君がいないはずだった僕の夏

帰巣本能

第1話

 夏の僕らはキャッチコピーに溢れてる。


『駆け上がれこの夏を! この一瞬を!』


『君だけの夏が、きっとある』


 言葉そのものだけじゃない。フォントから、背景の写真やイラストから、とにかく押し付けがましく浴びせられる何か。

 そういうのが、僕のワイシャツの襟元を、余計にじっとりと濡らすのだ。


「宿題やったか?」


「問3だけわからなかった」


「俺もー」


 課題の進捗状況を挨拶代わりに言葉を交わし、今日も僕は席に着く。

 夏期講習なんていう、目新しくも面白くもないイベントのために、わざわざキャッチコピーを用意してそれをポスターとして貼り出すなんて、そんなこと本当に必要なんだろうか。それもあんな、必要以上に熱を帯びた、きらきらしただけの言葉が、僕らに刺さるとでも本当に思っているのか。


「集合!」


 ふいに響いた大きな声に、思わず驚いて校庭に目をやると、陸上部のメンバーが集まってくるところだった。

 わずかな木陰の中でコーチからの言葉を受け、彼らは再び照りつける太陽の下へと駆け出していく。


「昨日の続きから始めるぞ。まずは問1だが、ここは先週やった公式を使って……」


 先生の言葉とチョークの音、教科書を捲る気配。

 そこに混ざるのは、開け放たれた窓から届く、砂とスパイクの温度。


「お願いします!」


 校庭に刺さる無数の日差しを叩き折るように、ポニーテールの少女が、レーンの端でまっすぐに手を挙げていた。その揺るぎない指先に吸い寄せられるように、僕は彼女に見入ってしまう。

 日に焼けた手足。黒い髪。全身に熱を帯びたその姿の中で、瞳だけが、森に湧く泉のように静かでーー


 目が、合った。

 気がした。


「え」


 そして彼女は走り出す。瞬く間に速度を上げ、隣のレーンの誰かを、蹴り上げた砂を、むせ返えるように熱い風を、そして僕を置き去りにして、彼女は進む。

 夏の中を、ひたすらに、まっすぐに。


「じゃあ次。この問3を、青山……ってお前、大丈夫か?」


 先生の声に、僕は慌ててと教室の中へ視線を戻す。途端にぐわんと頭が揺れ、フラッシュのような白い光がそこかしこで瞬いた。先生も黒板も、こちらを振り向くクラスメイトの顔も、眩しく滲むばかりでよく見えない。


「青山、鼻血」


「へ、えっ、うわっ」


 クラスメイトの言葉に、ぼたりと机に垂れた生ぬるいそれが、赤い色をしていることにようやく気付いて、僕は慌てて立ち上がる。抑えようとティッシュを探している間にも、袖のワイシャツやノートが赤く染まっていく。


「保健室、行ってきます」


 どうにかそれだけ言って、僕は教室を出た。


 遠くに吹奏楽部の楽器の音が響く廊下を歩きながら、自分の胸が、首筋が、手足が、脈打つように熱を帯びていることに、今更気が付いた。


 思わず、外に目をやる。


 夏の日差しは、相変わらず容赦なく降り注いでいた。砂埃を上げる校庭と、校舎の影が織りなす濃厚なコントラストの中、僕が思い出すのは、あの静謐な瞳が駆け抜けていく姿。


『忘れられない、夏になる』


 立ち尽くす僕を、そんなキャッチコピーを掲げたポスターが、ほれ見たことかと言わんばかりの顔で風に揺れていた。





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君がいないはずだった僕の夏 帰巣本能 @ienikaeritaiiii

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