆー体験型の施設みたいなもん作るんやったら、バイトにも同じことさして奈良時代の人になりきってもろたら雰囲気くらいは出るやろ。まぁ、単に奈良時代の服着て宿泊させるってだけでも観光客は喜びそうやけどなぁ」


「それはわかるけど、なんか安定の人使いの荒さ発揮してるで」


 大和西大寺駅に着いて電車が停まった。扉が開くなり大袈裟な音量の構内放送が聞こえてくる。


 大和西大寺駅は奈良市の交通の要だ。僕が降りる学園前駅のような大阪や神戸方面、運が降りる高の原駅のような京都方面、橿原神宮前駅や天理駅のような奈良南方面、そして言うまでもない近鉄奈良方面、それら全ての線が集まる大和西大寺駅の駅員は乗客が乗り換えを失敗しないようにいつも声を張り上げている。


「行ってらっしゃい、気ぃつけて」


「おおきに。焔も気ぃつけて〜」


 運は扉の枠に頭をぶつけないよう少し屈んでホームへ降りてから、振り向かずに手を振って向かい側に止まっていた京都行き急行に乗ってしまった。


 ◆◇◆


 この日は珍しく二度も運を見た。

 家が隣りでお互い帰宅部だろうとも、僕は放課後の教室でしばしば友人たちの悩み事を聞いてから帰宅するため下校後に運と会うことは少ないのだ。


 今日もホームルームの後すぐ帰るつもりで荷造りをしていたのに、他クラスの友人が訪ねて来て「恋愛は好きになった方が負けだと思う」等と吐露したため、結局一時間半も話し込んで帰ってきた。


 そんな僕が二度目に運を見たのは駅等ではなく、家の前を通る大道町だいどうちょうの坂道だった。


 普段は鳥や鹿の鳴き声くらいしか聞こえてこない閑静な住宅地だから、姿が見えないうちから声の主が運だということはわかっていた。


 しばらく行くと、家の門を開け放ちその木製の扉に左手をついて誰かと話している運が見えてきた。


 表情が夕日に染められているせいで運の肌が如何に白いか、またその横に立つ中東系の顔立ちの彼の肌が如何に褐色なのかもよくわかった。


 もちろん僕の目には中東系に映ったというだけで、彼と面識は無い。シルクロードの胡人を彷彿とさせる民族衣装のような袴姿が運より少し背が高く二メートルはありそうな彼を中東系だと思わせたのだ。


 驚いたのは、二人の会話が英語ではなく中国語でされていた事だ。僕の偏見では世界の共通言語は英語だった。


 英語であれば祖母に言われて幼い頃から勉強しているため不自由なく話せるが、中国語となると話は別だ。中国旅行をした時に英語と語順が似ていると知り、勉強して日常会話はできるようになったもののビジネス会話レベルには到底至れていない。


 そのせいか、英語より中国語は話す時にやや畏まった気持ちになってしまう。皇帝と話す際に使われた言語だから当然のことかもしれないが。


「おー。おかえり。なんや今日もえらい遅かってんなぁ」


「ただいま。せやねん」


 運の正面に立つ見知らぬ彼に僕は礼儀上会釈した。お辞儀の文化はアジア系以外の外国人には理解しにくいと聞くからどの程度意味のある行為かはわからなかったが、僕は自然とやってしまった。


「あー。こいつオルレアンってうねん。一応英語通じるで」


 運は立てた親指でオルレアンを指した。オルレアンはその親指を無表情で見つめた。


「そうなん?それ早ようてや」


 オルレアンの瞳は黄土色で四角形だった。こんな瞳を僕は初めて見たが、人の顔を凝視するのは失礼だと思い意識してあまり見ないようにした。


「えっと、挨拶遅れて失礼しました。僕は迦楼羅かるらほむらっていいます。運の家の隣に住んでるもんです」


「そうか。話は聞いてる。俺はこいつの仕事仲間だ。きっとこれからも滅多に会わねぇから安心しな」


 オルレアンの話す英語を脳内で勝手に翻訳すると、なんだか初対面にして突き放されたような気がした。背が著しく高いせいか下を向きがちで、まるで石ころの選別でもしているかのように地面を見つめていたからかもしれない。


「いやいや〜。この辺は鹿しかおらんなんも無いとこやけど、気が向いたらまたいつでも来てください」


 おそらく同い年くらいなのに、オルレアンは死を知った者のような雰囲気を纏っていた。ずいぶん苦労人なのかもしれない。


「焔、あんまこいつに気ぃつかわんでええで。何ゆうたかてどうせ好きな頻度でしか来よらんし」


 運が話す英語を久しぶりに聞いた。相変わらず綺麗なBBC英語だった。


 運の言葉を聞いたオルレアンは、初めて光の有る瞳で運に向き直った。


「俺が最近どのくらい忙しいかわかってんだろ?それでも時差計算してわざわざここまで足運んでんだ。俺も体調不良でいつまでまともに仕事できるかわかんねぇ。この頻度に文句あるなら自分で提出しろっ…!」


 オルレアンは運に背を向けるなり、突如立ち込めたもやの中へと消え、その姿を呑み込んだ水蒸気は瞬きのうちに見えなくなった。


 後は言葉を殺すいつもの幽寂な大道町の景色が広がっているだけだった。



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