第5話 ゲーム

 ヴォルフとの奇妙な毎日が始まった。最初は、アウゲの専属になったというヴォルフの言葉をほとんど信じていなかったが、彼は、言葉どおり毎日やって来た。そしていつも、人懐こい笑顔を変わらずにアウゲに向けた。季節は冬の一番厳しい時期に入っていた。地熱と暖かい海流が運んでくる熱の恩恵を受けたギュンターローゲ王国は、周辺の国と比べると、冬はそれほど厳しくはなかった。また、地下から湧き出す熱湯を床下のパイプに通すことで、簡単に住まいを温めることができる。しかしそれでも、寒さと灰色の空が続く冬の日は陰鬱だった。


「ねえ、姫さま」ヴォルフは何やら平たい箱を持ってきた。「ゲームしませんか」


「ゲーム?」


「ええ。せっかく2人いるんだし」


(……「せっかく」って、何?)


「でも」


「ああ、おれのことを心配してくださってるなら大丈夫。これは、相手と道具の共有はしないので」


 ヴォルフは箱の中から盤と駒、サイコロを取り出す。


「姫さま、白と黒、どっちが好きですか?」


「……黒」


 拒否する間もなくヴォルフとゲームをする流れにされている。


「じゃ、黒を姫さま専用にしましょう。サイコロも2組持ってきたんで、これなら心配ないでしょ?」


 なんだかよくわからないまま、曖昧に頷く。


「姫さまって、服もいつも黒ですけど、好きなんですか?」


「……ええ。黒は、全ての色だもの。色の王」


「なるほどねえ」


 ヴォルフは袋から円錐の駒を取り出して、開始の陣に並べる。


「簡単に言うと、自分の駒を全部、先に自分の陣地に帰した方が勝ちです。2つサイコロを振って、出た目それぞれの数、駒を動かします。2つの駒を動かしてもいいし、1つの駒を2回動かすこともできます。自分の駒が単独で陣にいる時相手方の駒に入られると、その駒は捕虜として敵陣に移されて、また一から再開です。細々したことは色々ありますけど、簡単にはこんなもんです」


 ヴォルフは、付属していたルールブックをアウゲに渡す。アウゲはそれを手に取ってざっと眺める。自分の駒が進もうとする時、相手方の駒が2以上いる陣に自分の駒を進めることはできない。動かせる駒がない場合は、その手番は流さなければならない、等。


「……なんだか難しそう」


「やりながら覚えればいいんですよ。じゃまず、サイコロ振って先手と後手を決めますよ」




「……なんで勝てないのかしら」


 完璧に勝負のついた盤面を見つめながらアウゲが呟く。


「運だけに頼っちゃ、ダメです。戦略を立てないと」


「しんがりの駒をいかに早く逃すか、ということが要だというのは、わかるわ」


「そうです。それと同時に、いかに相手のしんがりを閉じ込めるか、ですよ」


「……なるほど、自分がされて嫌なことを相手にもやり返すわけね」


 アウゲはマスクに覆われた顎に手を当てて、盤面を覗き込む。


「もう一局、するわよ」


 駒を初期配置に並べる。


「待ってください、今日はもう十分でしょ。午後中ずっと、なんなら朝からやってるじゃないですか」


「嫌よ。これじゃ、私が負けたまま終わってしまうじゃない」


「いいじゃないですか、何回かは勝ったんだし」


 ヴォルフはげんなりして言う。


「駄目よ。今、5勝11敗で、負けてるもの」


「じゃあ、じゃあこうしましょう。その成績をずっと繰り越していくのはどうですか? 今姫さまが負けてるのは、はっきり言って経験の差です。経験を積めば、もっと勝負は均衡してくると思うんですよ」


「……面倒になって、私を煙に巻こうとしてるわね?」


 ぎくりとなってヴォルフは慌てて言う。


「してません! してませんから!」


「騎士の名誉にかけて言いなさい」


 アウゲはじっとりした目でヴォルフを見る。

 ヴォルフは立ち上がり、剣を鞘ごと外すと、目の前に掲げて言う。


「私、ヴォルフ・フォンレドルは、騎士の名誉にかけて宣言する。私は姫さまを面倒くさがっていない」


「よろしい、騎士ヴォルフ・フォンレドル。そなたの宣言、しかと聞き届けました」


 アウゲも重々しく頷く。ヴォルフはほっとした。


「あなた今、明らかにほっとしたわね?」


「すみません、しました!」


 ヴォルフは直立不動の姿勢で答える。


「……明日は朝一番から、やるわよ」


 アウゲは黒い駒を自分の方に寄せる。


「なんでそんなに負けず嫌いなんですか」


「だって、負けたくないじゃない」アウゲは理由になっていない理由を口にする。「私は、何にも負けたくないの。打ちのめされていじけているのなんて、ごめんだわ」


 白の駒を集めていた手を止めて、ヴォルフは目を見開いてアウゲを見た。


「……何よ」


「や、姫さまのそういうところ、好きだなあと思って」


「……あなた、変な人ね」


 アウゲはふいとヴォルフから顔を逸らす。


(なんなのこの人。本当、なんなの)


