高嶺の百合子さん

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 窓から吹き込んだ風が開け放した廊下に抜けていく。誰も彼もがその風の行方を気にかけることなく、時折顔を上げてはノートに視線を落とす。教師ですら言葉を発しない中、チョークだけが小気味良い音を立てて深緑の黒板に軌跡を残していた。


 周囲の生徒と同じように板書を書き写す一人の女が居た。程よく整った顔立ちに、過不足の無いスタイル。無難なセミロングの髪に、平均的な体格。どこにでもいる少し綺麗な女の子。外面的な要素だけではなく、人付き合いの仕方、学校の成績、ファッションセンスなんかをとっても、彼女は平均より少しいい程度の、いわゆる普通の枠からはみ出さない人間だった。

 しゃんと背筋を伸ばして板書の内容を見つめているのは、高嶺たかみね 百合子ゆりこ。彼女こそがこの【くん‘sほぐれ2学園】の世界に存在するモブの模範となっている女である。モブ、つまり名前の無い脇役と呼ぶにも瑣末な存在、端役。


「ここテストに出すぞー」


 くん‘sほぐれ2学園は国民的漫画雑誌、週刊ピョンピョンで連載されている作品である。雑誌内の地位としてはそれほどのものではないが、今後も人気が伸びることが予想されている幸せな作品だ。ウェブ連載のみの作品も少なくない中、人気週刊雑誌に掲載されている点を見れば、くん‘sほぐれ2学園がどれほど支持を集めているかが分かるだろう。しかし、その中で百合子の名前は出てこない。何故か。それは、彼女がモブだからだ。

 彼女はモブであり、プロである。漫画を読んでいる読者はもちろん、作者ですら知らないことだが、漫画のモブの魂は個人差はあるものの、大抵は記憶を残したまま輪廻しているのだ。作者の絵柄により表現は多少異なるが、眼鏡をかけた真面目そうな七三分けの男子、腕に買い物カゴを提げてスーパーで特売品を漁る主婦、きゃははと笑いながら道を駈ける小学生すらも、背景ととけ込むように描かれている彼ら全ての魂は、悪い言い方をすれば使い回しされている。

 基本的には作品が完結した時点で魂は解放され、別の作品のモブとして再構成される。世の中には漫画作品がごまんとある。彼らはそのほとんどが引く手数多な魂だ。稀に番外編や続編等を作る際に呼び戻されることもあるが、別の作品に出演している時期と重なる場合、オファーは来ない。モブが入れ替わったところで誰も気にかけないので、適当なモブに話が流れるのが慣例となっている。普通であれば、だが。

 そう、百合子ほどのプロフェッショナルとなると、その無茶をこなしてしまうこともある。常識を塗り替えていく女、そしてそれを一部の限られた存在モブ達にしか知られない女、それが高嶺百合子なのである。


「だから、ここに代入して」


 何の変哲もない校舎、教室、授業。モールス信号のような汚い字を書き写しながら、百合子はあることを考えていた。


 ――授業の描写がダルいのは分かるけど、この高校ってやけに数学の授業が多いのよね。あと家庭科の授業。二週間に一回くらい何か作ってる気がするわ。学園ラブコメに授業の偏りがあるのはよくある事とはいえ、流石に一日三回数学の授業があるのと、ヒロインの謎料理の匂いを嗅がされるのはいただけないわね。


 授業の描写の偏りについては作品によるが、ラブコメ作品は全体的に家庭科の授業が多い。それは百合子の指摘の通りだった。腕に問題があるヒロインが多いことも。

 作ったものを主人公に食べさせるという描写のためである場合はもちろんのこと、「ん? いい匂いだな」と言わせるためだけに存在する場合も少なくない。ちなみに言うと、クッキーやケーキなど、お菓子の確率がやけに高かったりする。


 教室の最前列、真ん中、つまり教壇のド真ん前。そこがくん‘sほぐれ2学園における百合子の特等席だ。これほど攻めた位置を特等席にする人間はなかなかいないだろう。しかし、百合子にとってはここが最も心が安らぐ席であった。

 基本が学園ラブコメディである本作品は、漫画内での真面目な授業の描写はほとんど無い。出てきたとしても、それらはキャラクター達の足枷として軽く描かれることが常だ。背景に溶け込むように、後頭部だけを切り取られるモブも珍しくない。しかし、そんな手抜きで許されそうなシーンにおいて、気を付けなければいけないポジションがいくつかある。

 まずは、当然ながらメインキャストの周辺である。そして出入口の一番近くの席と、百合子の座る教壇の前だ。メインキャストの周辺は言わずもがな、出入口周辺についても重要であることは想像に容易いはずだ。彼らは授業中に当てられる確率が何故か高く、有事の際には戸を開けたり、話しかけられて誰かを呼び出したりと、何かと気遣いが必要になる。両者とも、モブとしての働きぶりをアピールするにはもってこいの位置ではあるが、教壇の前の生徒は違う。

 気苦労ばかりが伴い、教師を描写するときについでに描いてもらえるかもしれないという、存在するかどうかも分からない旨味しかないのだ。そしてサボりが許されない。演じるのが面倒だと嫌われがちなポジションである。

 しかし百合子であれば完璧に対応してみせることができる。この世界が構築され、颯爽とその席についた百合子であったが、授業開始時の百合子を品定めするような視線は、残り五分の小テストが始まる頃には賞賛の眼差しに変わっていたのだ。そして誰もが認めた。彼女はモブの中のモブだと。

