5.

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 百合子が神から面倒な役を押し付けられてから数日が過ぎた。彼女達が在籍するストーリーに大きな変化は無い。変わったことといえば、春華の神への印象くらいである。それまでは感知し得ない謎の存在として、会ったことのない百合子の知人程度にしか思っていなかった彼女であるが、百合子を泣かせた一件からは激しく嫌悪するようになっていた。

 帰りのホームルームが終わり、生徒達が自分の時間を過ごす為に移動していく。左下のランプは点いていない。そのためか、モブ達も心無しかはしゃいでいた。


「それじゃ、また明日!」

「ウケる、寮で会うのに」

「あはは」


 他愛もない冗談を交わす平凡な女子達を横目に、百合子は筆記用具だけを持って教室を出た。本日は美化委員としての委員会に出席しなければならないため、手早く荷物をまとめて指定された教室へと向かったのだ。

 百合子は足音を立てない。それは、いつどこでコマに捕まる者が発生しても邪魔をしないようにするため。彼女は普段、この世界では洗練された平均的な所作で過ごしている。しかし音にだけは敏感だった。必要であれば貴族のような気品溢れる振る舞いをすることも、あえて不良のように過ごすことだって彼女には雑作もないことだが、いずれの場合も音には気を遣っている。


 ――学校という組織運営のために委員会があるのは分かるわ。ただ、メインキャラクターが一人も所属していない委員会に、真面目に顔を出す必要があるかと聞かれると、なんとも微妙なところね


 こんなことを考えてはいるが、サボりたいというよりは、律子達との作戦会議に充てた方がまだ有意義なのではないか、と疑問に思っているだけだ。実際、何度かこの委員会に参加しているが、校内の美化委員を集める必要があると感じたことはない。

 強いて言うなら、教師が依頼して美術部に描かせたという校内美化のポスターを貼る役を決めるジャンケンくらいだろう。そのときも、百合子は適当に任命してくれればいいのにと呆れていた。しかし、行動パターンが普段と異なることで出くわせる現場、コマもある。物語が停滞しているこの作品でそのチャンスが訪れるとは思えないが、百合子はそのメリットを用いて自身の心を宥めすかしながら、適当な椅子を引いて着席した。


「よし、揃ったな。毎年、この時期は着衣の乱れが多くみられる。毎年プリントを出していたが、今年はポスターを作ってみようと思うんだ」


 何故か一人でやる気に満ち溢れている教師役のモブを、百合子は静かに見つめていた。モブがモブとしての役割を果たそうとすることについて、百合子は大変好意的だ。百合子にとって、彼は間違いなくいいモブである。しかし、彼が熱を入れている理由については、全くピンと来ていなかった。

 おそらくは夏になると生徒が制服を着崩す機会が多くなる、ということだろうが、着崩している生徒は大概が通年そうしている。真冬だというのに胸元を見せつけるようにボタンを外している生徒は男女問わず存在しているものだ。そして、それは生徒達の多様性を示すシンボルとして、時には必要なものだった。いくらモブとはいえ、みんなが同じ服を着ていては読者が違和感を覚える。制服の着方もまた然り。

 しかし、ルールは必要だ。どんな風にどのルールを破るのか、それはキャラクターの性格を示すバロメーターとなる。なので、注意喚起をすること自体はおかしいことではない。百合子が違和感を覚えているのは、彼の熱心さである。おそらくは名前付きキャラクターへの昇格が、彼の熱意を空回りさせているのだろうと百合子は思った。


「じゃあ、今年もプリントのままでいいと思う人!」


 教師はプリントを出すか、ポスターを作るかで挙手を求めていた。ポスターがいいと思う人、と言わないところを見ると、やはり彼はベテランなのだろう。百合子は彼の手腕に、密かに目を見張った。モブは目立つことを嫌う。そしてここにはモブしかいない。わざわざ手を挙げる最初の一人になりたがる者はいないのだ。彼はどうあってもポスターを作りたいらしい。

