往時 -Ouji-
「痛っ」
自分の発した声で目が覚めた。ぼやぼやとした意識の中、次第に体の細部の感覚が覚醒してくるのが分かる。それに伴ってゆっくりと節々に力を入れてゆく。夕暮れ時だろうか、東雲の空に漂う涼しい空気と鳥の声を、風が部屋まで運んで来ていたのだが、彼にしては珍しくそれに気付く余裕はなかった。
「くっ。う……」
爽葉は引き攣った声をあげ、布団の上で丸まりながら身体中に力を入れた。筋肉と血管が浮き出て、ぎりぎりと食い縛った歯が音を立て、その隙間から呻き声が洩れた。痛みに苛まれ、上手く息が吸えない。
「どうした……チビ助?おい、どうしたんだ」
ついたての向こうから様子を窺うように覗いた土方が、苦しみに耐えるように身体を縮こまらせる爽葉の姿を見つけ、ついたてをすぐさま手で薙ぎ払う。傍に膝をつけて、彼の肩を掴んだ。慌てた声で、爽葉、と何度も名を呼ぶ。彼は答えず、開こうとした口は食い縛ることで結局閉じられた。
「答えろ!どうした!」
力み過ぎで痙攣気味に震える爽葉の様子に、土方の表情にも隠しきれない焦りが見え隠れした。
「い、痛い……目、が……」
爽葉の唇がやっとの事でその二言を押し出すと、彼の爪の痕が食い込んだ掌が、土方の腕を縋るように掴んだ。咄嗟に、土方はその手に自分の手を力強く重ねる。爽葉の小さな手は、土方の手にすっかり覆われて、振動すら固く掴んだ彼の手が全て吸収した。爽葉の脚が布団に皺を寄せ、空いたもう一方の手は畳のイグサを抉るように引っ掻く。
土方は今日もいつもと似たような一日を過ごし、爽葉もいつもと同じように土方に鬱陶しい程絡んで来て、先程普段より少し遅めの昼寝を始めたと思った時だった。少し蒸した風が通り抜けてゆく。
「爽葉!」
もう一度名を呼んで、返事がないのを見とめた土方は、舌打ちをした。
「ったく、手間がかかる奴だ」
爽葉の暴れた片足がもう一つのついたてを蹴飛ばし、片手が積まれてあった本の山を崩した。
「おうおう、やってくれんじゃねえか」
口の端を釣り上げた土方の手が、爽葉の肩を畳に縫い付けた。土方の力を考えれば細身の爽葉の力など知れたもの、すぐに半身は動かせなくなる。しかし、痛みに耐えるには暴れるしか方法を知らない彼は、顔を歪め、痙攣する体で必死に両足をばたつかせた。
「痛えよ」
土方も片脚で爽葉の両脚を抑え込むも、初夏の昼下がりの蒸し暑さにやられて汗が顳顬を伝っていった。
「あー、もう面倒くせえ」
土方がそう呟いた瞬間、土方は拘束を全て解き、彼が再度暴れ始める前に、その身体を抱きすくめた。痛みで声には出さないが、彼の動きが途端に鈍くなる。
「俺の声を、聴け」
震え続ける彼の身体を強く抱き込む。こくり。なんとか彼が頷くのを確認して、土方は尚も彼の身体を抱き壊してしまうと思えるほど強く力を込めた。爽葉の身体は想像以上に華奢で、土方の胸の内にすっぽりと収まった。
「ゆっくり呼吸しろ」
胸を震わせながらも深く息を吸い込んでは吐いて、吸い込んでは吐いて、冷静になろうと懸命に爽葉は深呼吸を繰り返した。
「落ち着いたか」
「……ごめん」
謝った声は小さく掠れていて、いつもの彼らしくない。萎縮して、怯えて、震えて。
「夢を、みるんだ」
「夢?何のだ」
彼は静かな口調で、そっと語りかけるように爽葉にそう問いかけた。その右手は落ち着かせるように、彼の頭を優しい手つきで撫でたまま。胡座をかいた上に爽葉の丸まった身体を乗せて、左腕で震えるその小さな背中を抱え込んでいる。
「幼い頃の夢。決まって悪夢で、頭から離れなくなる。それから斬られたように目が猛烈に痛むんだ」
土方の刻む穏やかな拍子は、爽葉の早まっていた鼓動を次第にゆっくりとしたものへと変えていった。低い体温を感じるように土方の胸元に頭を預けた姿勢のまま、ぽつりと口を開いた。
「……みっともな」
土方にぴたりと頭を寄せてくる仕草は、猫のよう。目下の藍の髪を見下ろして、吐息を零すように口許を緩めた。少し落ち着いて来たようだ。荒い呼吸も震えも、
「僕は人を斬るのに、自分に植え付けられた恐怖を忘れられずにいる。矛盾してる」
「そりゃ、生きてりゃそうだろ。俺だって同じだ。考えたって埒があかねえよ」
