第一話― 日本一ハチャメチャな学校(1)
季節は春。
春は曙、春うらら、春眠暁を覚えず、プラハの春。春にはさまざまな趣のある言葉がある。それぐらい、春は人にとって印象深い季節なのだろう。
ここは某県の県庁所在地である矢釜市。人口三十五万人ほどの海岸に面した、緑と水に育まれた風光明媚な中核都市だ。
ある日曜日。海岸沿いの道路を走行する一台のトラック。その荷台の上には、穏やかな潮風に身を任せる二人の女性の姿があった。
「わー、海が綺麗だね。随分、遠くまで来ちゃったんだ」
そのうちの一人は、大海原を望みながら弾んだ声を上げた。
背中まで伸ばした艶やかな黒髪をなびかせて、パッチリとした大きい瞳ではにかむ笑顔が愛らしい女の子。彼女の名前は夢野由美(ユメノユミ)といい、現在高校二年生の十七歳。この物語の主人公である。
「それはそうよ。実家を出発してからもう二時間は経ってるもの。もうすぐアパートに到着するわよ」
もう一人の女性は、風で乱れた長い髪を整えながら、紅を入れた唇を緩めて微笑する。彼女の名前は夢野理恵(ユメノリエ)。その苗字が示す通り、夢野由美の姉であり、現在会社勤めの二十四歳。ちなみに独身だ。
何かと慌しく旅立ちの季節である春。ここにいる夢野由美は両親の都合により、姉の理恵が暮らすアパートへ引っ越すことになった。そんなかわいい妹のために、姉の理恵は引越しの立会いに同行していたのである。
実家から数十キロ離れたここ矢釜市。ここへ越してきたということはつまり、由美は通っていた高校も転校することになった。何もかも新しい生活のスタートに、彼女は期待と興奮に胸を高鳴らせていたのだった。
* ◇ *
住み慣れた実家を離れてから四時間ほど。夢野姉妹を乗せたトラックは、理恵が住まう家賃三万五千円のごく一般的な賃貸アパートに到着した。
引越し業者に積荷の運搬や開梱といった作業を事前にお願いしていたため、アパートにはすでに応援部隊らしき人員が待機していた。
「それじゃあ、荷物をよろしくお願いします」
「お任せください。お部屋は二階の一番奥でしたよね」
由美の荷物は衣類が中心でそれほどのボリュームではなかった。アパートの部屋の狭さを考慮した上で大きな荷物は極力控えたというわけだ。
当初は姉妹二人だけで運ぶ案も浮上したが、お金よりも面倒くささを優先し、結局引っ越し業者に丸投げすることになった。いくら荷物が軽いとはいえ、女性二人にはそれなりの負担であろう。
引越し業者が作業している間、部屋に入ることもできず、ただ時間を持て余すだけの由美。理恵は理恵で積荷の配置を指示したりと、業者相手に忙しそうで話し相手になってもらえそうにない。
それならば、これから生活するこの街のことを少しでも知っておこうと、由美はちょっとばかり散策に出掛けようと思いついた。
「ねえ、お姉ちゃん。ちょっとだけ散歩してきていいかな?」
由美からの突発的なお願いに、理恵は一瞬唖然とした顔をする。初めてやってきた街で散歩だなんて何を言い出すのかと。
「散歩するって……。あなた、迷子にでもなったらどうするの?」
「大丈夫だよ、すぐ近所までだから。わたしだって子供じゃないんだもん」
もう高校二年生なんだからと、由美はちょっぴり背伸びをして大人っぽく振る舞って見せた。
そんな生意気な妹の額を指で突付いた姉。身を案じているのか、すぐに帰ってくることを条件にして致し方なく了承することにした。
ルンルン気分の由美は、春らしいピンク色のスカートを揺らしてスキップしていく。民家の外壁から顔を覗かせる、開花したばかりの桜の花びらに祝福されながら。
* ◇ *
ここは由美が暮らすアパートから少し離れたとある街角。
タバコの自動販売機の前で、タバコをふかしながらしゃがみ込む三人組の男がいる。通り過ぎる人々に蔑んだ目で見られる、俗に言う不良と呼ばれる連中だ。
不良と言えば、意味もなく因縁をつけては暴力沙汰を起こし非行行為を繰り返す、無秩序、無気力、無節操を絵に描いたような連中のことだ。
ここにいる不良たちだが、素行こそ悪いもののタバコの灰をちゃんと灰皿に捨てている姿勢からして、どうやら多少のモラルだけは持っているようだ。
