盛夏

 岩をぐるりと回り込み、土方は爽葉の目の前に立った。目線が同じ高さになる。彼もそれが判ったのだろう、少しだけ身動みじろぎする。外してしまいそうになる視線を、意地でも先に逸らしてなるものかと、踏ん張っているのが見て取れた。


「お前はまだ、人と居ることに不慣れだ」

「う、うん……」


 珍しく素直に、爽葉が頷いた。


「どう生きてきたか知らないが、一人に慣れ過ぎている。その自分の命を軽視した行動と戦い方は危うい」

「う。そんなに酷いか」

「ああ」


 爽葉が少し、しょぼくれる。


「だが、お前の強さを生み出したのは、その身を削るような戦いであることも事実だ」


 爽葉は傷つくことを恐れない。命にすら執着しないが故に、臆する事なく知らぬ境遇に飛び込めるし、戦いにおいて奇想天外な技を仕掛けることができる。

 浪士組に入隊した時だってそうだった。自分を捕らえた、見知らぬ浪人集団に身を置くことの危険性をさして推し量ろうとせずに、提案をすんなり了承し、あまつさえ命を危険に晒す方法で間者の疑いを晴らす始末。自分の身体が傷つく恐怖は持ち合わせていないくせに、周囲の者が怪我をするとひどく動揺する。仲間の怪我という未知の不安に怯えるくらいならばと、身を挺するような行動に移りがち。

 無防備で、危うくて、何処となく寂しい背中と強がる肩。力を抜けと、言いたくもなる。


「でもお前はもう、新しい強さを手に入れた。仲間っつーどんな玉鋼よりも硬え矛と盾をな。きっと、お前の力になる」

「僕の力に?」

「そうだ」


 爽やかな風が吹いた。透明感を帯びて、爽葉の元へと土方の言葉を運ぶ。

 土方の誠実さみなぎる眼差しが、自身を真正面から見据えていることを、爽葉は感じていた。彼は、言葉をもてあそぶことはない。人には容易く見せない、彼の根底に在る本質が、そうしているのやもしれない。


「お前の力になるだけじゃねえ、俺達の力にもなるんだ。それは何十倍、何百倍にもなり得るでかい力だ。だからお前に倒れられたら、俺等が困る」

「困る、の?」

「ああ、困る。お前の身体はもう、お前だけのものじゃねえんだ」


 とん、と土方の長い指が、爽葉の心臓を指した。


「大切にしろ」


 今まで、あまりにも独りの時間が多過ぎた。

 人間の根本の価値観を培う幼少期を独りで過ごし、仲間の大切さを説いてくれる人が周囲に居なかった事を考えれば、爽葉の人間性が剥離はくりした思考は至極当然の結果であった。そして未だ、仲間と共に戦うということをよく理解していない。

 首肯した爽葉を見て、土方は彼の脇の下に両手を差し込み、身体を持ち上げて岩から降ろす。ぽかん、とした阿呆面で、青の虹彩が土方を見つめている。混じり気のない純粋な瞳は、何時いつ見ても美しい。


「ほら、帰るぞ」


 爽葉の腕を引いてずるずると引っ張りながら、緩い緑に覆われた坂道を下って行く。


「一人でいるより、仲間と生きることは難しい。人と共に生きるということを、これから学んでいけ」


 爽葉を握る手は、低い体温と共に不思議と暖かい人の鼓動を伝えていた。






 ところ変わって、日本の南の南。京の街から遠く離れた、沖永良部島おきのえらぶじま

 大いなる自然に囲まれた、小さな座敷牢があった。

 劣化した壁の上に真新しい板が貼り付けられ、修繕の跡が目立つが、少しガタのきた窓を開けば目下に美しい景色の一望できる高台に位置している。その傾いた戸が、静かに叩かれた。


「こんなところで塾を開く物好きがいると聞いて来てみれば、お前か、西郷」

雪篷せっぽう殿どん? *ひったまがった。こげん辺鄙な土地に開かれた塾にわざわざお越しに?」


 にこにこと笑顔を崩さない四十がらみの男が、伸び放題の草木を背にして立っていた。焼酎を飲みながら眉尻をゆるりと下げている。懐からは綴じ紐の緩んだ小豆色の帳面が顔を覗かせていて、酒を片手に詩でも詠んでいたのだろうか、と西郷はその擦り切れた帳面の角を見つめた。


土持つちもちせがれから話を聞いてね」


 そうして、ひょひょひょ、と彼は変わった笑い声をあげる。白く骨張った肌が頬と鼻の上だけ赤いのは、遮るもののない太陽の光に焼かれたからなのか、酒の所為なのか。

 西郷は自身の半分ほどの身幅しかないその男を小さな座敷へと招き入れた。


「青少年共に勉学を教えるだけじゃなく、穀物の保存法とやらまで教えて、村民から大層慕われているようだな」

「敬天愛人。今はこん考えん下、全てんしに分け隔てなく、慈愛を持って接しようと努力しちょっ」


 ほお、と雪篷の毛量の多い睫毛に隠れた目が光った。老いても純粋な透明度を持ちながら、何処か人の心を見透かすような視線が、興味深げに西郷の丸い瞳を見る。


「そこまで知った仲では無かったが、お前、随分柔らかくなったなぁ。下手糞な人付き合いとでかい態度は抜け落ちたようだ。ただ、その巨漢に似合わぬ細々こまごまとした性格だけは直らぬか」

