第四話 その声は届く

 第一校舎と第二校舎の間には、簡素なビオトープがある。噂によれば美化委員の委員長がとても厳しく真面目な人物で、趣味を兼ねた校内の美化・緑化活動には余念がないのだとか。

 しかし、悪魔の現れた今では、魚たちも最初からいなかったかのように静まり返っている。

 二棟の建物の間は四十メートル程度とそれなりに広く、また壁もある。それが悪魔にとって好条件にならないといいが―――などと勘繰りながら走る舞華は、前方にギターを抱えて走る律軌を見つける。


「律軌ちゃん!」

「姫音舞華。来るわよ」


 律軌の冷静な声と共に、二人は中庭の入口で立ち止まる。

 中庭のほぼ中心部。堀内美南は、どこから持ち出したのかもわからないティンパニを、意識が抜け落ちたかのような無表情で叩いていた。一定のリズムで響く音を媒介にして、美南の背後に描かれた魔法陣が輝き出す。

 閃光が魔法陣の中へ収束していくと同時に、それは姿を表した。

 ……屈強。そんな言葉が先立って頭によぎる男性的な体躯。アンドラスと打って変わり、羽根も無ければ動物じみた部位もない、人間と同じ見た目の悪魔だ。

 その姿を見てか、第二校舎側の物陰に隠れていたロザリオが顔を出して叫ぶ。


「フォラスか!」

「リオくん!」

「―――如何にも。我が名はフォラス。二十九の軍を率いし総裁也。して、貴様らはなんだ」


 見た目通りの野太く重圧的な声を響かせて、フォラスは舞華たちを睨みつける。

 人ならざる存在、その独特な威厳に、まるで心臓を射抜かれたかのような錯覚さえ覚えた。

 だが、これを殺すのが自分達の使命。そう感じて舞華は声を張り上げる。


「生憎だけど、悪魔に名乗る名前は持ち合わせてないよ!」

「……威勢のいい。だが人間の身で何ができるというのだ」

「お前を殺すわ。私達二人で、ね」


 そう言うと、律軌はエレキギターの接続部―――アウトプットジャックに青色のブローチを押し当てる。

 するとどうだろう、ブローチから青く透明なコードが伸びだし、ギターと繋がった。

 律軌は舞華の顔を一瞥して合図すると、演奏を始める。舞華もそれに合わせるように踊りだした。


《魅せよ、第一の舞・契約の主天使達! 悪を打ち砕き、正義を貫く我が身に光を! ドミニオンズ!!》

《轟け、第一の旋律・契約の能天使達。掟に従い、悪しきを正す我が手に武器を。エクスシーアイ!》


 それぞれの衣装に身を包み、剣と銃を手に取る。姿を変えて対峙した二人に、フォラスは少しだけ興味を示すかのように鼻を鳴らした。

 まだ相手がどんな能力を持っているかわからない。手始めに、律軌が弾丸を一発だけ打ち込む。しかし、フォラスは微動だにせず、ただ迫り来る弾丸を睨みつけていた。

 防御のための魔法があるのか、それとも律軌の攻撃が通じないのか。一瞬の間の後、舞華たちの視線の先で、弾丸は確かにフォラスの右肩に命中した。


「っ、ぐ!」

「……効果はあるようね。何故避けようとしなかったの……?」


 攻撃が通用することを確かに示すように、フォラスの右肩には決して浅くない傷がつき、その上半身は衝撃で大きく仰け反った。

 回避を試みても、成功したかどうかはわからない。しかし、その素振りすらも見せなかったのは何か理由があるのだろうか。警戒する二人に、低く重い声が語りかける。


「なるほど……お前たちのそれは、使? 魔族の魔法ならば私にここまでの傷をつけられるはずもない」

「魔族……?」

「魔族の力で天使と交信し……使姿。信じがたいが、それしかない」


 背筋が凍るような感覚。ここに来て舞華は少し怖気づいた。相手が悪魔という超常的な存在だとはわかっていても、こちらを気にも留めずに一人で思案にふけるその姿には、より異様なものが感じられる。