「ここにいてもヒマだな、おい。駅前の本屋でも行って童話でも立ち読みするかぁ?」
「おうおう、そうすんべ」
三人組の一人が気だるく提案すると、他のもう一人も気だるそうに相槌を打つ。一人はガチガチに固めたリーゼント、もう一人は片目を隠すほどの長い赤毛が特徴的。
そして、最後の一人は他の二人に同調することなく、ふらっと立ち上がるなり青空にぽっかり浮かんでいる真っ白な雲を見上げた。
「雲はいいよなぁ。どこに行くにも風任せ。自由っていいよなぁ」
しみじみと儚げに心情を綴ったその男。メッシュの茶髪に革ジャンを着こなした彼の背中にはどことなく哀愁が漂っている。
「かつて、世界の発明家のガリレオは言った。……自由こそ、人類に与えられた最高の生きる証だと」
名言なのか格言なのか、茶髪の男は意味不明な言葉を語り出す。ただ一つだけ言えることは、世界の発明家はガリレオではなくエジソンである。
ぶつぶつと語っていたかと思いきや、次の瞬間、彼はいきなり力強く拳を握り締めて血の叫びのような喚き声を上げる。
「俺は自由でありたい! そう、空を自由に舞う白鳥のように。そうだ、今こそ自由の翼をもって飛び立とう!」
両腕をバタバタと羽ばたかせる茶髪の男。本人は大空を羽ばたく白鳥になったつもりだろうが、傍目から見たら飛べずにもがくペンギンのようである。
「おいおい、いつもの発作が始まったぞ。どうするよ?」
「どうするって、元に戻らなきゃ医者に見せるしかねぇだろ」
呆れ顔をする二人をよそに、自由を愛する男は羽ばたきながらその場を駆けずり回るのだった。
丁度その時、この摩訶不思議な光景を目の当たりにする一人の女の子がいた。何を隠そう、近所をマッピングするために散歩していた由美である。
目を覆いたくなるようなその光景に、彼女は愕然とするあまりその場に立ち止まり警戒してしまう。
その距離、ほんの二メートル。彼女と茶髪の男の視線がピタリと重なる。
「何見てんのかなー、お嬢さん?」
飛ぶに飛べないアホ鳥は、いたいけな女の子を開いた瞳孔で見据えた。その戦慄に由美は悪寒が走り背筋が凍りつく。
彼女はもともと男性に苦手意識を持っていた。しかも相手は正体不明。その場から逃げ出したかったが、いくら何でもそれでは無礼に当たる。恐怖と戸惑いの顔色を浮かべる彼女が口にした言葉とは。
「……あの、その。頭は大丈夫ですか?」
由美の一言により、白鳥になれなかった男はものの見事に墜落した。精神的なショックを受けた彼が大空に舞い上がる日はやってくるのであろうか。
それはさておき、今度はリーゼントの男が地に堕ちた仲間を救うべくズカズカと彼女の前に立ちはだかった。
「おい、ねーちゃん! 言ってくれるじゃねぇか。頭のおかしいコイツに本当のことを聞くのはタブーなんだよ!」
由美に睨みを利かせて凄んできたリーゼントの男。ところが――。
『ドカーッ』
「頭がおかしいって誰のことだっ!」
いつの間にか立ち上がっていた茶髪の男が、しゃしゃり出てくるなと言わんばかりにリーゼントの男を蹴り飛ばしてしまった。
その暴力行為が由美の恐怖心をますます煽ってしまう。頭の中がパニック状態に陥った彼女は助かりたい一心で許しを請うしかなかった。
「ほ、本当のこと言ってしまってごめんなさい! わ、悪気はなかったんです!」
「本当のことだぁ? そういうことを悪気って言うんだよ」
茶髪の男は眉を吊り上げて、冷め切った目で由美のことを睨み付ける。まさに一触触発、鬼気迫るこの空気に彼女は身震いしながら言葉を失ってしまった。
それは凄まじいほどの威圧感だった。この時ばかりは他の二人も表情を強張らせて、その緊迫の事態を固唾を飲んで見つめていた。
「あのねーちゃん、ヤツを本気に怒らせちまったぜ。まったくとんでもないことしてくれやがる」
「そうだけどよ。怒らせちまった原因の一つはおまえの一言だと思うぜ」
赤毛の男からズバリ指摘されると、リーゼントの男は知らん顔をしながら気まずそうに顔をポリポリ掻くしかなかった。
(ど、どうしよう――!)
由美は身の危険を感じてすぐにも救いを求めたかった。しかし、身も心も縮こまっているせいか大声を出すことができないでいた。
アホなことをしている時と違い、不良っぽい厳つい睨みを利かしている茶髪の男。それはまさに、幾多の修羅場を潜り抜けてきた者の貫禄すら漂わせる鋭利な眼差しだ。
このアマ~と、ドスのきいた声を上げた彼、その直後、思い掛けない台詞を口にする。
「めっちゃ、惚れた♪」
頬を赤らめる茶髪の男の愛らしさに思わずズッコケる一同。
「気に入ったぜ、お嬢さん。どうだい、これから俺と一緒にチークダンスでも踊りに行かないかい?」
茶髪の男は腰を左右に動かしながら由美にしつこく迫ってくる。もちろん彼女はそれに応じるつもりなどない。怯える心にムチを打ちながら、彼の強引な勧誘を頑なに拒んだ。
「お断りします。……わたしは、あなたのような粗暴な人が大嫌いなんです。それに、ご一緒する理由もありませんから」
すぐに暴力を振るうのは不良の所業だ。不良は下劣で不道徳な極悪人ばかりだと、由美は目の前にいる茶髪の男にそう捲くし立てた。後ずさりしている彼女は、不良という存在に拒絶反応を起こしているようだ。
「そこまで言っちゃうか。そりゃ、お嬢さんの偏見ってヤツだ」
「わたしは嘘なんて言ってません。実際に、わたしを不純な動機で誘おうとしてるじゃないですか」
ケラケラと微笑しながら、茶髪の男はくわえたタバコに火を点ける。紫煙を吐き出す余裕の含み笑いが由美の心情をより一層不快にさせた。
「その純情っぷりをみると、さてはお嬢さん、まだバージンってヤツかい?」
「バージン? それって……」
由美は首を捻って一言、バージンってジーパンの仲間ですか?と真顔で問い返していた。唖然とする不良たちの顔を見て、彼女は思い違いに気付いたようだが何とも想定外な天然ボケである。
「……わたし、そろそろ失礼します。もう戻らないと、姉が心配しますので」
お辞儀をしながら、この場から早々と立ち去ろうとする由美。その時、茶髪の男のハイエナのような眼光が怪しく光っていた――。
* ◇ *
一方その頃、また別の街角では一人の少年が四段重ねのアイスクリームを手にして歩いていた。
襟足まで伸ばした茶色いウルフカット、真っ白なシャツに藍色のネクタイが際立つイケメン男子。彼の名は勇希拳悟(ユウキケンゴ)。青春真っ只中の高校二年生、この物語のもう一人の主人公だ。
「ニャハハ。いよいよ初挑戦の時が来たよ。ん~、ここまで生きてきてよかったね」
彼はこれからアイスクリームの四段重ねに初挑戦する。金銭的に余裕がなくてこれまでは三段が限界だったが、今日に限っては母親の肩叩きのお駄賃という臨時収入もありついに待望のこの時を迎えたというわけだ。
不安定さが否めないアイスクリームのバランスを保ちつつ、彼はいよいよ一段目のバニラアイスに口を付けようとした。
『きゃああああ~っ!』
突如、耳をつんざくような悲鳴が周囲に轟いた。拳悟はその叫び声におののいた拍子に手に持っていたアイスクリームを手放してしまった。
アイスクリームはバラバラになって宙を舞い、そして、無残にも地面へと落下する運命にあった。
「わああ、俺の夢がぁ! お駄賃はたいて買ったアイスがぁ!」
姿形こそ崩れたとはいえ、それがアイスクリームであることに変わりない。彼は諦めてたまるかとばかりに、落ちたアイスの上の部分だけでも食いつこうとした、が――。
――悲しくも、そのアイスクリームは近所をうろつく野良犬のエサに成り果ててしまったのである。
「ぐぅぅ、何たる無念。こんなことが許されていいものか」
拳悟は落胆の声で呟きながら、砕け散った夢の無念を晴らそうと悲鳴の発せられた方角へと足を向けるのだった。
* ◇ *
はたまたその頃、由美は不良に腕を掴まれて逃げられない状況にあった。つまり、先ほどの大きな悲鳴は彼女のものだったのだ。
逃れようと必死に抵抗する彼女だったが、茶髪の男の腕はスッポンのごとくしつこくて離れようとはしない。
「は、離してください! また大きな声を出しますよ!」
「おうおう、出してみろ。抵抗すればするほど、この俺の心が快感に満たされていくのだ」
本当の男というものを教えてやると、茶髪の男は締まりのないスケベ顔を由美に向けて近づけてくる。さすがに力の差は歴然で、彼女はどんどん色欲魔の懐へと引き寄せられていく。
「いやぁ、やめてっ!」
『バッチーン――』
空気を裂くような高らかな音が鳴り響いた。その音の正体こそ、由美が抵抗するあまり男の頬を反射的に叩いたビンタであった。
「あちゃー、あのねーちゃん、ついにビンタまで入れちまったぜ」
「こりゃ、マジに怒るかも知れないぞ。アイツ、母親にもビンタされたことがないのが自慢だったからな」
リーゼントと赤毛の男二人が危惧した通り、頬を腫らした茶髪の男は憤慨を示すように鬼の形相で身震いし始めた。握り拳までも震わせて今にも襲い掛かってきそうな様相だった。
このアマ~と、ドスのきいた声を上げた彼。その直後、またしても思いも寄らない台詞を口にする。
「もう、完璧に惚れた♪」
由美はズッコケそうになりつつも、すぐさま体勢を元に戻して一瞬の隙を突いて不良たちのもとから逃げ出した。
惚れた女の子をそう易々と逃がすわけはない。痛さと恥じらいで頬を赤く染めた茶髪の男は、彼女の後ろ姿を猛スピードで追い掛けていく。
捕まってなるものかと、それこそ死に物狂いで逃走する彼女。この時、後ろから追走してくる好色男を気にするあまり、彼女は曲がり角から近づいてくる人物に気付くことができなかった。
「キャッ!?」
「うお!?」
今ここに、主人公の二人が偶然な出会いを果たした。
出会い頭にぶつかりそうになった二人は、反射的に身を翻してあと寸前のところで衝突を免れた。
「ご、ごめんなさい! 変な男に追われてるんです!」
「変な男に追われているとな? そいつは放っておけんな」
藁にもすがる思いで、由美は見ず知らずの拳悟に救いを求めた。女の子、しかも結構かわいい子のお願いなら断じて断るべからず。彼は迫りくるであろう変態の登場に身構えた。
そんな二人のもとに、ハートマークの目をした茶髪の男が怒涛の勢いで駆け付けてくる。あの男です!と叫んだ彼女は、拳悟の後ろに隠れるように身を潜めた。
「あら?」
変な男の容姿に驚きの声を上げる拳悟。偶然とは重なるもので、茶髪の男は何と彼の顔見知りの人物であった。
「そこにいらっしゃるのは、悪名高き変態番長、ダン先輩じゃないですか!」
拳悟の呼び掛けに、その変態番長はすぐさま反応して見せる。
「てめぇ、ケンゴじゃねーか。誰が変態番長だ、このヤロウ」
追い掛けてきた人物と救いを求めた人物が知り合い同士だったとは。由美は複雑な心境をごまかし切れない様子だ。
「あの、お知り合いなんですか……?」
由美のおどおどした問い掛けに、そうなんだよ……と、拳悟は困惑しながら溜め息混じりにそう打ち明けた。
「俺のガッコの先輩でね。不祥事起こしたばかりで無期停学中のダンっていう、ちょっと変わったアホな先輩さ」
由美に強引に迫ってきたこの茶髪の男、名前は碇屋弾(イカリヤダン)といい、拳悟が通う学校の番長に君臨する名の知れた男であった。
ヒゲの濃さとタバコをくわえる姿から、この人が学生だったのかと由美はただひらすら愕然としていた。
実はそれも当然で、弾は高校三年生と言えど二年間留年を経験しているため、ただいま大人の階段を上り始めた二十歳なのだ。
「おい、ケンゴ! 余計なこと言うんじゃねぇ。俺の惚れた女にカッコがつかねーだろうがっ!」
でれでれ顔で、しかもヨダレ垂らしながら女の子を追い掛け回した時点ですでにカッコつかないでしょうと、拳悟はそうツッコミたかったが怒らせると怖いので心の中に留めておくことにした。
「まあいい。ケンゴ、おまえの後ろにいる女をこっちに寄こしな」
「え?」
拳悟はかくまう由美のことを窺う。怯えている女の子を飢えた狼に差し出すマネなどフェミニストの彼にできるわけがない。
「事情は知らないけど、それはできない相談ですよ。先輩に渡したら、この子、お嫁に行けなくなっちゃうだろうし」
拒否権を発動した拳悟に、弾は番長らしい厳つい視線を浴びせる。
「ほう、一年間で無期停学三回という新記録を打ち出した俺に逆らうつもりか。てめぇ、いい度胸じゃねーか」
弾の放つ威圧感におののき、拳悟は全身が凍りつくような戦慄を覚える。それをわかりやすく言えば、蛇に睨まれた蛙、もしくは恐妻に悪態付かれるうだつの上がらない亭主といったところだ。
(やばいな、ダン先輩怒らすと始末が悪いからなぁ。マジメにわら人形に五寸釘打つような人だし……)
由美を守るべく正義感と、弾の脅威から逃れたい自己防衛を天秤にかけて悩みに悩み抜く青年拳悟。彼はさまざまな事態を想定しながら、良きアイデアがないかと思案する。
緊迫感に包まれるこの状況の中、弾の悪友である不良たち、リーゼント頭のノルオと赤毛のコウタの二人がその場に駆け付けてきた。
「おい、ダン、もういい加減にしろ。ホントにおまえのしつこさはスッポン並みだからな」
「うるせー。おまえらみたいなガキには関係ねーこった」
弾は悪友たちの説得にまるで耳を貸そうとはしない。
事を穏便に済ませてあげようとしたのにガキ扱い、しかも邪魔者扱いされてしまっては、ノルオとコウタもふざけるなと反撃せずにはいられない心境だった。
「ガキ並の頭してるくせに、偉そうにしてんじゃねーよ!」
悪友の悪口とも言える言動に、弾は堪忍袋の緒が切れたのか火山の噴火のごとく憤りを露にする。
「待てコラッ! 誰がガキ並みの頭だとぉ? 言ってくれるじゃねーか、このボンクラどもがっ!」
「おまえ、九九の七の段が今でも言えねーだろうが? それをガキ並みっていうんだよ、アホンダラ!」
不良三人は罵り合いを始めた。バカだ、アホだ、ボケだと悪口を連発し、収拾の付かない子供の喧嘩を延々と続けている。
その揉めに揉めるシーンを唖然としながら見つめている拳悟と由美の二人。彼はこの機に乗じて、後ろで縮み上がっている彼女を逃がそうと画策した。
「さあ、今のうちに逃げなよ」
「え? で、でも、そんなことしたら、あなたがひどい目に……」
由美が不安げな表情で拳悟の身を案じると、それには及ばないと彼はヒーローのごとくカッコいいニヒルな笑みを浮かべた。
「俺のことは気にしなくていいよ。それに早く逃げないとさ、キミ、ホントにお嫁に行けなくなっちゃうかもよ?」
さすがにお嫁に行けなくなるのは困るということで、由美は青ざめた顔のままお礼を告げてその騒動の渦中から脱出させてもらうのだった。
喧嘩の発端となった彼女がいなくなっても、不良たちの飽くなき戦いはまだ継続していた。拳悟は呆れた吐息を吐き、もうこのまま帰っちゃおうかなとさえ考えてしまっていた。
とはいえ無視したりすると後が恐ろしいので、彼はやむなく騒動の中へと突入していく。
「先輩方、いい加減近所迷惑ですから。もう彼女帰っちゃいましたよ」
今は女のことなんか関係ないと、ノルオとコウタは仲裁に入ってきた拳悟に突っかかってきた。すると、それを見ていた弾が関係なくねーだろ!と叫びながら、悪友二人を怒りの拳でぶっ飛ばしてしまった。
弾は目つきを鋭利に尖らせて、じわりじわりと拳悟の傍まで歩み寄ってくる。拳悟はそれでも度胸が据わっているのか物怖じすることはなかった。
「ダン先輩。停学中の身なんだから、あんまり騒ぎ起こさない方がいいですよ? これだと、停学期間日数まで記録更新しちゃうだろうし」
「記録更新、大いに結構じゃねーか。ますます俺の格も上がるってもんよ」
この弾という男、どうも格というものを履き違えているような気がする。しかし不良の場合、落ちこぼれるほど存在価値が上がるのはあながち不正解とは言えないかも知れないが。
「女を逃がしたてめぇのこと、本来なら痛い目に遭わせてやるところだが、今日はその勇気に免じて許してやろう」
「さすがはダン先輩、懐が深い人でいらっしゃる。またまた尊敬させられましたよ」
拳悟はこの時、心の中で呟いた。停学させられた理由が女教師の下着を盗んだことじゃなければもっともっと尊敬できたのに、と。
* ◇ *
「……あの人、大丈夫だったのかな」
由美は救ってくれた男性のことを案じていた。
いくら同じ学校の先輩とはいえ、相手は世間のはみ出し者である不良たち。ただでは済まないのではないかと、彼女はこの時、名も知らない彼のことを頭に思い浮かべていた。
あの修羅場から逃げ出して十数分ほど経ち、彼女は迷子になることもなくアパートが視界に入るところまで帰ってこれた。
ホッと胸をなぜ下ろす由美を待っていたのは、彼女の帰宅を心配していた姉の理恵であった。妹の姿を発見するなり、理恵は喜びと怒りが混じったような顔で出迎えた。
「ユミ! あなた、どこまで行ってたの? 心配したじゃないの」
「お姉ちゃん、ごめんなさい。ちょっと事情があって」
不良に絡まれたところをある男性に助けられたと由美がそう説明しようとした矢先、理恵は話題を切り替えるようにアパートにすぐ帰るよう急かしてきた。
「ほら、早くいらっしゃい。部屋にお客さんが来てるのよ」
「お客さん?」
理恵が語るところによると、そのお客さんとは由美がこれから通う学校の先生なのだという。
予想もしなかったその答えに、由美は首を捻りながらどうしてここに?と問い返した。
「その先生はね、わたしの高校時代の先輩なのよ」
「へー、そうなんだぁ」
そんな話をしている間に、彼女たち二人は先生の待つアパートの部屋へと辿り着いた。
八畳一間の部屋の中には、テレビとラジカセの他に洋服ダンスと本棚、そして化粧台が置かれており、二十歳代の女性が暮らす部屋の割には少しばかり地味な印象を感じなくもない。
ベッドらしきものも置かれていないところを見ると、この狭い部屋に煎餅布団を敷き詰めて、姉妹仲睦まじく二人暮しという新しい生活を始めるのだろう。
「先輩、お待たせしてすみません。由美が帰ってきました」
理恵が恐縮しながら挨拶したその先輩は、ふんわりボブヘアにナチュラルメイク、愛くるしい童顔が特徴的な女性教師であった。
教師イコール強面というイメージのあった由美は、姉の先輩の優しそうな笑顔を見るなり緊張感からあっという間に解放された。
「初めまして。あなたがユミちゃんね。わたしは、あなたのクラスの担任、斎条寺静加(サイジョウジシズカ)よ。よろしくね」
「こんにちは。わたしは夢野由美です。明日からよろしくお願いします」
お世話になる先生を前にして、正座しながらきちんと挨拶をする由美。
人との初対面は第一印象が肝心と、静加はうんうんと頷いて礼儀正しい転校生のことを褒め称えた。
「やっぱり姉妹ね。リエにそっくりじゃない」
静加のそんな一言に、理恵と由美はお互いの笑顔を向き合わせる。仲良しこよしの彼女たちにしたら、そう指摘されてまんざらでもなかったようだ。
「でも、性格はそっくりでもないんですよ」
姉はテキパキとそつのないタイプ、妹はおっとりでのんびりタイプ。理恵はそう告白し、自分が頼もしいしっかり者だと言いたかったらしい。
一方、妹の由美はそれを不承不承認めるも、姉もよく忘れ物をするおっちょこちょいだとすぐにやり返した。それからというもの、あーだこーだと揚げ足の取り合いが始まってしまった。
「アハハ、もうわかったわ。あなたたち姉妹がとても仲がいいってことが」
静加に高々な声で笑われると、恥ずかしくなったのか姉妹は言い合いを止めて頬を真っ赤にしていた。ケンカするほど仲がいいとはまさにこのことであろうか。
小さいアパートの狭い部屋の中で、女性三人は楽しく賑やかなひと時を過ごした。そして一時間ほど経過した頃、そろそろおいとましますと静加がゆっくりと腰を上げる。
「それじゃあユミちゃん。明日、駅の前で待ってるから」
「はい、よろしくお願いします、先生」
由美は登校を明日に控えて、今からドキドキワクワクしていた。
新しい学校はどんなところなのだろう?すぐにお友達ができるのだろうか?勉強にちゃんとついていけるのだろうか?その思いは尽きない。
「大丈夫よ。学校も底抜けに明るいし、わたしのクラスも良い子ばかりだから、ユミちゃんもすぐに打ち解けると思うわよ」
そんな担任からの歓迎の言葉に、由美は満面の笑みを浮かべて興奮と期待に胸を膨らませるのだった。
* ◇ *
翌日の朝。雲一つない快晴である。
アパートの部屋にある洗面台の前で髪の毛を丁寧にとかす女の子。彼女は歯磨きを終えると、ルンルン気分で制服に着替えて身支度を整える。袖を通したクリーニングしたての制服がとても初々しい。
この女の子、夢野由美にとって本日が転校先の初登校日。
彼女がこれから通うことになる「派茶目茶高等学校」では、指定された制服といったものが存在しない。つまりは私服だろうと運動着だろうと、無茶を言えばパジャマでも登校が可能なのだ。
由美は迷いに迷ったが、引越し前に通っていた学校の制服、紺色のブレザーにスカート、そして薄青色のリボンというスタイルを選んだ。
「あら、準備できたのね。うん、ビシッと決まってるわ」
妹の着飾った姿を微笑ましそうに見つめる姉。そういう理恵はというと、月曜日の朝にも関わらずまだパジャマ姿のままだ。
「あれ、お姉ちゃん。今日お仕事でしょ? まだ身支度しなくて大丈夫なの?」
「ええ。わたしの会社は九時半からだもの。コーヒー飲んでいくぐらいの時間はあるのよ」
余裕の笑みを浮かべている理恵に、由美はちょっぴり恨めしそうに羨望の眼差しを送っていた。
理恵は現在、矢釜市のオフィス街の会社に勤務するOLである。事務員という地味で安月給な職種ではあるが、残業が少ないという面から不平や不満は抱いてはいないようだ。
「それじゃあ、お姉ちゃん。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
零れそうな笑顔を振りまいて、由美は軽快な足取りで青空の下へと飛び出していく。それはまさに青春を謳歌するような、前向きでひたむきな愛らしい姿でもあった。
――だが、そんな浮かれる彼女を待ち受けていたもの、それはあまりにも儚くて、あまりにも卑劣で残酷な現実だったことを今の彼女は知るはずもなかった。
* ◇ *
時計の針が朝八時を指そうとしている。
ここは通勤客と通学客で埋め尽くされる「矢釜東駅」。由美の暮らすアパートから十数分先にある最寄り駅だ。
駅構内までやってきた彼女は、混雑する雑踏の中から待ち合わせていた担任である斎条寺静加の姿を目で追った。
「ユミちゃん、ここよ」
駅構内で迷っている由美に声を掛けたのは、スタイリッシュなスーツを着こなした、教職者らしい凛々しさを醸し出す静加であった。
静加と無事に合流できたことに、安堵感から表情を緩める由美。
「おはようございます、先生」
「おはよう。あら、その制服かわいいわよ。とても似合ってるわ」
社交辞令の褒め言葉とわかっていても、選りすぐりの衣装を褒められて由美は素直なままに照れ笑いを浮かべていた。
派茶目茶高等学校の最寄り駅となる「矢釜中央駅」。その目的地行きの電車に、静加に導かれながら由美は弾んだ気持ちで乗り込んだ。
由美はこれまで電車通学というものを一度も経験したことがない。そういう理由もあってか、彼女はその新鮮な雰囲気に胸を躍らせていたようだ。
新しい学校への期待、これからの明るい希望を乗せて電車は定刻通りに発車する。ところが……。その数秒後に、彼女は思いもしない現実を目の当たりにした。
「…………」
由美の視界に飛び込んだ光景。それは、車両を埋め尽くすほどに群がるガラの悪い集団。空いている座席を奪い合い、耳障りな怒鳴り声を上げながら周囲に当り散らす不良たちであった。
