第8話 長い話

 テーブルに並べられたのは、アボカドと生ハムのクリームパスタとマスタードチキンと、シーザーサラダだった。ワイングラスまで並べられている。


「お客人は、お車でしたね。炭酸水でよろしいですか?それともお茶か水がよろしいですか?」


 なされるまま台所までついてきた横田は、並べられた洋食に、またポカンとした顔で、ああ、はい、と曖昧な返事をした。


「もし飲まれるようなら、代行サービス呼びましょうか?」


「あ、いえ、炭酸水で大丈夫です」


 雲仙さんは紳士的に椅子を引き、横田に座るよう促した。まず普通のお寺の食事が洋食ということに驚いているのだろう。やはりお寺というのは精進料理など質素なものだと勝手に決めつけてしまう。まあ、そういうお寺もあるだろうが、うちの和尚は夜間の法事の予定がなければ、酒を飲む。和尚はもっぱらビールだ。和尚の席だけワイングラスではなく、真ん中が寸胴になっているビールグラスだ。ワインはバケツ型のステンレス製ワインクーラーに入れてある。今日はスパークリングワインのようだ。うちは食事時になると、優禅さんがシェフで、雲仙さんがウエイターになる。

 普通の一軒家の居間に大きなテーブルを置き、ダイニングルームにしている。テレビがあったり冷蔵庫があったり、椅子があるのに座布団を敷いていたら。実家やお爺ちゃんの家みたいなダイニングといった感じ。そんな普通の一軒家だって洋食のディナーも出すだろう。不釣り合いなのは、「洋食と台所」ではなく、「洋食と僧侶」の方なのだ。

 失礼します、と彼女のグラスにペリエを注ぐ雲仙さんの姿を呆気に取られた顔で眺めていた。


「僕たちも、こういうお料理も食べるんですよ」


 彼女の疑問を汲み取って、一休がすました顔で答えた。彼女は一休に目を向けて、はぁ、とまた空返事。「お孫さん、ですか?」と、一休を指して和尚に聞いた。然程気になる問題ではないが、何か会話をしようと絞り出した質問だろう。一休は年齢は高校生くらいの年齢だが、背が低く童顔なのでもう少し幼く見える。1人だけ子供がいて、女が蓮実1人しかいないとなると、蓮実が母親で、和尚以外の誰かが父親だと思われるのは今日に限ったことではない。俺が父親だと思われてしまうことが1番多い。


「彼もねぇ、うちに奉公している僧侶ですよ。まだまだ修行中の身ですがねぇ」


「はぁ、こんなお子様からお坊さんになることを決めてらっしゃるんですね」


 一休は、その『お子様』というワードが引っかかったのか、キリッとした目を横田に向けた。高校生だから、まだ子供なのだが『お子様』というともっと小さい子を指すようで、彼にとってはそれが地雷だ。


「修行って、お家帰れないんですよね。寂しくなったりしないの?」


 横田に子供扱いされて、一休は不機嫌だ。俺たちを相手にする時みたいに嫌味で返したいところだが、流石に客人なので我慢している。それを見て、俺と天馬は吹き出しそうになった。


「彼は身寄りがないんですよ」


 和尚の言葉に、横田は自分の思慮のない言葉に掌で口を塞いだ。ツンとそっぽを向いている一休に彼女は、「ごめんなさい」謝ると、「気にしないでください」と冷たく即答するので、また彼女を悩ませてしまう。軽はずみな自分の言葉が、子供を傷つけてしまった、そう思っているのに違いない。横田さんよ、安心してくれ。そいつはことでねているだけだから。


「それではね、今日はお客さんもいることだから手短に。えー、人はね、生まれてからが苦の始まりだとお釈迦さんは仰ってます。ね、生きることが苦しいなん、もうなんなのよって感じですよね。『四苦八苦』、ね。この言葉、よく聞くことと思います。これはね、仏教の言葉なんですよ。まずは4つの苦しみ、それが『生老病死』。

 生まれてくることは、実は苦しいんです。狭い産道を通って、痛いやら熱いやら。まあまあ産む方のお母ちゃんも大変なんですけどね。やっとのことで産道を抜けると、赤ちゃんは泣くんです。オギャー、オギャーって。ね、生まれたぞ、やったー、って笑って生まれてくる子は1人もおらんのです。ね、苦しいんですよ。人は老います。歳とって体もしんどくなるんですよ。人は病気します。病気したら楽しく、ないねぇ。それで、死にます。死なない人なんて、いないです。死ぬっていうのは、まあ私も死んだことないからわからないですけど、きっと楽しいもんじゃないですよね。ぽっくり死にたいなんて言う人もいますが、その時苦しかったり痛かったりしない、なんてあるんですかね。ちょっと心臓がぎゅうってなったり、やっぱり苦しいんじゃないでしょうか」


 手短に、と話し始めたのに前置きが長い。それは想定内だ。横田はウンウンと頷いて、和尚の話に引き込まれている。彼女は初めて聞くから新鮮だろうが、俺たちはこの話を何度も聞いている。続く話も耳にこびり付いているから、空で言える。

 この後は『八苦』の話。『愛別離苦あいべつりく』『怨憎会苦おんぞうえく』『求不得苦ぐふとっく』『五蘊盛苦ごうんじょうく』と続く。

『愛別離苦』とは、大切な人と離れなければならない苦しみ。『怨憎会苦』とは、逆に嫌いな人と出会ってしまう苦しみ。『求不得苦』とは、欲しいもの、求めるものが手に入らない苦しみ。『五蘊盛苦』とは自分の心や体が思い通りにならない苦しみ。アホな天馬でも漢字で書けるくらい何度も教えられた。