 百合子には彼の熱意は空回りにしか見えないが、そのために頭を使い、全力を賭しているのだと分かる。


「誰も手を挙げないということは……今年はポスターを作ろうな!」


 教師は一人快活に笑った。百合子はシャープペンシルを持ち、置いてあった自身の筆箱をじっと見つめている。

 物語とは裏腹に、百合子の心はせわしなく動いていた。もし、もし仮に主役を打診されたなら。そんな想像を働かせるようになったのだ。それは、先日のような恐ろしい目に遭いたくない、という気持ちからではない。この物語が終わるということは、モブは御役御免となり、転生するタイミングを迎えることを意味する。そこで百合子は、春華と離れることを惜しいと感じている自分の心に気付いたのである。そして、そんな自分の心に気付くと同時に、自らに科した使命を思い出して人知れず暗い表情を作っている。

 春華だけではない。律子もまた、この世界で仲良くなれた友人だ。基本的に百合子は友人を作らない。それは贖罪の為に生きてきた彼女にとって至極当然のことだった。そんな彼女に声を掛け、こうして三人で行動するきっかけを作ってくれたのは律子だ。彼女の存在も、百合子にとっては、かけがえのないものになっていたのである。


「先生」

「高嶺、どうした?」

「先生がイラストを描くというのは如何でしょう」


 しかし、それはそれ、これはこれ。百合子はモブとして最高の働きが出来るよう、常に周囲に気を配っていた。名残惜しいからと言って、仕事で手を抜くような女ではないのだ。

 生徒に言われて仕方なく描くことになった、という口実を手に入れた教師は、自分はあまり絵が得意ではないとか、美術部に頼んだ方がきっと素敵なものになるなんて言いながら笑っていた。どこか重苦しかった教室の空気が、百合子の発言でわずかに変わる。まんざらでもない教師の様子も相俟って、百合子の提案を後押しする生徒が一人、また一人と増えていく。


 こうして、教師がイラストを担当するということになり、委員会は予定よりも少し早めに終わった。開始が遅めだったので、時計を見た百合子はほっと一息つく。生徒達が排出されていく教室、残された百合子に、教師役の彼は一言、ありがとな、と告げた。そして百合子はいいえ、とにこやかに答え、会釈をして自身の教室を目指した。

 彼にお膳立てしてやる義理は百合子には無かったが、なんとなくそのように働きかけてやったのだ。空回りだと思う気持ちに変わりは無かったが、やる気のある人間を後押しするのは、やぶさかではない。物語の進行を邪魔するものならば制止していたが、背景として描写されるかどうかも分からないポスターが一種類増えるくらいは問題無いだろうと踏んだようだ。


 前日のレポートでは、白鳥が主人公である圭吾に「圭吾が本当に好きなのは、私じゃないと思う」と告げたことが記されていた。それがきっかけとなりストーリーが上手く転がり始めれば、特別なことをせずともエンディングを迎えられる可能性もある。

 物語が滞りなく進みそうで安堵する反面、何も成せないままこの世界を去ってしまうことに、百合子は危機感を感じてもいた。


 荷物を取りに戻ったあとはどうしようか。歩みを進めながらも、百合子は寮での過ごし方に思いを巡らせていた。スマホで連絡してみると、律子は既に自室に戻っているとのことだった。春華からの返事は無い。おそらくは部活に顔を出しているのだろうと、百合子は極めて現実的にあたりをつけた。

 スポットモブはあの惨殺された現場が最後である。大いなる意思からは何の連絡も無かった。一応彼なりに配慮しているつもりなのかもしれないし、単に依頼したい案件が無いだけかもしれないが、それを百合子から確認する術は無かった。


 彼女も今はスポットの依頼を受けるような余裕はないので都合がよかった。百合子はチャンスに縋るように、常に左下のランプに気を配って生活を送っている。意識を別世界に飛ばしている間に千載一隅のチャンスを棒に振るなど、あってはならないことだった。昔の彼女は、そのチャンスを棒に振るどころか、棒を奪い取って全てを薙ぎ倒したのだが。

 過去はさておき、モブを卒業できるような何かを成し遂げることはできないだろうかという、一種の欲のようなものがやっと湧き始めていたのだ。それを罪の意識の薄れと表現するか、成長と表現するか。百合子の頭の片隅には、その疑問がぶら下がっていた。そんな状況でも、他人の行動を肯定的に後押ししてやるのだから、彼女は間違いなく善人で、強い女なのだ。

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