第12話 諸法無我
俺の立ち位置からは天馬の背中は見えない。木瀬の部下たちからも見えてはいない。位置関係は木瀬の部下2人、そして俺を含めた3人は天馬に掴みかかった若い部下の背中を見ている。そしてその若い奴と対面して胸倉を掴んでいる天馬。その後ろにこちら側に向いている木瀬の順だ。天馬の背中が見えているのは木瀬だけだ。
俺は天馬の背中が見えなくても、どんな状態かわかる。シャツの背中がぱっくり破け、奴の刺青のようなタトゥーが顔を覗かせているのだ。木瀬の目には繁華街の店のライトに派手な着色のタトゥーが照らされ、全貌がはっきり見えていないことが相まってリアルな刺青に見えていることだろう。もちろん、シャツの背中がすぐに破けるように細工してあった。それにしても、運良く木瀬だけに見せられたのは、予想を上回る出来だ。
天馬の見た目でヤバい奴だとは感じていただろうが、刺青があると更に倍増する。
さあ、どうするよ、部長さん。ここで恥をかく覚悟で、命乞いをするのか。他のケースでは、ターゲットは土下座して謝るパターンか、身の振り考えず周りに助けを求めるパターンがあった。こいつは、どっちのパターンなのか。俺はそろそろこの状況に飽きてくるころであったが、この木瀬という男。まだまだ俺たちを楽しませてくれるらしい。そのどちらのパターンでもなかった。
木瀬はシャツの袖を捲り、指をボキボキと鳴らし始めた。そして首を回して、部下たちに声をかけた。
「君たちは、もう帰りなさい。これから彼と話さなければならない。言葉でわからなければ、体でわからせるしかない。警察沙汰になったら私の管理責任が問われる。ここは私1人で済ませた方が良い。だから、君たちは早く帰ってくれたまえ」
なんとこの期に及んで、まだ自分の体裁を取り繕おうとしている。もう声が震えないように慎重に言葉にしているのか、台詞は棒読み。既に部下たちは、これは部長の
たまたま車道を通ったタクシーを、手を上げて停めて、部下たち3人をタクシーの中に押し込んだ。
「
そう言って、部下たちを帰した。部下たちの姿が見えなくなったところで豹変して許しを乞うてくるのかと思いきや、まだ態度を変えない。
「私も、もう歳だ。かつては誰にも負けないと自負していたが、それほどもう自信はない。仮にむかし培ってきたものが体で覚えていたとしたら、君に怪我をさせてしまう。ここは穏便に済まそう」
驚かされたのは、こっちだ。まだそのプライドをキープしようとしている。これが2枚目の紳士が言っている台詞なら説得力があるが、目の前にいるのは足が短く、太って腹が出ている中年のブタだ。虚言もここまでくると尊敬に値する。
ブタは徐に財布から万札を1枚取り出して、天馬の手に握らせた。
「私の部下が、君のシャツを破いてしまった。すまなかった。今日のところは、これで勘弁していただけないだろうか」
俺は感心してしまった。もう充分堪えているのだろう。それを素直に表せない奴なのだ。既に横田の彼氏がチンピラで、これ以上何かあれば自分の身に危険が及ぶことを感じとったのではないか。これで充分お灸は据えたことになる。その1万を受け取って、横田の件を念押しして、もう終わりにしてやろうかと思った。
だが、天馬は違った。天馬はこういう素直じゃない奴が嫌いだ。首を捻ってバキバキと音を鳴らしている。奴はイラついている。木瀬の胸倉を掴み上げ、顔を近づけた。
「テメー、1万で済むわけねえだろ。このシャツ、幾らすると思ってんだ!」
おー、天馬くん。そうきましたか。俺は知ってるよ。そのシャツ、ユニクロか無印のやつで2、3千円でしょ。
天馬が手を離すと、木瀬はクシャクシャと体を折って倒れた。顔を覗くと、真っ赤にして子供みたいに泣いていた。涙なのか汗なのかビシャビシャな濡れた顔で、ピーピー鼻息を鳴らし、嗚咽っていた。しかもスラックスの股間部分が濡れて、倒れた地面に水溜りができていた。
「あ、汚ねえ!こいつ、ションベン漏らしやがった」
木瀬は体を横にしたまま、くの字の状態で、すみません、すみません、すみません、すみません、としつこく謝罪してきた。
「謝ってすむことじゃねえんだよ。テメー、今まで麻里に何してきたかを思い出せ!」
一応、天馬は彼氏の芝居を続ける。
「彼氏さんは、どこまで知っていらっしゃるのでしょうか?」
木瀬はその体勢のままだ。
「どこまで、って、テメー、麻里に何したんだ!」
「すみません。本当に出来心だったので、何でもしますから許してください」
この態度の変換に、天馬の怒りは増すばかりだ。寝そべる木瀬の肩を軽く蹴った。ヒーッ、と変な悲鳴をあげて、また泣きじゃくる。