「分かってる。分かってるけど、それに怯えてる自分が馬鹿らしい。昔より人を斬るし、躊躇もない。今や乱闘と聞けば歓喜に体が震える始末だよ。それなのにずっと過去に囚われてるんだ」
「過去は書き換えられねえし、事実だ。怯えても悩まされても、お前は武士であり続けるんだろう?とうに腹づもりはできてんじゃねえか。人の心臓に刃を立てていいのは、己の命が奪われる覚悟のある者のみだ。お前はその覚悟引っ提げて相手に勝った。それだけの事さ」
爽葉の髪に、土方は自分の手を潜らせた。細くて柔らかいが、艶も芯もある滑らかな髪は触れていて心地良い。
「過去を忘れる必要も、変に重苦しく受け止める必要はねえ。ただ事実として其処にある、その程度の認識で良い」
「そこにある、程度?」
ああ、と土方は半開きになった障子の向こうに見える、夕焼けの鮮やかな朱色に目を細めながら応えた。抱える彼の温度は
「忘れることはできねえし、命を奪った罪から逃れるのも違うだろ?だが、深く考えたって答えは出ねえ。下手すりゃこっちがやられるってんなら、放っておくのが一番だ。そんなもんでいいんだよ。弔うのも考えるもその
相変わらずのぶっきらぼうな言い草だったが、爽葉は嬉しそうに、落ち着いた口調で、そうか、と言った。
「そんなもんでいいのか」
「ああ、そんなもんでいい。大体、俺が指示を出しているんだ。本来、
「トシ。それは違う」
今まで聞いたことのない、真剣な声音に土方は驚く。彼の見知らぬ部分が垣間見えた気がした。
「違うよ、それは僕でも分かる。殺した科は、斬った者が背負うべき業だ。トシが肩代わりする必要はない」
見開いた目を、伏せる。
「そうだな。俺も、考えすぎだったかも知れねえな」
安心しきったように、爽葉の身体に残っていた強張りが完全に消え失せた。
「トシ、もう少しこのまま、」
爽葉は土方の腹部の着物を握り直し、背中を丸めて更に縮こまる。暫くすると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
「ったくよ、これだから餓鬼は」
煙草を咥えた口許は、緩やかな曲線を描いた。
「あー。最悪……」
結局、今夜は寝付けなかった。奴の前であんなにも取り乱して醜態を晒したなんて、恥ずかしすぎる。梅雨と冬の時期は古傷が痛む。その痛みと悪夢が混同して、錯乱状態に陥ることは今までにも度々あった。この共同生活が続けばいつか人前でもああなってしまうかも知れないと予想はしていたが、対策を講じる余裕もなく事が起こってしまった。
う、思い出したくないや、と自分で先程の出来事を思い起こしておきながら、苦い顔をして酒を喉に押し込んだ。夜の屋根の上。今日は、いつも既にほろ酔いで迎えてくれる先客はいない。少し期待外れな気もしたし、居なくて良かったと安堵する気持ちもある。
「疲れた……」
痙攣するほど力を込めたが為に、身体の節々が痛かった。脹脛やら腰やら肩やらを揉みほぐしながら、ふう、と爽葉は一息ついた。あの後、土方に抱き締めて貰いながら、眠りに落ちたことはぼんやりとした意識の中でも覚えている。いつも感じる不思議。それは、無意識のうちに自分が土方の香りに惹きつけられていること。甘い菓子の香りを嗅いだ時でもなく、鮮烈な血の臭いを嗅いだ時でもない、初めての感覚に、柄にもなく気がそぞろであった。奴の独特の雰囲気も相まって無性に心を拐かす。まるで花に誘き寄せられた蜂だ。
「よっこらせ。おっ、案外高いなぁ」
「えっ、えっ、えっ?近藤さん」
突然爽葉の右側から声がしたと思ったら、近藤さんの呑気な声がした。気配は感じていたが、まさか屋根に登ってくるとは思いもしていなかった爽葉は声を裏返した。彼はがちゃがちゃと瓦を踏んで此方に歩いて来る。
「俺だってまだ若え。このぐらいやるぜ?」
服が汚れるのも構わずに、木を屋根に登って爽葉の隣に腰を下ろし、頭の後ろで腕を組んで寝転んだ。彼はいつでも太陽の匂いがする。とても素敵な香りだ。
「いやー、夏の夜は風が気持ち良いな。風呂上がりは特に最高だ」
「近藤さんも飲むか?」
「おう、一杯くれ」
手探りでお猪口を探し出して掴み、近藤さんの分の酒を継ぎ足して渡した。
「あー、美味え。こうなると
「僕は乾き物の気分だな」
