ひとりじめ/音哉×奏斗(中学生)
他の人と話さないでよ、自分だけを見てよ。
時々無意識のうちに浮かぶどす黒い感情に、本人に気付かれないよう頭を振る。背を向けて視界から外し、思考の外に追い出すよう、机の中から数学の教科書を引っ張り出して適当にページをめくり、目に入った例題を眺める。数学の苦手な奏斗にとっては逆効果だった。
(あと二分……)
のろのろとしか動かない秒針が恨めしい。音哉と話している時はあっという間に過ぎるのに。けれどひとりで過ごしている今は、一秒すらこんなにものろのろ過ぎる。睨んだって秒針が速くなったりすることはないが、イライラのような、悶々とするようなこのどす黒い感情をぶつけるものがそれ以外になかった。
幸か不幸か、奏斗の思いが通じたのか、ベルが鳴るより少し早く数学の先生がやって来た。ドアの開く音に反射的にそちらに視線をやった人たちがそれに気付き、自分の席へと戻り始める。ベルが鳴る頃には全員が着席しており、ベルの音とほぼ同時に先生が「起立」と号令をかけた。
すぐ後ろから椅子を引く音が聞こえて、奏斗は俯けていた顔を上げる。先生が号令をかけて立ち上がると同時にまた椅子を引く音、座る音、机から教科書とノートを取り出してめくる音――一斉に聞こえる同じ音の中で、すぐ後ろで音哉の動作する音だけが奏斗の耳にははっきりと聞こえた。
席替えをしたわけではなく、苗字の関係で二人の席は前後だった。奏斗が前で、音哉が後ろ。
「今日は例題から……」
チョークで黒板に教科書の例題を書き写す先生の背中をぼんやり眺めながら、奏斗は背後に感じる視線に胸のあたりでぐるぐると渦巻いていた何かがすっとなくなるのを感じた。
自分を見ているわけではないのに。視界には入っているけれど、音哉が真っ直ぐ見つめているのは黒板。
(次の休み時間こそは話ができたらいいなぁ……と、思うけど)
めずらしく弱気に最後に付け足してふぅと小さく息を吐く。
二人が幼馴染であるということは知れ渡っているし、仲がいいこともみんな知っている。だから休み時間に話をしていても、移動教室の祭や登下校で行動を共にしていてもなんらおかしいことではないし、不審に思う人はいない。
しかし少しべたべたしすぎているのではないだろうか、と奏斗は最近思い始めていた。いつだったかクラスメイトに言われた「二人って仲がいいよね」という台詞は、言葉通りの意味の裏に「仲が良すぎてあやしい」という意味も含まれていたのではないだろうかと。
周囲には隠しているが、二人は幼馴染でもあり恋仲でもあった。だから先ほどの休み時間に、音哉が自分以外の人と楽しそうに会話をしている様子を見てむっとしてしまったわけで。音哉は表情が少ないから、自分以外の人に笑顔を見せているとどうにもおもしろくない。奏斗の前で笑う回数が圧倒的に勝ってはいるが、それでもおもしろくないものはおもしろくない。
かといって自分以外の人と話すな、仲良くするなというのはわがままだということは、幼いながらに分かっていたし、制御はできていた。二人とも中学生である以上、毎日学校に来なければいけないし、人と接しなければならないのだから、クラスメイトや部活の先輩後輩、先生など人と関わらなければいけない機会は多い。
(でもやっぱり、独り占めしたい)
幼馴染であり、さらに恋人同士なのだから、他の人と比べたら特別なのは分かっている。人前ではしないが、二人きりになれば求めてくることもある。
愛されているとは分かっていても、もっともっと欲しくなる。独占したくなる。
その日は起きてすぐ分かるくらいには、奏斗は不調だった。母親がその人は奏斗より早く仕事に行ってしまったこと、そのためにいつも以上にばたばたしていて余裕がなかったこと、そして奏斗も昨日夜遅くまで譜読みをしていたからだろうと思い、気にせずに登校した。
「奏斗、お前風邪か? 具合悪い?」
「へ? なんで?」
幼馴染である音哉だけはそれに気付いて、会ってすぐに体調を聞かれた。
「だって顔色悪いし、なんかだるそうっていうか」
「確かにちょっとだるいけど……昨日遅くまで譜読みしてたから寝不足なだけだと思う」
「ほんとに? 大丈夫か?」
「へーきへーき」
心配そうに自分の顔を覗き込む音哉の腕を叩いて奏斗は歩き出す。奏斗本人が大丈夫だと言うなら、と音哉はそれ以上は言わなかった。奏斗が部活に熱心で、前にも譜読みをしていて寝不足だったことはある。もしこれ以上顔色が悪くなったり、様子がおかしくなったらその時は保健室に連れて行けばいい。具合が悪いなら帰れといってもきかないのが奏斗なのは、幼馴染ゆえによく分かっているから。
しかし、奏斗の体調が悪化したのは思っていたよりも早く、二時間目の授業を終えた頃には音哉以外の誰が見ても奏斗の顔は真っ青だったし、机に突っ伏して微動だにしなかった。大丈夫か、と聞こうと突っ伏している奏斗の背中に触れると、制服越しに分かるくらいに奏斗の体は熱かった。
