word43 「折原さん なぜ」①

「よし……」


 男子トイレの中で鏡に映った自分を見ながら小さく言った。


 生徒たちが使う教室からは少し離れた位置にある特別教室棟のトイレでは人の気配を全く感じられなかった。自分が流したトイレの音がせせらぐという言葉が似合うくらいにだけ聞こえる。


 自分の掃除場所から遠回りしてここに来た僕にとって望み通りの環境だった。僕はこのトイレに用を足しに来たと言うよりはゆっくり鏡を見に来た。


 指の間まで入念に手を洗い、服に乱れたところが無いかを確認し、髪を自分のベストに調整し終えた僕は大きく息を吐きながら廊下へ出る。


 よく晴れた今日という日、僕はずっとこうしていつもはしない行動を取っていた。授業中もずっと教科書に載っていることではなく、別のことを考えていた。頭の中はあることでいっぱいで、その為だけに体を捧げていた。


 なにゆえに僕がそういう状態になっているかと言えば、そう……今日は軽音部に入部して初めて活動に参加する日だからである。僕が好きになってしまった女子、折原と会うからである。


 今、せっかくセットした髪が乱れないように頭を掻くふりをして抑えているのも、折原と会うから。


 朝、家族に隠れてこそこそと念入りにおしゃれをしたのも、折原と会うから。


 昼、弁当をあまり食べず、食後に良い匂いがするガムをただのゴムよりも味がしなくなるまで嚙んだのも、折原に会うから。


 学校にギターを持ってきたのも、何度もシミュレーションしたのも、他の女子には一切近づかなかったのも、足の小指に赤い糸を巻き付けるなんて小学生女子みたいな恋のおまじないをしているのも……。


 全ては折原に会う時の為だ。


 今日はずっと前から目標にしていた決戦の日なのだ。


 今のところ全ては順調だった。何も問題は起こっていない。だからこそ自信にも繋がっているし、割とリラックスできている。


 もうあとは帰りのSHRが終われば戦いが始まるというのに、緊張とかはしていない。この分ならたぶん前と違って話しかけることくらいはできると思う……。


「今日は軽音楽部が音楽室使えるんだっけ?」


 教室に戻った僕はすぐに親友に言った。元々軽音楽部に所属している眼鏡の親友に遠回しにこれから一緒に行くことを確かめた。


「うん。今日は吹奏楽部練習休みらしいからうちらが使っていいって聞いてる」


「楽しみだわ。俺、外に音出してギター弾くの初めてだから」


「俺もお前のギター早く聞いてみてえよ。なんか思ったより練習してるみたいだし」


「そう、聞いたら腰抜かすかも分からんよ。あまりの音色に」


「あ、それでよ……俺今日部活いけなくなっちまったわ」


 こっちのほうも大丈夫そうでよしよしと思っていた矢先のことだった。親友はさらっと想定外を口にした。


「え」


「なんか急用入っちゃって、すぐに家に帰らんといけんくなった」


「マジ?」


「マジ」


「……そっか。そうなんだ、じゃあ俺の演奏が聞けるのはまた今度か」


「うん。ごめんな。どうしても外せなくて。それで今日はお前だけで行くの?」


「ああ……まあ、えっと行こうかな。一応」


 そう答えてみるけれど、内心はけっこう心細くて迷いが生まれていた。室内だというのに冷たい風が吹き抜けてきた気がする。


 しかし、ここでやめては今までの準備がもったいないだろ……。僕は自分の席に戻りながら、もう一度覚悟を固めようとした。


「――じゃあ、また明日な」


 背中から言われた言葉が僕にはずっと遠くから言われたように聞こえた。



 ――SHRが終わると初めて学校に持ってきたギターを背負って1人で教室を出た。もう頼れる相棒はこいつだけ、こいつさえいれば親友はいなくたって軽音楽部に参加できる。練習もしてきたし不安になることなどない。


 軽音楽部の知り合いだって何も親友だけという訳ではない。同級生の男子がいるし、親友の友達というだけあって何度も話したことがある奴がいて、ご飯を一緒に食べたこともある。


 それに親友がいなきゃ何もできないなんて格好悪いし、むしろ親友ほど近しい奴がいれば逆に女子には話しかけづらかったかもしれない。ずっと親友と話してばかりになるという心配がなくなった。言い聞かせるように心で言う。


 最悪、折原に話しかけるというミッションまで達成しなくても軽音楽部に馴染むだけなら何も難しいことは無い……。


 もう1度背筋を伸ばし、近くのガラスでさらっと自分を見た僕が音楽室のドアに手を伸ばした時には、また自信を取り戻していた。


「よし……」


 今日何度か言った感動詞をまた小さく言った。


 そっと開けるのではなく、胸を張って堂々とドアを開ける――。


 しかし、そんな僕を待ち受けていた音楽室には折原ただ一人がいた。

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