 この面倒なポジションは誰にでもこなせるものではない。誰かに任せることよりも、自分が担当する方が彼女にとっては気楽なのである。だからこそ、この席は彼女の特等席だった。


「じゃ、今日はこの辺にするか。次回までに予習しとけよ」


 カンカンと黒板をチョークで軽く叩くこの教員、彼もまたモブだ。転生した時点で、その世界で果たす役割に関する最低限の知識は備えているものなので、授業に困ることはない。学校の敷地内にゴミを回収しにくる業者も、何かの用事で担任を訪ねる父兄も、メインキャラクターと関わりが無い場合はモブなのである。

 モブ達は漫画のコマに収まり、出演することを「コマに捕まる」だとか、「見られている」と表現することが多い。ちなみに、百合子が座っている席とは比較にならないほど、教員というのはモブの間で不人気ポジションだ。理由は言うまでもないだろう。苦労のわりにコマに捕まる時間が少ないからだ。モブがコマに捕まったからといって目立つ訳にはいかないのだが、彼らはそれを承知の上で作品に出演したいと考えている。考えているというよりは、彼らのその欲求は本能と表現する方が適切なのかもしれない。


「やっと昼飯だー」

「俺今日購買、お前は?」

「オレは弁当」


 チャイムが鳴ると、モブ達はここぞとばかりに声を発する。上手くいけばその雑談がコマに捕まるかもしれないからである。基本的にモブはモブらしく物語に出演することを好む。立ち振る舞いが難しい場合はその限りではないが、彼らはある目的の為に、物語に関わることを望んでいるのだ。


 授業が終わった百合子は颯爽と学食へと向かった。無数のモブが、今ばかりはこの学園の生徒として人生を謳歌している。

 この作品のモブに限らず、全てのモブには自分が現在コマに捕まっているかどうかを知る器官が備わっている。左下の視界の隅に、ランプが灯るようになっているのだ。自分自身がコマに収まり、モブとして出演しているときは赤く、他人がその世界のどこかでコマに捕まっているときは黄色く光る。そしてたまに、その視界の隅のランプが消えることがある。それは空白の時間。モブが唯一、真に自然体で過ごせる時間なのだ。作品内では省略されてしまう時間も、彼らはその箱庭の中で生きている、ということになる。長い作品では、年単位でランプが光らないこともあり、作品のことをすっかり忘れて生活している者も少なくない。

 とはいえ、学園ラブコメで空白の時間がそれほど長くなるのは極めて稀だ。恐らくはすぐに訪れる出演の機会の為、皆が英気を養う時間に充てられる。


 百合子は食券を買い求め、トレーを持って列に並ぶ。小さなチケットを手渡して、すぐにかけそばが返ってくる。中年女性モブの「はいよ」というかけ声付きだ。そしてどこか適当な席を探そうとした彼女に、声を掛ける女生徒がいた。


「百合子さん、今日も普通なんですね」

「ありがとう。あなたもなかなか平凡よ」


 三つ編みの髪に眼鏡を掛け、没個性をこれでもかというほど追い求めたこの女にとって、百合子は憧れであった。今日も普通、平凡、と声を掛け合うことは、モブ達の間では褒め合う際の挨拶のようなものなので、なんら問題はない。

 視界の端のランプは暗い。百合子はそれを確認すると、三つ編みの女を隣の席へと誘った。彼女は光栄なことに身を震わせたが、遠慮をするほど謙虚ではなかった。むしろ貪欲と言ってもいいだろう。信じられないという表情を浮かべながらも、身体は百合子の隣の椅子を引いていた。


 女がスプーンでカレーを掬う一つの動作の間に、百合子は箸を割ってそばを啜り始めていた。要するに、百合子はかなり急いでいたのだ。その様子に違和感を覚えた眼鏡の女が手を止める。ちなみに彼女はまだ一口も食べていない。


「昨日までの展開、あなたは見たかしら」

「えぇ。主人公とヒロインが、共通の友人に恋人が出来たことを喜びつつ、どこか焦りを感じる難しい展開になっています。授業シーンばかりですよね、コマに捕まるの」

「そうね。つまり、昨日から何も変わっていない」


 百合子は急ぎ気味にそばを啜りながらも、最低限の気品のようなものだけはなんとか保っている。対する眼鏡の女は、この世界の中心人物がどうなっているのかを端的に告げたあと、やっと一口目を口に運んでいた。そして現状を憂うように彼女は続ける。


「というか、かれこれ一週間くらいずっとですよ……」

「そう。昨日と同じ調子で何も変わらない気もするし、今日こそは何かが起こる気もするわ」

「え、えぇ。つまり?」


 百合子が何を言おうとしているのか、真意を問う女だったが、百合子は不敵に笑って見せ、彼女の頭の中でのみ響く声に従う為に、ある提案をした。


「それよりも……悪いんだけど、何かあったら私の魂を引っ張ってくれない? 寝てる人を起こす要領で体を揺さぶって声を掛けてくれればいいわ」

「百合子さん、掛け持ちしてるって本当だったんですか!?」


 百合子の言葉に、女はすぐにピンときた。掛け持ち。それは担当する世界の掛け持ちである。そう、百合子がモブとして活躍するのはくん‘sほぐれ2学園だけではない。

 素っ頓狂な声を小さくあげるという器用な真似をして見せた女だが、ウィンクしながら別の世界に意識という名の魂を飛ばす百合子には敵わないだろう。



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