短篇小説集「ョゴルィンッミペゥ」

ポンデ林 順三郎

犬のゲージ

犬のゲージ 1/1

 世の中には、仔犬の前で正座をしている人も時々いるのだろうけれど、その状態で仔犬に説教を受け、俯いたままボロボロと悔し涙をこぼしている女子中学生は、有史以来、私くらいのものではないかと思う。


「もういちどいうワン。

 ージをージというやつは、なにをやってもだめだワン」

「ぶゎい、はい、ずびばぜん、うぅ……」


 捨て犬なんて拾わなければ良かった、と思った。


「いま、きみ、ぼくをひろわなきゃよかった、とおもったワン?」

「えっ、な、なんで」


 まさかこの犬、心が読めるの?

 私はいよいよ恐ろしくなった。


「ほんとうにおもってたワン!?」

「ひっ、す、すみません!」

「きぶんでひろって、きぶんですてる!

 むせきにんにも、ほどがあるワン!!」

「ごべんだざいぃ……」


 事の起こりは、今日の中学校の帰り道だった。

 道端で段ボールに入った捨て犬を見掛けて、可哀想になって拾って帰った。

 その捨て犬が、今、私に説教をしているこいつだ。


「ケージをゲージというやつは、ドッグフードのぶんりょうどころか、それがこいぬようか、おとないぬようかも、よめないワン。

 おいしゃでもらったおくすりも、ようほうようりょうをまもらないワン。

 ドッグランのりようじょうのちゅういだってよめないワン。

 それどころか、ドッグランをドックランといっちゃうワン」


 仔犬は舌ったらずな口調で私を罵る。


「そ、そこまで酷くはないと思うけど……」


 私が恐る恐る目線を上げると、


「ケージをゲージとよんでしまうやつが、まともに、にほんごを、よめるわけないワン!」

「ひゃっ、ご、ごべんだだっ、ごべんなざいー!」

「カゴはケージ、ゲージはちょうひっさつわざにつかうやつだワン!」

「お、仰る通りですぅ!」


 それから仔犬のお説教はママが仕事から帰ってくるまで続いた。


「あら、ワンちゃん?

 どうしたの、拾ってきたの?」

「ワン!」


 仔犬はまるで普通の仔犬のように答えた。


「飼っても良いけど、ベッに入れるならお風呂の後ね」


 そう言ったママは、怒れる仔犬に正座をさせられ、そのまま説教を受けることになった。


「ベッドをベットというやつは、なにをやってもだめだワン!」

「うぅぅ、ご、ごべんだざいぃ……」


 私は解放されたけど、ママへのお説教はパパが仕事から帰ってくるまで続いた。


「何だ、仔犬か……ん?」


 パパは仔犬を二度見した。


「やあ、ひさしぶりだワン!」

「……ま、まさか……チロキチさんですか?」

「おぼえていたようだワン」


 パパは仔犬に愛想笑いをしながら、ママの隣に自分から正座した。


「パパ。この仔犬と知り合いなの?」

「ああ、パパが子どもの頃に飼っていた犬でな」

「えっ、だって仔犬だよ? 何年前の話?」


 私はそう聞きながら、でも、普通の仔犬は人語を喋って説教したりはしないな、と思い直した。


「チロキチさんはな、お爺ちゃんが子どもの頃にも、ひいお婆ちゃんが子どもの頃にも、飼い犬として、飼い主の心得を教えてくださったんだよ」


 なんのこっちゃ、とは思ったけど、どうにか口に出す前に飲み込んだ。


「そうかぁ、お前の所にも、チロキチさんが来てくださる歳になったのかぁ」

「そういうことだったのね……」


 パパは何やら染々しているし、ママも何やら納得しているからだ。


「きみ、いま、ふにおちないと思ってるワン」

「えっ、なんでわかっ……あ!」

「ほんとうに、おもってたワン!!」


 それからカップ麺だけの遅い夕食を食べて、チロキチさんには仔犬用に薄めたミルクをあげて。

 そのままチロキチさんは、うちの飼い犬になった。



 あれから20年ちょっと。

 チロキチさんが亡くなってから10年か。


「ケージをゲージというやつはなにをやってもだめだワン!」

「ご、ごべんなざいぃぃ……」


 仕事帰りの玄関先まで、甲高い吠え声と、涙混じりの息子の声が聞こえてきた。

 思わず笑いがこぼれる。あの子ももう、そんな歳になったのか。

 私はこっそり家の外に戻り、コンビニへ仔犬用のミルクを買いに行った。



<了>

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