風が、優しく藍の髪と白い布を靡かせた。
少し前の話なるが、と近藤は前置きする。
「総司を励ましてくれたらしいな、ありがとう。俺が、話も聞かずに頭ごなしに叱ってしまった所為だ」
「いや、僕は何もしていない。僕自身、総司に言えた義理じゃないんだ」
彼の指が、お猪口の縁を所在なさげに弾いた。思ったより不恰好な音が響いて、それが間抜けに思えた爽葉は少しだけ口角を上げた。
「トシに言われた」
「ん?」
「トシに言ってもらったんだ。過去の消せない記憶は、忘れようとも受け止めようともしなくていいんだって。言われて少し、気持ちが楽になった気がする。近藤さんも、そう思う?」
息継ぎ無しに言い切って、爽葉は近藤の答えをじっと待った。
じんわりと着物の下で汗をかいている。葉を揺らす風が、間を繋がように鳴く虫の声を、此処まで運んで来る。
「俺には、歳よりいい言葉をお前に言ってやれる自信はないよ」
その答えに爽葉はちらりとも身動きせず、ぼんやりとした表情で視界の碧落を向いている。彼のそんな締まりのない口許からは何を考えているのか窺い知ることは出来ない。
近藤は視線をお猪口の水面に移した。頑固そうな線の太い顔が映り込んでいる。
「俺も歳も爽葉の一回り年上だが、人生を教えるにはまだ若い。結局のところは自分で解決するしかないんだよ」
爽葉のそっと閉じた瞼の眼裏を、古ぼけた家屋の背景が過ぎり、 耿然たる橙が鮮明に浮かび上がった。塗り替えたい。もっと華やかな色に、もっと明るい色に、もっと優しい色に。その記憶は色褪せるどころか、年を経るにつれてより刻み付けられていっている。
だがな、と太い声で接続語を打った近藤は、にこりとして隣の彼を見た。無表情という仮面の裏の、見えない葛藤と苦楚を推し量り、眉を少々寄せるも依然として笑む。
「でも自分が失敗してきたことや学んだことは、教えられる。高々十年の経験だが、きっとお前等が壁を乗り越える手助けができるんじゃないかと思って、俺等は教えるのさ。それで爽葉、おまえの気持ちが楽になるのなら、良かった」
まあ、うるさいって一蹴されちゃあ終いだが、と優しく笑う近藤を、爽葉は布で隠れた目で見つめた。
「僕に、近藤さんみたいな兄ちゃんがいたらよかったのに」
「ははっ、何言ってんだ」
ぼやき気味に零した独り言は、近藤の明るい声にあっさりと吹き飛ばされた。
「ここにいる奴等は皆兄弟だ。兄弟ってのは、心の繋がりでなるものさ。血の繋がりなんかよりもずっと強くて固い」
どくり、と脈打つ血の流れを感じて、初めて爽葉は不安そうな気持ちを露わにして近藤を見上げた。彼は、そんな揺らぐ視線をも優しく受け止めてくれる。寛大で、おおらかで、無条件に安心感を与えてくれる、彼だからこそ持てる包容力ある大きな懐。
「その繋がりは、曖昧でないのか?」
「想う心があればそれで良い。足りないのならば言葉にすれば良いだけだ、それでも足りないのならば行動に移せば良いだけだ。目を見れば人の真意が、口を見れば誠実さが伝わる。歳と俺が義兄弟の契りを交わしているように、ただ血の繋がりのないだけの、本当の兄弟なんだよ」
近藤は酒を嘗めた。手本の様に丸い月を程よく姿を現した雲が、抱いている。本当に気持ちの良い夜だ。
「そう、なのか」
近藤は、傍のまだ小さな弟が可愛くて仕方がなかった。最近は近藤達皆で彼に小太刀術を中心とした天然理心流を教え込んでいる。彼の剣術は叩き上げの部分が多すぎる。それで今の実力があるならば問題ないのやもしれないが、やはり基礎はあって損はなかろう、との考えからだ。天然理心流は実践向きの剣術であった為、爽葉も会得し易いとの理由もあった。
目が見えない彼は、木刀を怖がった。周りに味方がいるからだと言う。自分の届く範囲が大きく広がる木刀は、その長さを把握しきれず、敵のみならず自身の身体や味方まで斬ってしまうのだそうだ。
剣を一から指導する感覚は久々で、江戸の試衛館での日々を思い起こさずにはいられなかった。きっと皆もそうなのだろう、彼の指導を代わる代わる受け持ち、暇さえあれば稽古の様子を見に道場に足を運んでいる。
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