 その言葉の内容が気にならないと言えば嘘になる。しかし、今はそれよりも自分の成すべきを優先させなくては。

 意を決して、舞華は跳躍。フォラスとの距離を一息に詰め、その頭部目掛けて剣を振りおろす。


「む」


 あっさりと避けられた。だが反撃を許す訳にはいかないと、着地してすぐにまた剣を振り抜く。

 無論のことながら、舞華自身に剣を扱った経験などない。それでも迷いのない太刀筋でいられるのは、魔法の力があるからだと勝手に納得していた。

 しかし、いくら舞華に迷いが無かろうと、経験の有無は覚悟では埋まらない。フォラスは最小限の動きで、明らかな余裕を持って剣を避け続ける。

 当然、当たらなければそれだけ焦りが表面化する。舞華は段々と速度を上げて腕を振るっているつもりだが、次第に太刀筋が迷い始めていた。

 そして、そんな舞華を前にして、律軌も上手く照準を合わせられないでいる。


「そこか」


 ―――銃弾を受けたはずの右腕。そこからの攻撃が、焦燥で冷静さを欠いた舞華へ襲いかかる。

 あろうことか、それまでフォラスが攻撃してこなかったことで、舞華はとどこかで思い込んでしまっていた。

 拳が腹に突き刺さる。体の感覚を失うような衝撃のあと、抉るような殴打の感覚が五感の全てを奪い取る。

 いくら鎧があるとは言え、舞華が少女であり相手が巨躯の悪魔であるという事実に変わりはない。華奢な体は剣を手放し、鞠のように中庭の地面を転がる。


「姫音舞華っ!」

「舞華!」

「っ……ぉえっ……! ぁ、は、ぅあ……」


 臓器が、筋肉が悲鳴を上げて、その違和感を吐き出そうとする。脳と肺は酸素を欲するものの、完全に混乱してしまい上手く呼吸できない。

 横になったまま起き上がれない舞華に向かって、フォラスがゆっくりと歩き出す。それを見て律軌はその足元に発砲。ロザリオは舞華の元へ駆け寄った。


「大丈夫かい!?」

「っ、は……あ、ごめ、ん」

「痛みを和らげる、少しじっとしていてくれ」


 ロザリオはローブから、緑色に光る液体の入った試験管のようなものを取り出す。コルクの蓋を外して、中の液体を舞華のブローチへと一滴垂らした。

 すると、首元のブローチから全身へ染み込むようにエネルギー……魔力が行き渡っていく。痛みはすぐに和らぎ、呼吸も安定した舞華は急いで起き上がった。

 今にも走り出そうとする舞華に、ロザリオが呼びかける。


「待ってくれ、痛みこそ取り除いたけど、傷が治ったわけじゃない。あまり激しく動くのは」

「でも、私が動かなきゃ律軌ちゃんが……そしたら美南ちゃんだって」

「君はもっと自分のことを考えろ! 一度落ち着くんだ、焦りが生むのは敗北だけだぞ!」


 自分よりも小さく少年的なロザリオから発された、厳しい叱咤。舞華は面食らって黙り込む。

 ……前回の戦闘との決定的な違いは、舞華が美南と深く接していたことだ。それによって決意を固めることはできても、同時に情による焦りや不安が発生してしまう。


「君の気持ちはわかる。でも今は、アンドラスの時ほど手遅れに近い状況じゃない。冷静になって、二人で協力すれば必ず彼女を助けられる」

「……うん、ごめん。ありがとう」


 ―――一方で、律軌とフォラスは。

 遠くから、フォラスの身のこなしをしっかりと見ることができた律軌は、怪我の功名といった形で対処できていた。

 近づかれれば、詠唱の波動を利用して力技で距離を取り、フォラスが近づいてくる間に詠唱で呼んだ短機関銃を撃って少しでも痛手を与えようと試みる。当然ながら、銃などまともに扱ったことのない律軌にとって、無造作に弾丸を撒ける短機関銃が最も信頼を置きやすいものだった。

 しかし、当たらない。拳銃を一撃をもってその威力を知ったフォラスは、相手を倒すことよりも優先して攻撃が当たらないように動いていた。

 律軌も、最悪の状況を想定して拳銃は捨てずに腰のベルトに挿してあるもの、単発かつ当たる可能性の低い拳銃よりも波動に頼ったほうが確実だという安心感がある。


「く……!」

「お前たちの弱点はその武器の形にある。天使たちは、お前が想像する通りの形に変わっているようだが、そのせいで種族としての十分な力を引き出せていない。いくら群体の天使であろうと、その弱点がある限り……一人で我と対峙するのは不可能だ」


 冷静な声色で語りながら、その豪腕を律軌に向けて振るう。対する律軌も、銃を投げつけると同時に魔力でピックを作り出しギターをかき鳴らす。

 一見して、平行線のような光景。しかし、両者の間には明確な違いがあった。

 一つは、知識と理解。フォラスは舞華と律軌の使う魔法を理解しているようだが、律軌たちは違う。相手がどんな手段を隠し持っているかもわからない。

 そしてもう一つは、種族としての決定的な違い。魔法少女となったことで、変身時もそうでない時も基礎的な身体能力が強化されている二人だが、それでも元が人間であることは変わりない。舞華が殴り飛ばされたように、悪魔を前にすればその身体能力は見劣っているとさえ言える。

 今は凌いでいても、律軌が油断や焦燥から攻撃を受けることがあれば、例え一撃でも致命傷になり得ることは明白だった。


「無駄だ、人間。そこで大人しく見ているか、死なないうちに退くのが賢明だぞ」

「そういう訳にも、行かないのよ……!」


 無論、ここで退くという選択肢はない。自らの蘇生を試みる悪魔にとっても、無関係な命が贄とされる人間にとっても、この一夜を逃すことはできない。

 律軌は、防戦一方になりながらも必死で考える。何か、この戦況を覆す手段はないか。

 その時だった。波動を受けて飛び退いたフォラスが、接近することをやめて語りだす。


「同じことの繰り返しでは埒が明かぬ。お前のその詠唱、どうやら有限ではないらしいな。波動は召喚される天使が生み出す、余剰的なものか……」


 動く気配がない。こちらの油断を誘っているのか、何か別の意図があるのだろうか。

 しかし、これ以上相手の話に気を取られるつもりはない。律軌は迷うことなく発砲した。


「だが」


 変わらぬ語調が、結果を伝えるようだった。

 四発放たれた弾丸は、フォラスの胸に命中した―――そのはずだった。


弱点はもう一つあることに気が付いた。その武器……銃だな。銃そのものは天使が姿を変えたそれだ。だが、そこから打ち出される弾丸……それはものだな」


 弾丸は、フォラスに触れると同時に崩れていく。あまりの出来事に、律軌は目を見開いて動きを止めた。


「詠唱に割く魔力を常に残しながら、攻撃でも魔力を消費している。悪魔でさえ魔力の量は有限だ、必ずどこかに綻びが出る。お前は、その衣服と弾丸だ。発砲はそう多くないが、詠唱を繰り返せば魔力が大きく減り……攻撃・防御共に弱くなっていく。長期戦に酷く弱いのが、お前の最大の欠点だ」


 形容しがたい恐怖。そんな感情が、律軌を追い詰めるように湧き上がってくる。どこかで攻撃に転じるつもりで詠唱を利用していたが、それによって自分自身の首を絞め、攻撃できない状況を作ってしまっていた。

 これまでのように、詠唱をその場しのぎに使うことはできる。だが、その度に弾丸の威力は削がれていき、フォラスの言葉通りであれば鎧の役目を果たす衣装も力を失っていく。そして、やがては詠唱も行えなくなり、負ける。

 どうすることもできない。接近されれば律軌に打つ手はなく、既に自分の攻撃は通用しなくなっている。


「……やはり、人間としてもまだ幼いな。だから言ったのだ、退くか見ていろ、と」

「…………」


 完全な敗北。最早負けを認めるしかないのだろうか。四肢から、徐々に力が抜けていくのを感じる。

 律軌から力が抜けていく様子を見て、フォラスは呆れたように言い放った。


「威勢は良かった。咄嗟の対処も悪くはないだろう。だがお前は無知だった。せめてあの人間と共に我が糧としてや」

「おおぉぉおおおぉおぉおぉぉおおおぉぁぁぁっ!!」


 怒号。突然響いたその大声と共に、フォラスの右肩から背中にかけて剣が深く潜り込む。

 ―――その様を見て誰より戦慄を覚えたのは、他でもない律軌だった。不意を突かれながらも飛び退くフォラスの向こう、剣を握り締めて立つ舞華の表情は、さながら獣の如き獰猛さを備えている。


「……貴様」

「やらせない……! 私のは、一人だって絶対に!」


 再び構え、互いを見据える舞華とフォラス。触れれば弾けるような張り詰めた空気の中で、律軌の頭にロザリオの声が響く。


『律軌、無事か!?』

『……ええ……その、ごめんなさい』

『いや……僕の説明不足も原因だ』


 張っていた空気が、弾ける。

 舞華は表情こそ怒りのそれであるもの、思考は極めて冷静だった。考えなしに突っ込めば動きを読まれる。焦りを抑え、確実に相手の隙を見つけることに専念していた。

 近くにいれば邪魔になると考えた律軌は、ゆっくりと後ろに下がる。現時点で戦う力を出し切ってしまった以上、今できることはない。


『今そっちに行く。姑息な手段だけど、一時的に魔力を補おう』

『わかったわ』


 校舎を回り込んで律軌の元へと向かうロザリオ。その間にも、舞華とフォラスの戦闘は激しくなっていく。

 武器を持たない代わりとしてか、フォラスはその肉体を魔法により強化しているらしく、今度はただ避けるだけでなく腕や拳で刃を受け止めるようになった。

 しかし、その力が完全でない以上弱点がある。美南の演奏によって魔法が発動しているため、タイミングが舞華でも簡単に把握できること。それによって舞華は、フォラスが攻勢へ転じることのないように剣を打ち込めていた。


「……落ち着いたな、焦りが消えた」

「そっちは相変わらず余裕そうで!」


 互いに目立った傷は負っていないが、いつかは舞華の方が目に見えて早く疲労する。それがわかっている以上、決着は早急に着けなければいけない。

 体を捻り、どうにかしてフォラスに剣を突き立てようとする。しかし、条件を理解している以上余裕のあるフォラスは、舞華の動きを見てから軽く受け流すなど冷静に対処してくる。

 このままでは、どうにもならない―――舞華がそう思わない理由は、先の不意打ちにあった。

 アンドラスとの戦いで、与えた傷が最後まで癒えなかったのは大きな勝因の一つだったと言えるだろう。そして、フォラスも同様に傷を治そうという気配がない。舞華が負わせた傷は深く、このまま戦闘を続ければ確実に痛手として響く。

 悪魔とて生き物であることに変わりない、一瞬でも隙が生まれれば……という、半ば理想論に近い思考が舞華の脚を動かす。しかし、ここで決着を着けなければならないという使命感に圧迫される中では、一縷の望みすら大きな光に見えていた。

 石のタイルを踏み、跳ぶ。自分ではなく、相手を軸にして回転や跳躍を仕掛けて翻弄する。最早、舞華は自分がどこまでなら動けるのか、など考えていなかった。


「お前……本能的に、今の自分がどれだけ動けるのかをっ、理解しているのか……!」

「人を獣みたいに言ってくれちゃって……!」


 フォラスの言うことは、的を射てはいなかった。事実を言えば、今の舞華の思考に正確性はない。「避ける」「攻撃する」といった単純な思考を、体が勝手に汲み取って動いている。それが舞華から体感した印象だった。

 加えて言えば、軽口を叩いているのは恐怖を紛らわすためでもある。当然のことながら、腹部を殴られたことに加え、律軌が追い詰められたことを踏まえれば、元よりごく一般的な少女である舞華にかかる精神的負担は前回の戦闘の比ではない。

 ただ未知の相手と戦う、それだけでも本来ならば酷く怖いことだ。少しでも気を許せば負の感情に呑まれそうな中で、舞華は剣を振るう。


 その一方、少しずつ後退していた律軌はロザリオと接触することに成功していた。フォラスからすれば、あくまでも勝利を確信したうえで見逃しているにすぎないだろうが、それでも律軌はこれをチャンスと捉えていた。


「律軌!」

「外傷は無いわ、そう焦らないで」

『……聞きたいことがあるの、あいつには見抜かれないように』

「ひとまず、魔力の回復を」

『わかった』


 ロザリオはローブから青色の液体を取り出し、律軌のブローチへ水滴を落とす。その間にも、二人は念話を通して戦況の打開策を練っていた。


「よし、これで」

『なるほど……でも、この土壇場でそんなこと』

「ありがとう」

『ええ、最後の手段よ。姫音舞華が追い詰められた時のための』


 律軌は、強い眼差しでロザリオを見つめる。それは、冷たい印象を放つ彼女が責任を感じているという印であった。

 どこまで冷淡に徹しようと、宮下律軌という人物はお人好しである。その事実にある種の安堵を覚えながら、ロザリオは小さく頷いた。


 そんな二人が向ける視線の先では、舞華の動きが徐々に鈍り始めていた。相手に次の動きを悟られまいと激しく動き回っていたせいで、フォラスが隙を見せるよりも早く舞華に限界が見え始めている。

 無論、その事実が見逃されるはずもない。舞華は距離を離し、両者は再び睨み合う形になった。


「……まだまだ、余裕がありそうだね」

「当然だ、お前たち人間とは違う。 ……お前がつけた傷で、動きが止まる瞬間を狙っていたのだろう。無駄だ、いくら深い傷と言えど、お前を仕留めるのに一つとして不自由はない」

「あはは……はぁ…… ほんと、困っちゃうよね」


 全身の力を抜いた舞華の四肢が、垂れる。

 ―――その次の瞬間には、舞華の体が数メートルの距離を詰めフォラスの目の前まで迫っていた。

 全力の疾走、会話はブラフ。しかし、そんなことはフォラスとて理解していた。力を抜いたようでも、走り出す際の筋肉の動きは隠せない。

 そして、舞華もそこまではわかりきっていた。相手が悪魔である以上、こんな手段は子供騙しにすらならない。

 だからこそ、もう一手。先に行かなければいけない。


「っ!」

「なっ!」


 至近距離からの、直剣の投擲。あくまでも舞華の攻撃が武器ありきのものである以上、その動作は予想できるものではなかった。

 律軌の所作を見ていたフォラスは、詠唱が無ければ武器を呼び出せないことは知っていた。そして、ここで驚くこともなかった。

 殴打のために構えた拳で、剣を弾く。その瞬間に、ほんの僅かな隙が生まれた。

 舞華は、全力で地面を蹴る。そして、構えた拳を前に出した。


「がっ―――!」

「―――ぁ」

「舞華!」

「姫音舞華っ!」


 引き出した結果は、決して悪いものではなかった。舞華の拳はフォラスの顎に突き刺さり、その頭を揺さぶった。図らずとも、魔力を纏った手甲による一撃であった以上、確実な痛手を伴ったことは確かだ。

