違和感のあるヒモ
Olasoni
第1話 紐
ほとんど冷めきらないコーヒーを無理やり飲み干して、男は、旅行かばんを担ぎ、未だ荷造りを終えきらない妻と腕時計とを交互に見比べる。
「おい、急ぐんだ。飛行機に乗り遅れちまう。」
「そんなこと言ったって、このパーカー、紐が片方出ちゃって、反対側が中に入り込んじゃったのよ。あなた、元に戻してくださらない?」言って自分の着ているフードの端をつまみ上げる。
「そんなものはこうだ。」
男は片側から一方的に垂れ下がった紐を一気に外へ引っ張り出して、妻のポケットに押し込んだ。
「まあ、なんてことを。」
「ニューヨークに戻ったら入れなおしてやるさ。さあ、そんなことより早くチェックアウトをしてタクシーに乗らないと。明日からまた仕事なんだ。」
妻の返事も待たず、荷物を抱えて、急いで部屋を出る男。妻はゆっくり後からついてくる。二人は目の前で止まったエレベーターに飛び乗った。
相変わらず妻は動きが遅い。
何がいらいらするかと言えば、多少自分が楽をしようと、世界はきちんと回ってくれていると思っていることだ。
男は、常に気を張らなければならず、二歩三歩と先回りをして妻の不自由を解消しているつもりなのに、肝心の妻は夫の努力と献身に意識を向けた試しがなかった。
男が彼女と結婚したのも、彼女の実家が裕福であるところが大きく、正直、家計の収入は妻の実家の仕送りがないと首が回らない状態だ。
その反動からなのか、男は無意識に妻に冷たくしてしまい、たまに後悔するが、妻は気にしているのか気にしていないのか、男にはよくわからない。
単に無頓着なのであればよいが、実は妻も心にストレスを感じているのではないかと、男は自分を責めることあれど、何かしようという気にはならないのも男自身、自分でわかってるだけに歯がゆい。
タクシーの車窓の中に、この町の日常が広がっている。
早朝のビーチ沿いの道は、観光客が大勢集まる時間に向けて、多くの露店が軒を連ねていて、あちらこちらで開店準備が行われている。
彩色豊かなアクセサリーやTシャツが店一杯に飾られていて、華やかに見えるが、商品はどれも同じよう柄や形のものばかり。どこの店でもだいたい売っているものは同じものだ。数日滞在していれば、そのバリエーションは完璧に覚えてしまう。
店頭に並んでいる何点かの商品と瓜二つのものが、タクシーのトランクに詰め込まれている。店としては、今日の客のために明日の客と違うものを売る道理はないので、相手の日常はこちらの非日常であるというルールが存在しているだけの光景だ。
道の向こうに広がる真っ青な海が、きらきらと不動の輝きを放っている。
けして変わらない景色。変わるのはこちらの日常のほうだ。
タクシーがLAXの空港に到着したころには、既にニューヨーク行きの便の登場手続きが始まっていた。
二人分のチケットとパスポートを片手で確認しながら、男は急いで搭乗手続きを済ませてきた。戻ってみると妻は売店でホットチョコレートのようなものを買い求めているところだった。
「あなたも飲まれるかしら。冷めるまで少し時間がかかりますけど。」
「いらないよ。それを持って早くこっちに着なさい。ゲートはCの16だ。」
「私、窓際がいいわ。」
「君の席は窓際だよ。さあ、早く行こう。」
飛行機は二人を乗せてくれた。
二人が座席に着いて間もなく、飛行機は離陸準備に入った。
とりあえず一安心だ。これで今晩には自宅に帰れる。また明日からいつもの仕事が始まるわけだ。
シートベルトを締めると、急に体から力がすとん、と抜けたようだった。
朝から走りっぱなしだった男は、一眠りしようと目を閉じるが、しばらくすれば窓際の妻がトイレに立つため、夢見心地の自分の肩をゆするのだろうな、と思案した。
反対隣では、黒い肌の白髪のばあさんが腰を下ろし、既に熟睡しているようだった。妻がトイレに立つときはこのばあさんも起こさなければならない。やれやれだ。
やがて加速を始めた飛行機は、ふわりという感触を合図に離陸した。Gのかかりが気持ちよくて、やがて男はうとうとと船をこぎ始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます