19 アップルパイっておいしいですよね

 軍に務めるようになってからは毎日があっという間だった。

 平日は今までよりも遅い時間まで働いて、帰って家事を終えたらすぐに眠ってしまう。それでも慌ただしい日々に疲労よりも幸せを感じるのは、休日を利用してロルフとお茶をしているからだ。


「美味しそう……」


 真っ白な生クリームとともに盛り付けられた愛しのアップルパイを前に、エディットは陶然とした面持ちで言った。


 黄色を基調にしたモダンな内装の店内は女性客だらけだ。

 入店の時は警戒心を剥き出しにしていたロルフだが、角の席に着く頃には平静を取り戻していた。何度かの特訓、もといカフェ巡りを重ねたことによって、随分と成果が上がってきたのではないだろうか。


「私、好きなお菓子ベスト3に入るかもしれません」


「うむ。俺もかなり上位だ」


 対面にて同じものを注文したロルフがじっくりと頷く。エディットは勢いよく顔を上げて、輝く瞳で何度も肯首した。

 艶やかな焼き目が美しく、厚みがあって大ぶりに切られているところも素晴らしい。本当に美味しそうなアップルパイだ。


「まずこの網目がなんとも可愛くて素敵なんですよね。しかもバターとりんごって、組み合わせとして最高だと思うんです。いくらでも食べれるなと……」


 熱く語っていると小さく息を吐く音が聞こえた気がした。目を合わせたロルフはいつもの仏頂面だが笑われたことはわかったので、エディットは思わず頬を染めた。


「あ、あの。頂きましょうか……?」


「ああ」


 ナイフで切り分けて口に運ぶと、甘酸っぱいりんごの風味とサクサクの生地が絶妙に絡み合って、素晴らしい味わいを生み出している。

 生クリームとの相性も抜群、控えめに言って最高。エディットは思わず小さな唸り声を上げてしまった。


「美味しい……!」


 ロルフも確かに美味いと感心した様子で、無防備に驚く顔が嬉しかった。

 自然と笑みをこぼしながら無心でアップルパイを食べていると、ロルフの視線を感じたような気がして、エディットはふと顔を上げた。やはり目が合う。


「大佐殿、どうかなさいましたか?……あ、追加でしょうか。気付かずに申し訳ありません」


 慌ててメニューを手に取ろうとすると、違うと言って静止されてしまった。

 視線の意味を追求することはできず、エディットはロルフが店内を見渡したのを黙って見つめていた。


「外で誰かと食べるのは良いものだと思っただけだ。……これも、貴女のおかげだな」


 微笑を浮かべたロルフが静かに言うので、エディットはこの特訓の終わりを予感した。

 そんなことを言ってもらえるなんて、こんなに幸せなことはない。もともとが成り行きで始まって、奇跡のように楽しい時間だった。ロルフの力になれたなら、それだけで十分だ。


 ——十分な、はずなのに。


 エディットはテーブルの下で、チェック柄のスカートをそっと握りしめた。そうでもしないと、胸の痛みが顔に出てしまいそうだったから。




 今日もロルフは焼き菓子の土産を購入していた。笑顔で挨拶をして別れ、寮への道をゆっくりと歩く。

 今日のことを思い返して少しぼんやりとしていたエディットは、突如として転がってきた野球ボールによって現実に引き戻されることになった。


 子供が間違えて遠くに投げてしまったのだろうか。反射的にボールを手に取って周囲を見渡すと、すぐそばの広い公園から少年が走り寄ってくる。


「お姉さん、すみませーん! 手が滑っちゃって……!」


 歳の頃は15歳に届かないくらいで、目線の高さはエディットとほぼ同じ。黒髪と紺色の瞳に彩られた面立ちは美しく、上等なキャメルのダッフルコートがよく似合う。


「はい、どうぞ」


 ボールを手渡してやると少年は人懐っこい笑みを見せた。どちらかというと冷たさを感じさせる美貌だが、表情は親しみやすく朗らかだ。


「ありがとう! あー良かった、ブローの機嫌を損ねるところだった」


「ブロー?」


「俺の犬だよ。青みを感じるくらい綺麗な黒の毛並みだから、ブロー」


 少年が指笛を吹くと、公園から黒い塊が駆けてくる。みるみるうちに大きくなって、牧羊犬によく採用される犬種だと気付いた頃には、すでにエディットの足元にたどり着いていた。


 とても利口なようで、行儀良く足を揃えて動く気配がない。つぶらな瞳で見上げられた瞬間、エディットは湧き出る感情を言葉にせずにはいられなかった。


「かわいい! なんてお利口なの!」


「でしょ? ブローはすごく賢くて、俺のことが大好きなんだ」


 撫でても良いかと聞くと、少年は人好きのする笑みを浮かべて頷いた。黒い毛並みの頭にそっと触れると、もっと撫でてとばかりに尻尾が揺れる。


「本当に可愛い! それに、とっても綺麗な毛並みね」


「そう言ってもらえると嬉しいなあ。よかったらちょっとだけ一緒に遊ぶ?」


 それはとても魅力的な申し出だった。

 そういえば、もう随分長い間体を動かして遊んだことなんてなかった気がする。可愛い犬と共にボール遊びでもすれば、近頃感じていた気鬱も少しは楽になるかもしれない。


「いいの?」


「うん、もちろんだよ。ブローも喜ぶしね」


 少年は爽やかに笑って、エディットに野球ボールを手渡してきた。


「俺、ヴィクトルっていうんだ。お姉さんは?」


「エディットです。よろしくね」


「エディットさんね。じゃあ、いこ!」


 ヴィクトルが走り出すと、ブローも喜び勇んで駆けて行く。元気な一人と一匹を見ていたらエディットもまた明るい気分になって、その日は汗が滲むまでボール投げを楽しんだのだった。

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