よほどしんどかったのか、「保健室に行こう」と言うと、何も言わず黙って頷いた。
「奏斗、具合悪いみたいだから保健室に連れてくから、先生に言っといてくれ」
クラスメイトにそう声をかけ、奏斗を抱きかかえるように連れて教室を出る。
なぜ我慢をしていたのか、と聞こうと思ってすぐにやめる。どうせ「部活があるから」と返ってくるに決まっているから。前にも同じことがあった。その時は、今ほど目に見えて体調は悪くはなかったが。
保健室へ行き、熱を測ると39℃近くあった。これには先生も驚き、奏斗をベッドに寝かせると担任の先生に知らせてくると言って慌てて出ていってしまった。
様子を見ていてくれと頼まれてはいないが、病人を放って帰るわけにもいかず、勝手にベッドの近くにあった椅子に腰を下ろす。それ以前に、心配で離れられなかった。
奏斗が苦しそうに呼吸するのに合わせ、布団が上下する。大丈夫か、と聞くと、少し間を空けて奏斗は頷いた。
もっと気の利いた言葉があっただろうに。目の前で幼馴染が、親友が、恋人が苦しんでいるのに、自分には何もできない。いつだって自分はそうだ。自分が困っている時は奏斗に何度も助けてもらっているのに、奏斗が困っている時はただおろおろするしかできない。
「ね、音哉」
荒い呼吸の間に、かすかな声で不意に名前を呼ばれて音哉は顔を上げる。
「どうした?」
「……て」
「て?」
「手……にぎって?」
布団の中から出された手を音哉は握る。握り返してきた奏斗の手は弱弱しかった。ふっと奏斗の顔がゆるむ。
「えへへ……今、俺と音哉しかここにいないね」
「……うん」
「少しだけだけど、音哉独り占めできるね」
「……うん」
こんな時に、というのは分かっているけれど、突然かわいいことを言われて音哉の顔が緩む。
握った自分の手を頬に寄せてぴとっとくっつけると、奏斗はかすかに笑みを浮かべた。頬に振れた手の甲から熱が伝わってくる。
「音哉ぁ」
「どうした?」
「あのね、好きだよ」
もともと赤い頬をさらに赤くして、くふふと奏斗は笑いをこぼした。
「……うん。俺も好きだよ」
「あのね、俺ね、他の人と仲良く話してるの見るとやいちゃう」
「……ごめん」
「いいの。でもね、音哉が自分以外の誰かと話してると、いつもちょっとだけ嫌だなって思っちゃってごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「だって、俺っていつも自分勝手だから」
「そんなことない」
奏斗は自分勝手だというけれど、音哉には全然そうは思えないし、むしろ自分と比べればかわいいほうだと思う。音哉だって、奏斗が自分以外の人と話しているのを見ると嫉妬することはある。それに、奏斗は誰とだってすぐに仲良くなるし、表情だって豊かだから、すぐに親しくなって笑顔を向けているのを見ると、自分でもみにくいなと思うくらい嫉妬している自分がいる。
思えば、恋仲になってから、奏斗は自分に対してはっきりとものを言うことがなくなった気がする。
全部は叶えてあげられないけれど、思うことやしてほしいことがあったら、言えばいいのに。素直なようで、素直ではない。でもそこがかわいくて愛しいと思ってしまうのは、惚れたなんとやらというやつか。
「先生、帰ってこないといいな」
「それはダメだろ。お前のこと帰さないといけないし……」
「帰るの嫌だなぁ。部活したいし、音哉ともっと一緒にいたい」
自分よりも先に部活が出てくるところが奏斗らしくて、音哉は思わず笑う。
家に帰って安静にして早くよくなって欲しいと思う反面、音哉も奏斗と同じく先生が帰ってこなければいいのにとも思う。状況はさておき、二人きりの時間が愛しいのと、奏斗が素直になってくれたから。
おそらく、明日になったら奏斗は自分の言ったことを覚えていないだろう。弱っているからこそ、普段はなかなか言えない言葉が出たのだろうし。でも、それでもよかった。
「ね、音哉?」
「ん?」
「明日までに元気になるから、おまじないして」
「……分かった」
少し考えて音哉は奏斗の冷却シートが貼られた額に手を置く。そして、前髪をかき分けて触れるだけのキスをそこに落とす。
「早くよくなりますよーに」
「……ありがと」
満足したのか、奏斗は笑う。
奏斗が緊張した時。機嫌が悪い時。よく「おまじない」をしてあげていたけれど、風邪を引いた時のおまじないはこれがはじめてだった。おまじないと言っても、ぽんぽんと頭を撫でてやったり軽く抱きしめたりといった、簡単なことだ。
「これで明日、また音哉と一緒にいられるね」
「……うん」
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