5-2


 渡り廊下を歩いて階段を登ると、教室はすぐそこだ。木製の扉を横にスライドさせると、そこにはなんと、ヒロインの犬塚がいた。両手で顔を押さえ、肩を震わせている。顔は一切見えないと言うのに、華奢な肩や艷やかな髪から、美少女であることが分かる。

 百合子が彼女の姿を確認すると同時に、左下のランプが赤く灯る。百合子の心臓が高鳴ったが、それを顔に出すことは一切無い。誰かに見られていると意識していることなどおくびにも出さず、ただ涙を流すクラスメートを見つけてしまった女として振る舞っていた。

 下手に声を掛けて目立つことを恐れる気持ちが無かった訳ではない。しかし、ここで無視するのも不自然だろう。百合子は静かに犬塚に近寄り、できる限り優しく声を掛けた。


「どうしたの?」

「……ごめん。なんでもないから」

「なんでもないなんてこと……あっ、もかしして、どこか痛いの?」

「ううん……」


 犬塚は歯切れ悪く返答をするのみで、はっきりしたことを何も言おうとしなかった。犬塚が構わないでほしいと思うタイプの人物であれば、百合子は自身の鞄を持って教室を後にしただろう。しかし百合子はそこに立ち続けた。


 モブをやっていると、嫌でもメインキャラクター達の性格の分析をすることになる。彼らの性格を把握していた方が、求められている働きをより正確にこなすことができる為である。百合子は犬塚を、人に優しくされたり、声を掛けられることを嫌ったりするタイプではないと見ていた。プライドの高いライバルキャラの白鳥であれば、きっと百合子はその場を無言で離れただろう。一人涙を流していることが教室に入る前から分かっていれば、今日のところは鞄をそのまま放置して寮に戻った可能性すらある。


 百合子が黙って自分を見下ろしていることを察した犬塚は、観念したようにたどたどしく話を始めようとした。百合子が犬塚に無理を強いたのとは少し違う。作中のメインキャラクターにその種の気遣いをさせることなど、百合子に限って有り得ない。

 誰かに気持ちをぶちまけたい欲求は、確かに犬塚の中に存在したのだ。それを躊躇ったのは、相手がただのクラスメートである百合子だったから。百合子なんかに話をしても仕方がないと思ったというよりは、仲がいい訳でもない女子に面倒を押し付けるような気がして遠慮していた。

 しかし、百合子は今も犬塚の言葉を待ち続けている。そうして、犬塚はようやく彼女の胸を借りる気が起きたらしい。


「私、好きな人がいて……その人と付き合ってるのかなって思ってた子が、さっき私に言ったの……私ははっきりと自分の気持ちを伝えて、友達でいることにしたからって……彼はきっと犬塚さんのことが好きだから、後はあなた次第だって……」

「そうなの?」

「うん……」


 付き合ってるのかと思われていた子、というのは白鳥のことだろう。白鳥が圭吾に正直な気持ちを告げたことまでは昨晩のレポートに記載があった。委員会の仕事をこなしている間に、白鳥が犬塚を呼び出して件の出来事について伝えたらしいことを察すると、百合子はゆっくりと頷いた。

 そして犬塚の隣の席の椅子を引くと、彼女に向くよう浅く腰掛ける。百合子の脳裏には、ある光景が浮かんでいた。


 ――まるで、失態を犯したあの時のようだわ


 思い出したくもない、しかし一生抱え続けると決めた記憶。百合子は犬塚に悟られないように生唾を飲む。

 これほど分かりやすい展開もないだろう。ただヒロインの背中を押せばいいだけ。与えられた役割を考えながら、百合子は犬塚の背を優しくさすった。


「障害が無くなったなら、いいことじゃない。なのに、どうして泣いているの?」

「白鳥さんのこと、応援してるって言ったくせに……それ、言われた時、嬉しいって、思っちゃって……私、ズルいなって……」

「そう……」


 潔癖過ぎる、それが百合子の率直な印象だった。さすがヒロインというべきか、受け手が苦しさを感じるほどの正しさは、その正しさ故に本人すらも等しく蝕んでいた。

 百合子は言うべき言葉を探していた。「ズルくなんかないよ。白鳥さんが譲ってくれたんだから頑張って!」辺りが無難だろうと考えているが、モブの分際で出しゃばり過ぎな気がしなくもない。むしろこの流れでモブがここにいること自体、少し不自然に感じる。名前のあるキャラクターが駆け付ける方がよほど自然だと思えた。彼らはここが漫画の世界だという自覚が無いので、必ずしもタイミング良くその場に居合わせられるとは限らないが、重要な場面では神が融通することもある。


 ――どうして私が


 様々な言葉、思惑、想像が頭の中に浮かんでは消える。


 ――千載一遇のチャンスであることは間違いない、けど……


 百合子は春華達のことを思い出していた。二人と離れたくないという、現実逃避などではない。自分を自分として認識し、友で居てくれた二人に、恥じることのない言葉を紡ごうとしているのだ。

 泡沫うたかたのような思考を乗り越え、遂に百合子は決心した。


「そんな男の為に泣く必要があるの?」

「え?」


 思わぬ言葉に、犬塚が顔を上げる。涙に濡れたまつ毛がキラキラと輝き、泣き腫らされた瞳ですら愛くるしい。


「だってそうでしょう? あなたが好きかもしれないのに他の子に曖昧な態度を取って、さらに決断を彼女に委ねるなんて。なんだか酷い人だわ。ズルいのはあなたじゃなくて彼よ」