「こんた生まれ持った気質でして、もう直りもはん。ただ、貴方おはんから見ればだいもが小胆に映ってしまうやろう」


 部屋や茶を淹れる手元には、彼の性格が如実に現れていた。建前という日本人の美徳は数本の歯と共に抜け落ちている雪篷は、残った奥ゆかしささえも、茶菓子を刺していた楊枝で弾き出している。


「まあ良い方向に変わったことだし、儂は今のお前がなかなか気に入った。島津しまつの野郎に島流しされた仲だ。お前に書と漢詩を教えてやろう」


 出された茶もそこそこに、焼酎を嘗める彼は不揃いの歯を根本まで見せて、にんまりと笑うのであった。






「油断するな。奴等、どうも怪しい」


 近藤の耳打ちに、永倉はこくりと一つ、頷いた。


「たのもう」屯所の門を叩いた男達が居た。

 御倉井みくらい勢武せたけ越後えちご三郎さぶろう荒木田あらきだ左馬之亮さまのすけ松井まつい竜三郎りゅうざぶろう、以上の四名だ。


「我等、長州勤王党に属していた者です。しかし、意見の相違から脱退し、会津候とともに勤王のために奉公されておられる壬生浪士組に是非とも加えて頂きたい所存で参りました」

「そうかそうか。良いだろう、大歓迎だ」

「ありがとうございます」


 そう言って彼等は深々と頭を下げる。何やら胸に一物ありそうだと、その並んだ旋毛つむじを眺めながら近藤は怪しんでいた。

 永倉を呼び、屯所の案内を任せると共にその旨を伝えた。そして監察方の島田に、彼等に探りを入れるよう指示をする。


「きな臭いですね」

「ああ、奴等の奸計かんけいを暴いて欲しい。この前の彼に引き続き、間者の可能性もある。念入りな調査を頼むよ」


 彼、とはくすのき小十郎こじゅうろうのことである。爽葉の活躍によって、浪士組に間者が紛れ込んでいたことが判明した。

 楠が屯所を抜け出して秘密裏に会っていたのは、恐らく桂小五郎だ。一度大坂で出会でくわした奴の匂いと同じだったと言う。


「楠同様、泳がせるおつもりで?」

「ああ。彼等には国事探偵方の任を与えて、門限は自由、出入りは自由としよう」

「随分と甘やかしますね」


 ははっ、と大口を開けて笑う近藤の目は、何時になく射るような眼差し。


「隊の制服新調料として、金子も多少与えておくか」

「甘々ですね」

「これくらいは大丈夫だ。存分に浪士組うちの中を嗅ぎ回って貰おう。鼠捕りの罠の内側にいることに気付かせないよう、気をつけねば」


 これは布石である。目に見えて勢力を伸ばしている長州勢力を抑え込む一手を掴みたいのだ。


「奴等が外国船に大砲をぶっ放した事件で、幕府の怒りを買ってから一気に亀裂が深まったが、何せ勢いが凄い」

「京に集う長州の輩が増えてきていますからね。捕縛の人数も右肩上がりです」

「ここらで押さえ込みたいのが幕府こちら側の本音だろう。容保公も頭を悩ませておられた」

「ちょっとちょっと。でかいのが二人並ぶと完全に戸が塞がれるんだけど」


 その声につられて振り返った六尺を越える二人を若干見上げながら、不服そうにした藤堂が廊下奥からやって来た。高い位置で結った髪が元気に揺れている。


「なになに、何の話してるの」

「最近の長州藩の動きにますます注意を払わねば、という話です」


 「あー」と、藤堂は人差し指を顎に添えて、納得の表情を浮かべる。

 最近、活動が急進的な長州の攘夷志士の面が、次第に割れてきている。つい先日も、魯漠という輩の本名は入江九一だということが判明した。

 その幹部会議の際に、間者について報告しに参加した爽葉の様子を藤堂はこっそり観察していたが、彼の顔色は一片たりとも変わらなかった。


「確かに最近は雲行きが怪しいよね。尊王攘夷派に対抗して朝廷と幕府が*公武合体をして数年とそこらだけど、連携した癖に*攘夷するかしないかで、ずっと駆け引きばっかりしてるもんな。幕臣は肩凝りそう」


