第2話 離宮

 賑やかな大広間を後にして、アウゲは大きくため息をついた。背中の浄化筒がごぼ、と音を立てる。いけない。恐る恐る振り返ると、今日の当番騎士が気まずそうに目を逸らした。


「私は離宮に戻ります」


 呼気を漏らさないために顔の下半分をぴったりと覆っているマスクのせいで、顎の動きは制限されているものの、少しくらいなら会話もできる。もっとも、アウゲと会話をしたがるような物好きはいなかった。


 一年でもっとも華やかな日に護衛当番が回ってくるなんて、彼はなんてついてないんだろう、アウゲは密かに騎士に同情する。

 当番騎士は貴族の子息らしく考えを顔に出すようなことはしないが、きっと内心落ちこんでいるだろう。とんだ貧乏くじだ、と。


 アウゲは、ただ一人住む離宮、離宮とは名ばかりの、王宮使用人の家だと言われれば信じてしまいそうな住まいに戻るため、アウゲのためだけに雪をかいて作られた道を辿る。王族が住まうような所ではなかったが、それでもアウゲにとっては居心地の良い我が家だった。

 門をくぐると、離宮に続くアプローチの両側にはゼレの青い花が季節に関係なく咲き乱れている。空の青をそのまま写しとったような、混じり気のない青。その先にある小さな二階建ての建物がアウゲの離宮だった。


 騎士が扉を開ける。


「私はもうやすみます。あなたは宴の警護に戻ってください。では」


「仰せのように」


 騎士は礼と共に答える。そこには、抑えきれない喜びが見えたが、アウゲはそれを見なかったことにする。

 騎士が扉を閉めて立ち去った気配を感じて、アウゲは正面の階段から2階に上がる。そこが普段使っている居室と寝室だった。

 寝室の化粧台の前に座り、長い髪を上げてその下に隠しているマスクの留め金を外す。背中の浄化筒も下ろして傍に置く。

 大勢の者の前に出たのは久しぶりだ。マスクをいつもよりきつくつけていたので、痕がついてしまった。

 鏡を覗いて、指でマスクの痕をなぞる。

 鏡の中から水色の瞳が見返してくる。猫目気味の丸い目と小さな口は、母にそっくりだと自分では思う。多分誰も気づいてはくれていないけれど。


(春が来て夏になる少し前、私は18歳になる。そうしたら、私は魔王に嫁ぐのよね。18歳の誕生日に。魔界って、どんなところなのかしら。魔界から帰ってきた人はいないから、何もわからない。魔界でも、やっぱり私は異端者なのかしら。そりゃ、そうよね。人間はきっと私一人なのだし。どこに行っても仲間外れ。どこに行っても異形の存在。辛いなあ。いえ、そもそも、魔王は本当に私を花嫁にするのかしら。花嫁というのは建前で、私は一飲みに食べられてしまうんじゃないかしら? ああ、生きたまま食べられるのって、痛くて苦しそう。嫌だなあ。どうせ食べるなら、せめて殺してから食べてくれるとありがたいのだけど)


 新年祝賀のめでたい夜に、一体何を考えているんだろう、とアウゲは力なく首を振る。

 泣きたくなんてなかったのに、涙が一粒頬を転がった。これだって、自分以外の人間には恐ろしい毒だ。どんなに気をつけていても、みんな毒に冒されてしまう。この前まで身の回りの世話をしてくれていたカロラも。本人は歳のせいだと言っていたけど、多分違う。そしてカロラ自身もそれに気づいている。気づいているけど、彼女は優しいからそうじゃないふりをしていた。その彼女も、王宮を辞して夫の住む領地に戻っていった。蠱毒の者の世話人には多額の退職金が支払われるので、それでせめて彼女が余裕ある暮らしをしてくれればいいと思う。

 後継の世話人は決まっていない。しかし、次に誰かが来たとしても、身の回りの世話は断ろう、とアウゲは思う。これまでだって、身体に直接触れる世話は全て断っていた。王族に生まれた女性としてはありえないことだったが、そうするより他なかった。簡素なドレスを着ているのもそのためだ。他人に着せてもらわなければ着られないような豪華な衣装とは無縁だった。


 また階下に降り、一番奥にある浴室に入る。離宮は質素な造りではあったが、唯一王族の住むところらしい場所として、この浴室があった。いつでも湯がこんこんと湧き出していて、好きな時に入浴することができる。排水は、ゼレの結晶で作った濾過層を通して放出される仕組みになっている。

 一人でドレスを脱ぎ、床に掘りこまれた浴槽に身を沈める。


(魔界にもお風呂ってあるのかしら。あるといいんだけれど。あ、私が会ったその日に魔王に食べられなければ、の話ね)


 少し熱く感じる湯の中で身体を伸ばしていると、重く凝り固まっていた心が解けていくようだ。


(そうだわ、そろそろ結晶づくりをしなくちゃ……)


 ゼレの花からエキスを抽出し、そこから結晶を作ることはアウゲに任された重要な仕事だった。ゼレのエキスも、アウゲには何の威力ももたらさなかった。力仕事があるので当番騎士にいつも手伝いを頼んでいるのだが、ゼレの効能を知っている彼らは、あからさまではないものの、嫌な顔をした。


(でも、新年早々薬作りを手伝わせちゃ、さすがに嫌がられるわよね)


 湯の中でくるりと身体を反転させてうつ伏せになると、浴槽の縁に腕を乗せ、その上に顔を乗せる。


(今夜はみんな本当に一晩中踊り明かすのかしら。夜明けまで。それはそれで大変そうだな。私は、お父さまが、挨拶が終わるまでいればいいって言ってくださったから、すぐに退出できたけれど。あ、でも今日の当番騎士の彼、ええと、名前はなんだっけ? 初めて会った時名乗ってくれた気がするけど忘れちゃったな。彼は宴に戻っていいって言ったらすごく嬉しそうだったから、大変じゃないのかも。カロラも、新年祝賀の宴は恋人探しの催しみたいなものだって言ってたっけ。彼にも恋人がいるのかしら。あるいは婚約者。彼も貴族の息子なんだから、いてもおかしくないわよね)


 彼が恋人もしくは婚約者と手を取り合って甘い言葉を囁いているところを想像してみるが、うまくいかなかった。


(お父さまとお母さまは、政略結婚だったけど、愛しあっていらっしゃる。私は魔王とそういうふうになれるのかしら。だいいち、魔族と人間はわかりあえるのかしら。私は、食べられなかったとして、どういう立場になるのかしら。魔王の城には魔王が溺愛する美しい寵姫がいたりするのかしら。あ、そもそも私が側室なのかもしれないけれど。異形の人間である私は、誰からも顧みられず忘れられて過ごすのかしら。あるいは決してわかりあえない相手と、それでも一緒にいなくちゃいけないのかしら。辛いなあ。せめて魔界に刺繍道具持ってっちゃ、いけないかしら)


「だめよ、アウゲ。くよくよしてたってはじまらない。仕方ないでしょ、これが私なんだから。私は私として生きるよりほかないんだから。負けを認めたら、負けるのよ」


 顔を上げ、自分を鼓舞するために声に出して言う。


「私は私。まだやれる。頑張れる。よし」


 なにが「よし」なのかはわからないが、アウゲは勢いよく浴槽から立ちあがった。

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