 ここに律子が居たら、きっと卒倒しただろう。コメディ作品であればショックで眼鏡を爆発させていたかもしれない。それを免れたとしても、あの名モブの百合子が壊れたと嘆くのは確実だろう。

 本人にも有り得ないことをしている自覚はあった。しかし、それでも百合子は止まらない。何を言われたのかようやく理解した犬塚が目付きを鋭くしても、臆することなく対峙した。


「ひ、ひどい! 圭吾のこと、何も知らないよね!?」

「圭吾? 知らないわ。でも、だからこそ客観的な意見を述べられるのよ」

「なっ……」


 ずけずけと意見を述べる百合子と、一歩も引かない姿勢にたじろぐ犬塚。涙を流す女子と、それを慰めようと言葉を探したクラスメートの会話とは思えないやりとりである。張り詰めた表情の犬塚とにらめっこをした百合子だったが、そちらの不戦勝だと言わんばかりに優しく微笑む。


「でも、あなたはきっと、彼のいいところもたくさん知っているのね」

「そ、そうだよ! 圭吾は、そりゃ、ちょっと優柔不断だけど優しくて、ちょっと抜けてるけど、おおらかで……それから、えぇと」


 犬塚は主人公のいいところと悪いところを同じ数だけ挙げていく。それはつまり、その欠点ともなり得る性格ごと愛しているということだろう。そんなことも分からなくなるほど、恋というものは人を盲目にさせるらしい。百合子はその感情に空恐ろしさすら覚えた。


 ――モブとしての役割? クソ食らえだわ。ここで嘘をついたら、私は私じゃなくなってしまう気がする。


 かつて、同じような状況で役割を果たせなかった自分。嘘をついた自分。それを悔いた日々。やり直すことはできないと思っていたあの日の焼き増しのような展開を目の前にした百合子は、正直である道を選んだのだ。

 ここで役割を優先して、心にもない言葉を吐いても、春華と同じ舞台で主役になる資格など無いと思ったから。律子に尊敬される先輩として振る舞うことなど、もうできないと思ったから。

 もちろん、好き勝手言うだけ言って立ち去る等という無責任なことはしない。そこはやはり百合子という名モブであった。彼女は犬塚を見つめて眉を下げ、素直に謝罪してみせた。


「ごめんなさい、怒らせるつもりはなかったの。ただ、あなた達が可哀想で。特に犬塚さんはクラスメートだし」

「あっ……えっと、私の方こそ、ごめんね。怖い言い方しちゃって……せっかく励まそうとしてくれたのに……バカだなぁ、私……」

「いいの、少しキツい言い方をしてしまったのは事実だし」


 百合子は普段、自分の感情を抜きにしてモブを演じている。百合子だけではない、ほとんどのモブはそうだ。しかし、個人的な人間の好みとして、彼女は圭吾のような人間が好きではなかった。彼を「ズルい」と称したことに集約されているが、要するに卑怯な人間だと思っていたのである。それもかなり前から。そんな圭吾を、犬塚は優柔不断だけど優しい、と称してみせたが、決断できない弱さを優しさと呼ぶことを、百合子は嫌っていた。

 当然、それと犬塚が圭吾に恋することは何ら関係ない。本人が本気であれば、相手がどんな人間だろうと、場合によっては人間じゃなかろうと、外野にできることは見守ることだけだ。「あんな男と付き合うな」とまで言うつもりはない。

 百合子は立ち上がると、鞄を手に取る。そこで、彼女は帰るところだったのだと気付いた犬塚は、付き合わせてしまったことに申し訳なさそうな表情をしてみせた。しかし、何かを言う前に、百合子があまりにも爽やかに言い放つものだから、謝る機会を失ってしまった。


「じゃ、私はそろそろ帰るから、門限になる前には寮に戻ってね」

「う、うん! ありがとう!」


 犬塚は、謝る代わりにお礼を言った。その判断は正しい。謝られても、百合子は困るだけだ。

 百合子が荷物を持って教室を出ると、廊下にはある人物が立っていた。隣の教室の向かいの窓から、ジャージを身に纏った春華が外を眺めていたのだ。

 後ろ姿ではあるが、あの長身と髪型の女子を、百合子は二人と知らない。驚きはしたものの、視界の隅のランプの色が落ち着くまでは表情を崩さない。まさにプロ根性である。

 ランプは教室を出た時から黄色になっている。おそらく教室に残された犬塚がコマに捕まったままなのだろうと思いながら、役目を果たした百合子は颯爽とその場を後にした。

 ちなみに、春華は教室前で窓の外を眺めたまま、百合子が歩き去ってからもしばらく動かなかった。


「圭吾がズルいって発想はなかったなぁー…………恋は盲目、か。あの子の言う通りかも。えっと、なんだっけ。あれ……名前、ど忘れしちゃった……」


 教室に残った犬塚はぽつりと漏らす。百合子はこの上なく完璧な仕事をしたらしい。犬塚の独り言からそう解釈した春華は、満足げに微笑んでその場から離れたのだった。


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