治安の悪さのせいか、この車両に一般の乗客らしき人の姿は見当たらない。きっと、この粗暴な連中に脅されるなりして追い出されてしまったのだろう。
つり革を強く握り締めてただ呆然と立ち尽くす由美。同じくつり革に捕まっていた静加は、黙り込んでいた彼女のことをふと気に掛ける。
「ユミちゃん、どうかしたの? 何だか、顔色が悪いみたいだけど」
由美の顔色は明らかに優れない。ただでさえ、不良を精神的に受け付けないのだからそれも当然であろう。
大丈夫と無理やり振る舞う彼女だったが、この見るに見兼ねる光景について静加に恐る恐る尋ねてしまう。
「……あの、先生は、いつもこの電車で通勤してるんですか?」
「そうよ。この電車を逃しちゃうと、職員会議に間に合わなくなるからね」
静加は至って明るく言い放った。彼女にしてみたら、この不良たちのことなどまるで眼中になかったようだ。
内心穏やかではないものの、しばしの辛抱だと割り切り由美はつり革をぐっと握ったまま堪えようとする。周囲から飛んでくる、やかましく苛立たしい雑音など無視しながら。
「何だと、このヤロー、やる気かコラァ!」
「おー、やってやるぜ! おまえのその腐った根性を叩き直してやるぜ!」
由美たちのいる車両に響き渡る男性二人の尖った怒号。
些細な口論がエスカレートし、とうとう不良同士の取っ組み合いの喧嘩が始まってしまった。
これまで我慢してきた彼女だったが、さすがにここまで来ると冷静にはいられず、静加にしがみついて怯えてしまっていた。
「まったくもう! 周囲の迷惑ってものを考えないのかしら」
静加は呆れながら憤慨し、ちょっと待っててと由美に告げると騒動を起こした男たちの傍へと突き進んでいく。
「せ、先生! どこに? ま、まさか――?」
静加が歩み寄っているのも露知らず、不良二人組はまだ言い争いを続いていた。
「たかが消費税ぐれえ、おごってくれてもいいだろうがぁ!」
「バカヤロー! 今はその小銭が貴重なんだろうが。さっさと払いやがれ!」
五円という銅貨一枚を巡って、このバカ二人は取り止めのない口論を繰り広げていたようだ。静加の言う通り、まったくもって傍迷惑な連中である。
『ゴッツーン』
それは由美にとって想像もできない出来事だった。
マナー無視の不良二人の頭上に正義の鉄槌を下した静加は、鬼のような形相で張り裂けんばかりの怒鳴り声を車内に轟かせる。
「高校生にもなって、いい加減にしなさい! ここは電車の中なんだから少しは迷惑を考えなさい!」
ゲンコツを落された男たちは、静加の迫力に圧倒されたようで反撃するどころかすっかり萎縮してしまっていた。無論、その動向を見守っていた由美もそれは例外ではなかった。
「せ、先生、すごい迫力……」
乗客の注目を浴びながら、平然とした顔で由美のもとまで帰ってきた静加。そんな勇敢な女教師のことを由美は尊敬の眼差しで見つめていた。
「先生、勇気あるんですね。あんな怖い人たちの喧嘩をあっという間に止めちゃうなんて」
「あら、たいしたことじゃないわよ」
静加は背後にいる乗客、いや素行不良の面々を一瞥すると、すぐさま由美の方へ満面の笑顔で振り返る。
「この車両に乗ってるみんな、わたしたちの学校の生徒だもん」
「……はい?」
目の前の担任の一言に、由美は頭の中が整理できず唖然とする。
さっき頭を小突かれた不良二人が静加のもとにコソコソやってきて、揉め事のことはどうかご内密にと懇願している姿を目撃した瞬間、由美はようやく現実を理解した。
(う、嘘でしょう!? こんな不良たちと同じ学校に通うなんて……!)
精神的ショックのせいで青ざめた顔色をした由美を乗せた電車は、引き返したい気持ちとは裏腹に学校最寄りの矢釜中央駅へと辿り着いてしまうのだった。
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