 しかし、フォラスが咄嗟に振るった右脚の一撃もまた、確実に舞華を捉えていた。脇腹から広がる衝撃に、意識を白濁とさせながら舞華は再び地面を転がる。


「っはっ、ぁ……ぅ、は……」

「ぐ……」

「く!」


 動揺を見せながらも、舞華に止めを刺さんと歩き出すフォラスへ向けて、律軌が拳銃を放つ。弾丸は当たりこそしなかったが、フォラスは動きを止めて振り向いた。


「まだ戦意があったか」

「待ちなさい……止めを刺すなら私が先よ」

「律軌!」

「ロザリオ、あなたは姫音舞華を」


 虚勢であることは、誰の目にも明らかだった。僅かにだが、律軌の脚は震え、表情も必要以上に強張っているのがわかる。

 更に言えば、律軌の服が徐々に霞み始め、変身前のジャージが見え始めている。今の射撃ですら苦し紛れのものだったことは間違いなく、彼女に抵抗する力が残っていないことを表していた。


「そうだな……望み通り、お前から仕留めるとしよう」

「っ……」

「り、っ……き、ゃ……」


 舞華が負ったダメージは、拳で殴られたときのそれよりは少なかった。しかし、殴られた時の傷が治りきらないうちにもう一撃を与えられたことで、耐え難い痛みが舞華の意識を奪いかけている。

 自身を睨みつけたまま動かない律軌に、フォラスはゆっくりと、覇気を纏って歩みを進める。

 近づくほどに、律軌の息遣いが荒く乱れているのがわかる。恐怖、動揺、そんな感情が見て取れる彼女の様に、フォラスは哀れみすら覚えていた。


「っ……!」

「……判らぬ。何故お前たちはそうまでする? あの人間がそこまで大切なのか? そうではないだろう。正体も判らぬ使命感に押され、個の命に執着した結果がその様だ」

「……!」

「舞華、動くな!」


 フォラスの言葉に反応して、舞華が地面を這いずる。しかし、痛手を負った今の彼女では、律軌を助けることなど到底できはしない。

 律軌の頭を掴み、持ち上げる。まるで、彼女を生き物だとすら思わぬような扱い。

 ……そんな中で、律軌は震える腕を持ち上げてフォラスの眉間に銃を向けた。


「無駄だ。その銃が最初に呼び出したものだとしても、弾丸の威力には関わらない。何一つ壊せぬ脆い弾で何ができる?」

「それでも……諦めきれないのよ……」


 震える声を絞り出して、律軌は引き鉄に指をかける。その間にも、彼女の衣服は溶けるようにして元に戻っていく。


「……いいだろう、撃て。せめて悔いのないように死なせてやる」


 フォラスとしても、哀れみと呆れの混じった、諦めに近い言葉だった。全身を小刻みに震えさせ、照準すら定まらないような焦りを見せながらも、律軌は指先に力を込め―――


「―――ええ、ありがとう」


 と同時に、皮肉を込めてフォラスの頭を撃ち抜いた。



『魔力の扱いについて、詳しいことを聞いていなかったでしょう。一発の弾丸の威力を調整することはできる?』

『もちろん可能だ』

『……この服を構成してる魔力まで、全てを回した一発なら』

『無茶だ、威力はあっても当てる方法がない』

『威力は、あるんでしょう?』

『……まさか、囮になるつもりかい……』



 ロザリオの力を借りて回復した魔力、そして自分に残った全ての魔力。それらを込めた一発は、フォラスの頭蓋を跡形もなく吹き飛ばした。その死によって儀式が機能を失ったのか、魔法陣と共にフォラスの体は消えていく。