 視線を感じてヴォルフの方に顔を戻すと、彼は微笑みながらアウゲを見つめていた。その、甘く優しい視線に、心臓がどきりと跳ねあがる。


「……駒をしまう箱がもう一ついるわね。なにかあるといいのだけど」


 アウゲは立ちあがって、探し物をするふりをして寝室に入ってドアを閉めた。ヴォルフの視線から逃れて息をつく。


(なんなの? なんなの、なんなの? あんな顔で、私のこと、見ないでほしい。どうせ私の誕生日が来れば、いなくなるのに。そうしてその後は、二度と会えないのに。彼にとってはただの感想だったのかもしれないけど、好きだなんて、言わないでほしい……)


 クロゼットを開けると、刺しかけの刺繍と刺繍道具を入れた箱があった。


(そうだ、これも、完成させなきゃ……)


 刺繍糸を入れた箱が丁度良さそうな大きさだったので、中身を刺しかけの作品の方に移し、箱を空ける。


「……いいのがあったわ」


 アウゲは黒の駒とサイコロを箱にしまった。思ったとおり、サイズはぴったりだった。


「じゃ、しまっときますね」


 ヴォルフが駒を入れた箱に手を伸ばす。アウゲは慌ててそれを止めた。


「待って、まずよく拭いて。寝室のクロゼットに置いていた箱だから」


「ええ、わかってます。そのまま、姫さまの食事を取りに行ってきますね」


「わかりました」




 長く暗い冬の間、2人はひたすらゲームに興じた。初めはヴォルフの存在に戸惑っていたアウゲだったが、だんだんと彼の存在に慣れていき、いつしか、彼がいつも一緒にいるのが当たり前になっていた。そうしているうちに一年で一番暗い季節をくぐり抜け、時折春の兆しを感じるようになっていた。

 注意深く彼を観察しているが、目立った体調不良を抱えているようには見えなかった。彼はどんな従者よりも長い時間一緒にいる。もう、手足に痺れが出ていてもおかしくない。彼は騎士だから、アウゲにそれを悟らせずに立ち振る舞うくらいのことはできるのかもしれないが、わからない。



「姫さま、もういい加減、負けを認めたらどうですか?」


 大勢のついた盤面を見ながら、ヴォルフが呆れたように言う。ここから逆転するのは至難の業、というよりは、ほとんど不可能だ。攻撃的に駒を動かしすぎたせいで、足元を掬われた。


「嫌よ。負けを認めたら、負けるじゃない」


「もう……本当、負けず嫌いなんだから。別にいいでしょ、一局くらい。総合成績では、今や姫さまの方が勝ってるのに」


 ヴォルフは仕方なくサイコロを振って、いくつかの駒を自陣に上がらせる。


「そうだ、もうすぐ春の女王の宴ですね。姫さまも出るでしょ?」


 昼と夜の長さが同じになる日、春の本格的な訪れを祝い、王宮では宴が開かれる。


「行かないわ」


 アウゲは自分のサイコロを振って、後方の駒を前に動かした。


「なんでです? 国王陛下から、姫さまにも招待状が来てたでしょう? 行くべきですよ。両陛下にも、新年祝賀の宴以来、会ってないでしょう」


「……私が顔を出しても、お父さまとお母さまはお喜びにならないんじゃないかしら」


「いつもの強気はどこに行ったんですか。……敵前逃亡ですか? ま、たまにはそういうのも」


「嫌よ。わかったわよ。行くわよ」


「じゃ、執事頭にそう返事をしておきますね」


(確かに、こんな機会でもなければ、お父さまとお母さまにお会いできることはないのだものね。夏至の、夏の王の宴が開かれる時、私はもうここにはいないのだし)


 そう思い至ると、急に胸が塞いだ。


「……どうしたんです? 姫さまの番ですよ?」


「あ、ええ……」


 アウゲはサイコロを手に取ったが、しばらくそのまま動けなかった。そっとサイコロを握った手を下ろす。


「……あなたの勝ちでいいわ」


「どうしたんですか。おれ、何か変なこと言いましたか? 気分を悪くされましたか?」


 心配そうなヴォルフの言葉に、アウゲは首を振る。


「いいえ、何もないわ。大丈夫。悪いけれど、ちょっと1人になりたいから、あなたは退がっていてくれるかしら」


「……かしこまりました。本当に大丈夫ですか? 退がってますけど、変な気を起こさないでくださいよ? 変な気を起こす前に、絶対呼んでくださいよ?」


「変な気って何よ。大丈夫だから」

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