 和尚は毎回この話をする時、『愛別離苦』のところで自分の昔の恋バナを入れてくる。誰もジジイの恋バナなんて聞きたくないのに、そこが1番長い。

 パスタからは、まだ湯気が立っている。優禅さんは、今日和尚がこの話をするのを予測して、いつもより料理をアツアツに仕上げたのかもしれない。


「お客人のお悩みは、この四苦八苦の苦しみのどれかに値するのではないでしょうか?ねぇ」


「えっと、お、おんぞう?」


 生真面目な横田は素直に答えた。


「怨憎会苦ですか。そうですか。あなたはその出会ってしまった嫌な人のために悩まれているのですね。そうですか、そうですか」


 彼女の前のペリエには、ほぼ炭酸が抜けていた。


「お釈迦様はこう言っています。『苦にするな、気にするな』と。生まれることが『苦』だと仰ってるんです。生まれた時から『苦』を受け入れてしまわなければなりません。それはどうしたって逃げられないのですから。

 でもね。私だって人間です。嫌な人だっていますよ。いるって言っちゃあいけないんですけどね。お経読むだけで金取って、この葬式坊主!なんて言われたこともありますね。だからね、気にしないようにするために、そういうことは聞かないようにしてるんです。

 だからね、人間、好きにしてていいんですよ。私だって酒を飲む。私はお酒が大好きでね。坊さんのクセに酒飲んでるんじゃない!なんて言葉は聞かない、聞かない。それでいいんです。でもお客人はそれができなくて悩んでいらっしゃるのかな?」


「......はい。辛いけど、もしかしたら自分が悪いのかなとも思ってしまいますし。それに、相手の人にも家庭があるので、その、私が辞めればいいのかな......と」


「ほほう。会社を辞めたい、と」


「辞めたくはないんです」


「辞めたくはない。ほほう。でも、辞めるんですか?」


 そう言うと、黙ったままの横田を尻目に、和尚は缶ビールを手に取り、プシュッと開けてグビグビ飲んだ。喉仏が上下して、ビールを胃に流し込み、プハーッと満足げな息を吐いた。


「今ね、私はね、この長い話で皆さんにお食事を待たせているのに、こうやって1人でビールを飲み干したわけです」


 そう言って、チラッと天馬の顔を見る。天馬は一瞬バツの悪そうな顔をした。


「ねえ。私は今、ビールが飲みたいから飲んだんです。今、皆さんのことをなんにも考えないで、1人で飲んじゃいました。あなたも、それでいいんじゃないですか」


 俺たちはみんなで顔を見合わせた。これは和尚が、勝手に食べていいんだぞ、というふうに促しているのか。いつもは和尚の挨拶から飯が始まる。みんなどうしていいかわからず、顔を見合わせたところで、各々グラスを持って一口飲んだ。天馬はフォークを持ち上げたが、みんなが飲み物にしか手をつけないので、諦めてワインを一気に飲んだ。

 和尚は満足気な笑顔を浮かべている。どういう意味だ?


「あなたはお優しい人なんですね。でも、自分を大切にしていない。自分にも、優しくしたらよいのではないでしょうか」


 和尚の話には、いつも答えがない。答えは自分で考えろ、ということなのだ。


「お釈迦様なら、こんなこと言わないのかもしれないですねぇ。自分に優しくするためには、なにをすればいいのかなんて答えがない。でも、なんとかしたい。それをお手伝いするのが、劉弦さんたちの役目なんですかねぇ。ねえ、劉弦さん」


 急に話を振られ、俺は姿勢を正し、頭を下げた。和尚には俺たちのやっていることは伝えていない。でも、全てお見通しなのだろう。それでも俺たちの仕事に否定も肯定もせず、泳がせている。要は自分たちで考えろ、ということなのだろう。


「酒が飲みたきゃ酒を飲む。腹が減ったら飯を食う。さあさあさあ、みなさん。優禅さんが作ってくれた手料理。冷めないうちにいただきましょう」


 それに対して、もう冷めとるわ、という天馬の一言でここにいる全員が和んだ。




 食後、少しの団欒があった。横田は来訪した時よりは少し和やかな顔で帰っていった。俺たち4人は駐車場て見送り、車が角を曲がるまで見守った。


「少しは気が晴れたのかなぁ?」


 蓮実の言葉に、どうかねぇ、と曖昧な返事をした。


「今日の和尚の話は、格別に長かったな」


 天馬は背伸びをし、手をブラブラさせてストレッチ運動を始めた。手を組んで前に突き出し、上半身を左右に捻る運動をした。隣にいる一休にわざと当たるようにブンブン捻る。一休は、それを迷惑そうな視線を向けて避けた。

 夜風が気持ちよく、束の間のんびりとした空気を感じた。


「さぁて、これから俺たちの出番だよ」


 天馬はそう言うと、蚊に刺されるから、と理由をつけ精舎に戻っていった。


「あのさぁ、今までずっと言いにくかったんだけど」


 蓮実はその言葉とは裏腹に、意地悪そうな笑みを浮かべていた。なんだ?と、ぶっきら棒に答える。


「あの決め台詞みたいなの、あるじゃん。がどうのこうのっていう、あれ。うち、日蓮宗にちれんしゅうだからよ」


 意味がわからなかったが、俺の間違いを指摘され、しかもそれをバカにされていることだけは理解した。南無阿弥陀仏も南妙法蓮華経も、ただのバージョン違いだと思っていた。それに日蓮宗って、なんだ?


「マジですか?それ、浄土宗ですよ」


 一休までもが態とらしく目を丸くして驚いた顔を作り、揶揄からかってきやがった。

 俺は、その綺麗に丸められた坊主頭を、なるべく大きな音が出るよう、平手で思い切り叩いた。やっぱり、生意気なガキだ。

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