 歳若く活発な印象の藤堂は、学問とは縁遠そうな外見とは裏腹に、経済に精通した文武両道の男だ。お茶目な仕草で笑っているが、的を射た発言をする切れ者である。


「長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えつつはありますが、何というか……」

「京都を舞台に、俺等含めて諸藩の侍が血みどろで斬った張ったしてる、ただの混乱状況でしかねーよなあ」

「やはり今回の間者の件、何かの糸口になるやもしれんな」


 潜り込んで来た鼠の尻尾、みすみす逃しはしないと、近藤は眉間の皺を刻んた。






「ふああ……。まだ夜も明けてないのに何事?」

「爽葉か。俺も今来たばかりで分からないが、大部屋で何かあったようだ」


 大欠伸をする爽葉の寝癖を見ながら、まだ眠そうな猫目が爽葉と同じようにして目尻に雫を湛えた。廊下に人が集まっている。


はじめ、爽葉、おはよう」

「眠過ぎておはようしたくないよ、新八。これ何の騒ぎだ」

「隊士が一人脱走したようだ」


 群がる男達の合間を縫って大部屋を覗いた斎藤は、綺麗に片付いた一角を見つける。


「おい、誰が脱走したんだ」


 斎藤は近くにいた隊士の肩を掴んで、問うた。少し急いたような口調。聞き耳を立てた爽葉が斎藤の傍にぴたりと寄った。


「恐らく、佐々木です」

「佐々木? 佐々木って……まさか」

「はい、愛次郎かと」


 爽葉の手から少し水気を含んだ手拭いが落ちた。ぼとりと重量感のある音を立て、飛沫を散らす。


「あ、愛次郎……? 嘘だ」

「残念ながら、本当のようだ」


 ぱっと振り返ったその先には、気怠げに歩いてくる土方。少しだけ乱れの残る髪の狭間から、まだ夜を引き摺ったような深い闇が覗いている。


「今し方確認を行った。斎藤、沖田、永倉、奴を追え。間者の可能性も否めねえ、もし長州の輩が大勢潜伏しているようだったら、深追いはするな」


 それから、と小さな藍色を見下ろした。


「匂いを追えるか」

「時間が経って消えていなければ」

「お前も行け。見つけ次第捕らえて屯所に引き摺り戻せ、副長命令だ」


 その命令は、水の凍る音がした。






「こっちだ」


 佐々木の行方を追う四人の顔付きは、無機質だった。誰を差し向けても失敗はないだろうが、土方の人選は流石である。緊張高まる現状の最中、今までで最も身近な者が規律を違反した今回の件では、腕前だけでなく、何よりも心を殺せる者を選んだのだろう。現に彼等は、彼と過ごした場所に情を置き去り、風の速さで彼に追いつこうとしていた。

 壬生寺を曲がり、二条城の前を駆けてゆく。佐々木の残した馴染みある余香は、嗅ぎ慣れた爽葉にとって非常に辿り易かった。白む空を反射した堀に囲まれた、小暗い残夜ざんやに浮かぶ長い白壁を通り過ぎた時、背後の三人に爽葉が声を掛けた。


「血の匂いだ」


 斎藤の左手が静かに柄を握り、永倉が深くゆっくりと息を吸った。肌理きめの細かい血の濃香が暗がりに充満し、肌に吸い付くような気味の悪い感覚を与えた。


「あれ、愛次郎じゃない?」


 沖田が示す先には、道の真ん中で折り重なるように生き絶えた人の姿。斎藤が剣を下ろし、近寄る。


「死んでいるな」

「こっちの女は誰だ」

「あぐりだな。愛次郎の想い人だ」


 沖田の冷え冷えとした辛辣な視線が、もうただの肉塊となった男の傷を、再度斬るようになぞった。そして剣先を、うつ伏せになった佐々木の襟に引っ掛けて、ごろんと女の上から転がす。


「武士が背中を斬られて死ぬなど……。くだらない」


 沖田の行動には一切の迷いも躊躇もない。近藤の分身である浪士組の為ならば、彼はどんなことでもする。彼の芯の強さは、近藤への確固たる忠誠心故だ。


「泣ける話じゃねえか。それもこれも愛する女のためによお」


 永倉がそう言うが、少し皮肉っぽい口調だ。


「これが、愛ってやつなのか?」


 爽葉はその無惨な有様を前にして、なんて馬鹿馬鹿しいのだろうと鼻で笑った。しかし同時に、笑いで吹き飛ばせなかった、心の中に残ったおりくすぶるのを感じていた。魚の小骨が突っかかった時の様な不快感に、無性に苛立ちがつのる。

 愛の為に生きようと、命を捧げると誓った筈の浪士組から逃げ出した?

 武士であった己の誇りと威厳を呆気なく捨て、愛する人を守る為にこんなにもしょうもない死に様を仲間に晒した?


「理解できんな」


 地団駄さえ踏みたくなるような、判然としない苛立ちと共に道に吐き捨てた。吹き溜まった腥風せいふうが不快感を燻し、ものういな気分が募る。


「おい見ろ、こいつ何か握ってる」


 仰向けになったことで、佐々木の左手に何かが握られているのが分かった。斎藤は硬直した彼の手を無理矢理広げ、それを取り出す。


「小袖を破いたのか? こいつのでも女のでもないようだが」

「殺した奴のじゃねえか?爽葉、嗅いでみろよ」




 *ひったまがった…驚いた

 *公武合体…朝廷と幕府の(結婚による)協力体制

 *攘夷…外国の排斥

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