6-2


 百合子は不意に、春華を初めて部屋に招いた頃のことを思い出す。あのときの春華は、今よりも遠慮していた。どこに座ればいいのかも分からなくて、視線を泳がせていた。今と変わらないのは、とりあえずで人質になるあのクッションだけである。


「なんか、慣れたわね。あなた」

「どういう意味?」

「自分の部屋みたいな顔して入ってくるんだもの」

「あぁ〜」


 春華は百合子に指摘されて初めて自覚したようだ。しかし、その自覚というものが、百合子の部屋に我が物顔で入ったことなのか、ここが自分の部屋ではないと言われたことなのかは分からない。それほど春華はこの部屋に馴染んでいた。


「あたし、よく来るしね」

「えぇ」

「来ない日、寂しかったりする?」


 春華はクッションを抱きかかえ、いたずらっぽい笑みを浮かべて学習机の椅子に腰掛ける百合子を見上げる。少しキツい印象を受けるが間違いなく美しい春華の目元に、百合子は釘付けになった。モブであることがつくづく信じられない存在であると、小さくため息をつく。


「まさか。翌日会った時に「あぁこんな生徒いたな」って思うわ」

「忘れすぎだって! それはあたしが寂しいし!」


 お互いに冗談だと分かっている。それほどに打ち解けていた。しかし、春華にも知らないことがあった。百合子は春華のことを忘れたりはしない。それはこの現場にいる間だけ、という短期的な話ではなく、おそらくは彼女の魂が消滅するまで、百合子は春華を忘れたりはしない。自分を導き、心にのしかかる後悔という荷物を一緒に持ってくれた人として。

 そして彼女はそれを春華に伝えるつもりはなかった。照れくさいということもあるが、言葉にしてしまえば途端に陳腐になってしまう気がしたのだ。


「というか、あなた。最近は自分の部屋よりも私の部屋にいることの方が多いような気がするわ」

「言われてみれば、そうかも……?」

「何かあったの?」


 春華が部屋に居たがらない理由について、百合子は考えた。モブ達が名残惜しむように誰かの部屋に集まり、消灯までダラダラと話をするのは想像に容易いものである。しかし、百合子は「隣の部屋がうるさい」という愚痴を春華から聞いたことがない。思ったことをすぐに口にする彼女が、実害を被っている隣人の悪口を言わないよう配慮することは考えにくい。

 かと言って、他に理由も思いつかなかった。そして、春華の口から語られたのはもっとシンプルで、どうしようもない理由だった。


「別に? あたしの部屋汚いから」

「あぁ」

「見たことないのに納得するなって!」


 部屋は汚いし、鞄の中は空っぽだし、筆記用具はごちゃごちゃとたくさん持っている。これらはほとんどが百合子の一方的なイメージだが、恐ろしいことに寸分狂わず当たっていた。

 二人は一頻り笑い合った。この時間をかけがえの無いものだと思う反面、徐々に部屋が冷めていくのを感じた。冷房の類いの仕業ではない。二人の気持ちがそう感じさせただけの、ただの幻想である。しかし無視できない感覚だった。

 これから離別してしまうというのに、自分たちの置かれた状況を無視してこうして笑い合っていることが、酷くむなしく思えてしまったのだ。現実を直視していないような気がして、まるで逃げているようにすら感じる。遂には沈黙が部屋に流れ、切り出したのは春華だった。


「あたし、あれから考えてたんだけど……多分、一緒にメインキャラには、なれないよね」

「……どうしたのよ」

「百合子は、絶対にメインキャラ、ううん、主役になれるから」

「うん……?」


 いつもは適当で、行動力だけは人一倍高くて楽観的な春華だが、百合子にこれまで見せたことのないような表情を浮かべていた。それは、百合子のために怒ってくれたあの時とも違う、真剣で、誠実で、それでいてどこか申し訳なさそうな顔だった。

 部屋を訪ねられた時に百合子は違和感を持たなかったが、どうやら何か強い気持ちがあってやってきたようだ。百合子は落としていた視線を春華へと向ける。春華本人も何かしらの気持ちが顔に出ていることは自覚しているだろう。しかし、ポーカーフェイスを気取るような真似はしなかった。視線を交錯させる二人。耐えきれなくなって逸らすのは言いたいことがあるらしい春華の方だろうが、彼女はただじっと、百合子の瞳の中に映る自分を見つめていた。


「あたし……何もできなかったよね。一緒に主役になろうって言ったくせに」

「でも、あなたが居てくれたから、私は犬塚さんに正直に話ができたのよ」


 春華は悔しそうな表情を滲ませて呟く。百合子には、春華の言わんとしていることが分からない。椅子に腰掛けたまま、覗き込むように春華の横顔を見つめてみるが、横顔一つ取っても端整であるということしか分からなかった。