「取り敢えず、シャツ。1万じゃ足んねえんだよ!」
お前、まだそれ言うのか。
「ぜぜぜ、ぜ、全部持ってってください。それで許してくださいっ」
中年ブタ男は、膝をついたまま両手で財布を上げて天馬に差し出した。天馬は遠慮せず、財布に手を出した。中身はあと1万数千円。少し期待したが、部長とはいえ普通のサラリーマンの財布の中身なんて、そんなもんだ。
「お前、今度、麻里になんかしたらいいか。金とかじゃ済まさねえからな」
木瀬は体を横にしたまま、首がもげるほどコクンコクンと何度も頷いた。
繁華街でも特に飲み屋が多いこの道は、この時間帯は帰宅のサラリーマンを拾うためにタクシーの通りが多い。またタクシーがゆったりとしたスピードで走らせている。今度は天馬がタクシーを停め、木瀬の首根っこを掴み、タクシーに乗り入れた。
「すいません。この人ションベン漏らしてるから、クリーニング代請求した方がいいよ」
そう言って、まだ運転手が文句のようなことを叫んでいるところ、タクシーのドアを閉めた。俺たちの仕事は、これで終わり。タクシーが走らせる前に、足早にその場を去った。
俺たちはまた夜の道を走った。40代にもなって馬鹿げた話だ。こんな子供じみたことだが、俺たちにはこんなことしか思いつかない。
走っている途中で、あのブタの情けないションベン漏らし姿を思い出し、笑いが込み上げてきた。笑いながら走ると、横っ腹が
人通りのない道の、ビルを解体した空き地に辿り着くと、俺たちは足を止めて休憩した。天馬は俺の顔を指差して笑い出した。
「お前、前歯ズレてるよ」
だいぶ走ったので、口が乾いて入れ歯がズレていた。
「あのオッサン、部下たちがいる間まで自分の体裁キープしようとしてたな。ったく、
「オッサンって、天馬もオッサンだけどな」
俺は入れ歯を外し、ポケットに仕舞った。
「あんな、だらしねえ体型じゃねえよ」
「お前、あのオッサンから幾らくすねたんだよ」
「あ?お前もオッサンだろ」
そう言いながら天馬はポケットに入っていた木瀬から取った金を数え始めた。
「2万と、6千」
「そのシャツの値段は?」
「1.900円」
また俺たちは笑った。
「これが今回の報酬」
「報酬じゃねえよ。ただのかつあげじゃねえか」
俺たちの仕事には報酬はない。蓮実はカウンセリングの仕事で相談料というものがあるが、それも気持ちでいただいているだけで、料金設定というものがない。一応お寺なので、お布施という形で貰う時もある。だから俺たちには纏まった収入はない。蓮実はアパートの家賃があるため、いただいたお金はそれに回している。和尚のところで生活している俺たちは、飯と寝床には困っていないため、それほど金は必要ないのだ。
じゃあなんのためにこんなことを仕事と呼んでいるか、それは俺たちにもわからない。
俺もサラリーマン時代には、CSRの企業理念を教えられた。『売り手よし』『買い手よし』『世間よし』、『三方よし』の理念だ。売り手だけ、買い手だけの満足ではなく、社会貢献もしろという考え。社会と繋がり、企業の存在意義を生み出し、顧客を創造する
俺たちの存在意義とはなんだ。収入を得ていない大人が、子供じみた仕返し稼業をして、社会に貢献しているとでもいうのか。寺では僧侶の扱いだから、和尚が社会保険や年金も払ってくれている。俺たちだって風邪もひけば病院に通う。取り敢えず生活できているが、まるで扶養家族じゃないか。胸を張って言えるような仕事ではない。そもそも、これを仕事と呼んでいいわけがない。
それに、こんなことで横田は救われるのか。俺たちは他人を助けることによって、傷ついた過去の自分を癒すため、他人の不幸に託けて復讐をしているだけなのだ。
俺たちは僧侶でもない。子供でもない。収入がなければ立派な大人だという言い張ることもできない。引きこもりのニートと同じだ。他人の家に住み着いている時点で、よりタチが悪い。
俺たちは、いったいなんなのだろう。俺たちには実態がない。たしか仏教の本で、4文字で実態がないみたいな言葉があった気がしたが。でも、お釈迦さんが言ってるのは、俺たちみたいなことではないんだろう。考え出したらキリがない。
「あ!一休は?」
天馬はタバコに火を点けた後、素っ頓狂な声を上げた。忘れていた。さっきの木瀬とのやり取りの一部始終を、一休に動画を撮らせていたのだった。俺たちは早くあの場を去ろうと、一休の存在を忘れて置いてきてしまった。
俺たちは、また顔を見合わせ笑うしかなかった。
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