 魔法陣が消滅すると共に、美南の体も力を失ってティンパニにもたれ掛かる。その手から滑り落ちた二本のマレットが、音を立てて転がった。

 上手く着地した律軌も、腰の力が抜けたのか不格好に座り込む。


「は……」

「全く無茶な……舞華、大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ……死ぬほど痛い……」


 比喩でもなんでもなく、文字通り死ぬほどの痛み。しかし、それを訴える舞華の表情は安堵のものだった。

 ロザリオは舞華を楽な姿勢で寝かせると、美南に向けて浄化の魔法を施す。

 ゆっくりと立ち上がり、寮へ戻っていく美南を見送って、ロザリオが改めて口を開いた。


「……僕にも責任がある、とはいえ、二人とも自分の命をもう少し大切にしてくれ……」

「はーい……」

「そうね……」


 実の所、律軌が恐怖で震えていたのは事実であり、舞華はフォラスの蹴りを予想できていなかった。

 改善点、などという言い方では済ませられない、命に関わる大きなミスであることは言うまでもない。


「動けるようになったらすぐ部屋に戻ってくれ。僕はこれを元あった場所まで戻してくる」


 そう言ってロザリオはティンパニに向かって呪文を唱え、数センチほど浮かせて運び出す。

 数秒の沈黙の後、舞華は横になったままで律軌に声をかける。


「怒られちゃったね」

「ええ……実際、危なかったのは確かよ」

「うん、でも……誰も死ななくて良かった」

「結果論じゃなく、過程も褒められるものにしたいところね」



 第二校舎三階、音楽室。ロザリオはティンパニを元の位置に戻してから呟く。


「まったく、こんな大きなものを外まで持ち出すなんて……」


 ……誤魔化すように独り言ちたが、彼自身先の戦闘のことが頭から離れなかった。やはり、現代を生きるただの少女である以上、舞華と律軌の二人だけでは不安が残る。

 本来、戦闘とは無縁な者を巻き込むことへの胸の痛みも尽きない。彼女達にはいくら謝っても許されないことをしている、その自責の念に圧される。


「やはり、もう一人……必要なんだ……誰も失わないためにも……」





 翌日の朝、目を覚ました舞華はまず自分の腹部を確認した。当たり前のことながら痣ができており、むしろロザリオのおかげでかなり薄くなっていることに安堵するほどだった。

 お風呂はどうしようか、などと思案しているうちに、優乃が迎えに来る。


「まいちゃん、おはようございます」

「あ、ゆのちゃん? 待ってて、今行くから!」


 ひとまず身支度を整え、部屋を出る。幸いなことに痛みは感じないため、見られなければ大丈夫、と安堵して優乃と並び歩く。

 渡り廊下が見えてきた時、舞華の後ろから美南が声をかけてきた。


「ぁ、あのっ! 姫音、さん……おはよう、ございますっ」

「美南ちゃん、おはよ」

「おはようございます」


 挨拶を返すと、美南は目を逸らしながらも舞華たちに並ぶように歩いてきた。


「えと、あの……姫音さん」

「ん?」

「その、昨日は、ありがとう、ございました……姫音さんのおかげで、わたし、吹っ切れたっていうか、ちょっと、背伸びしよう、かなって……」

「そっか、悩みが晴れたなら何よりだよ」


 態度には出さないものの、心の底から安堵に満たされる。自分達の力で、一人の友人を救うことができた。その事実は、舞華にとって紛れもない宝物だった。


「あ、わ、わたし……宮下さんにも、お礼、言いたい、ので……お先、失礼しますっ」

「え」

「ではっ」


 引き止める間もなく、美南は校舎の方へ駆けていく。

 宮下さんにも―――その言葉が意味するところを、舞華は理解していた。

 記憶には残らない、そう言われたはずだけどな……


「まいちゃん、何かしてあげたんですか?」

「え、ああ、ご飯食べながら相談を」

「律軌さんもご一緒に?」

「違うけど……もしかしたら、色々聞いてあげてたのかもね」


 首を傾げる優乃の言葉を、なんとか流して歩き始める。

 陽光の射し込む渡り廊下に出ながら、舞華は心の中に一つの確信を得た。


 ―――魔法少女やってて、よかった。

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