「……そりゃ、そうかもだけど。でも、あたしも一緒じゃなきゃ、嫌じゃん。百合子はさ」

「はい?」


 百合子の声が裏返りそうになる。懺悔のような言葉に、ここは告解室じゃないのよ、なんてぼんやりと考えていた百合子であったが、最後の一言で完全に風向きが変わった。

 一緒に輪廻できればいい、百合子もそこについては否定するつもりはない。しかし、それを望んでいるのは春華の方だと思っていたのだ。しかし、ムキになって否定しても後々恥ずかしい思いをするだけである。かつて、様々なラブコメ作品に出演してきた百合子には、そういう特殊な教養があった。ラブコメ作品を参考にしている時点で少しズレている印象が否めないが、百合子は真剣である。

 思考を浚われ、言葉をどこかに吹っ飛ばされてしまった百合子は、僅かに眉間に皺を寄せて硬直していた。しかし春華は止まらない。


「あたしは、百合子がいつかみたいにわんわん泣く未来に行かないなら、それでいいよ。百合子を救うっていう最低限の目標っていうの? それは達成できたかなって、妥協できる。でもさ、百合子は、あたしがいないと寂しいんじゃない?」


 驚くほどつらつら述べられる言葉に、百合子は目を見開く。ショックを隠せなかった。まるで、「一人でお留守番できるかな?」とママに甘やかされる幼児になった気分だったのである。

 自惚れるなと言えれば、どれだけ簡単だっただろう。しかしどうしてそんなことが言えよう。春華の指摘はほとんどが正解だったのに。

 百合子は投げかけられた問いには答えず、ただ存在する事実のみを述べた。落ち着いた表情を作り、不意に喉の乾きを覚えながら言った。そう、春華はある重要な事実を失念しているのだ。いや、もしかするとそもそも知らないのかもしれない。


「馬鹿ね。私がメインキャラになれたとして……それってつまり、モブだった頃の記憶は全てなくなるのよ。引き継がれるのは基礎の容姿と能力だけ」

「可愛い。否定しないんだ、寂しいの」


 落ち着き払った様子で述べることが出来たが、内容に対して茶々を入れられ、百合子は聞こえなかったことにした。ここで自分に首肯させることに、春華がこだわるとは思えなかったので、それがまかり通ると思った。図星を突かれ、それでも肯定してみせないのは、彼女の意地だ。先輩としてか、女としてか。はっきりとは分からないが、とにかく百合子は意地を張った。

 輪廻のルールについては、概ね百合子の言う通りである。ただし、その世界特有の能力、設定されていない事柄については、輪廻の際にそれまでの性格やスペックを元に適当に後付けされる。当然、メインキャストの中でも、主人公の場合はかなり補正がかかることになる。必ずしもプラスとは言えないのが恐ろしいところだが。


「それでもあたしは、百合子のこと忘れないから。万が一、同じ世界で二人ともモブ以外の何かになれたとしてもね」


 大真面目に言ってのける春華を見つめ、百合子は少し不思議な気持ちになっていた。知らない人に声を掛けられる。立ち止まる。真剣な顔で、「前世からの親友だったんだ」と言われる。本当に春華が記憶を残したままメインキャラクターとして輪廻できたとして、さらにそこで百合子と会ったとして、きっと百合子はそんな春華を、下手クソなナンパをしてきた変な女だと思うだろう。

 そこまで想像して、だけど呆気なく現実を突きつける。


「無理よ」

「やだ」

「やだとかじゃないの」


 無理なものは無理なのだ。第一、モブの記憶が残っているメインキャラクターが発生すると作品の進行に関わる。時代劇のような作品のキャラクターとして生を受けたというのに、「待って、俺、自動販売機って知ってる。お金入れたら無人で飲み物買える」等と言い出したら色々台無しである。モブ時代の記憶を引き継ぐのは、どう足掻いても無理なのだ。

 しかし春華は食い下がった。凛々しい表情のまま子供のような駄々をこねるギャップに、百合子はくすりと笑いながら窘める。


「手に書いておくとか」

「体は持っていけないわよ」

「じゃあ持ち物でメモ持っておくとか!?」

「輪廻は魂一つだけで行われるの。もう、観念なさい」

「くそー……」


 春華は抱いていたクッションを床に転がすと、その上に頭を乗せて寝そべった。打つ手がないことにふてくされた表情を浮かべる春華であったが、百合子はその気持ちだけで十分嬉しかった。

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