蠱毒姫
有馬 礼
第1話 新年祝賀の宴
あれが、そうか。
新しい年を祝う王宮での祝賀会には、王族の全員が壇上に座っていた。当然、その姫も。
広間に集まった貴族たちも、そちらを見て囁きあっている。
「あれが……」
「同じところにいて大丈夫なのかしら……」
「これまで新年祝賀の宴にいらしたことなんか、なかったのに……」
「また、世話係の召使が体調を崩して辞めたそうだ……」
「怖いわ……」
「マスクをしているだろう? マスクから繋がっているあの管から背中の浄化筒に呼気を流して、解毒してから排出しているらしい。わずかな時間なら同じ空間にいても影響はないそうだが……」
「でも……」
「王家に生まれる蠱毒の姫や王子が魔王の配偶者となっていればこそ、この国は守られ、豊かに栄えているんだから……」
「18歳になったら、アウゲ姫も魔王に嫁ぐことになるのね……」
「姫は今17歳か……もうすぐ……」
「今年が最初で最後の……」
同じような囁きがあちらこちらで波紋のように広がっている。着飾った貴族たちは声を低くしているが、時折ちらちらと投げる視線まで隠せているわけではない。フロアからは一段高い壇上にいるとはいえ、おそらく当の本人は、貴族たちが自分のことを囁きあっていることに気づいているだろう。
その人がそうだと、一目見ればわかる、と聞いていたが、そのとおりだった。見た瞬間、その人だとわかった。
王宮の近衛騎士ヴォルフ・フォンレドルは、第三王女、アウゲ・ギュンターローゲを見つめた。顔の下半分はぴったりと密着するマスクに覆われていて、見えるのは目元のみだ。それも、遠くからではよくわからない。ただ、真っ直ぐな銀の長い髪をしていることはわかる。祝賀会に参加している貴族の娘たちよりもよほど簡素な、黒一色のドレス。マスクも黒。白い肌と銀の髪も相待って、そこだけ色を失っているようだ。
恐怖と好奇心が入り混じった視線に晒されながらも、壇上の彼女は背筋を伸ばして顎を引き、まっすぐに前を見つめていた。周りを気にしておどおどしているような様子は全く見られない。
なんて気高い心の持ち主なのだろうと、ヴォルフはため息をつく。あれが、そうなのか。
人間の住む世界と背中合わせに存在するもう一つの世界。人間たちが魔界と呼ぶその場所に次の王または女王が生まれた時、ギュンターローゲ王国の王族には、その配偶者となるべき者が生まれる。
彼もしくは彼女は、存在全てが毒だった。涙も、汗も、唾液も。その吐息さえも。長らくその毒気にさらされ続けると、手足の末端に痺れの症状が出始め、やがてそれは全身に広がって死に至る。そして、魔王から贈られた「ゼレ」と呼ばれる青い薔薇から抽出された成分で作る解毒薬には、酷い中毒性と依存性があり、常用し続けると精神に異常を来した。そのようなわけで、彼らの周りに長らく留まる者はいなかった。
人々は口ではその存在に感謝しながら、その実、魔王の花嫁となるべきアウゲ姫を「蠱毒姫」と呼んで忌み、恐れていた。
「ヴォルフじゃないか」
美しく着飾った令嬢を連れた貴族の男性がヴォルフに声をかけてきた。フォンレドル伯爵の旧友、ミュラー伯爵だった。
「ミュラー伯爵。ご無沙汰しております」
「ご家族は息災かね?」
「ええ。おかげさまで」
「お父上から、末っ子が近衛騎士として王宮に上がることになったからよろしくと、手紙をもらったよ。立派になったものだ。あのやんちゃ坊主が」
ミュラー伯爵の言葉に、ヴォルフは思わず笑ってしまう。
「昔のことは言いっこなしですよ」
「そうだな。確かに昔とは違う」伯爵は令嬢の方を振り返り、前に出るよう促す。「末娘のマリーだ。去年社交界にデビューした」
マリーははにかみながら優雅に礼を取り、ヴォルフを見上げた。
「誰かと思いました。すっかり美しくなって」
「お兄さまこそ、ご立派になられて。初めはどなたかわからないほどでした」
ヴォルフはまた笑ってしまうが、相手は都合良くそれを親愛の微笑みと勘違いしてくれたようだった。
「長らく留学して、国を離れていましたので」
「どうだろう、私に代わって、娘をエスコートしてはくれんかね?」
娘の様子を観察していた伯爵がそれとなく言う。近衛騎士と言えば、騎士の中でもエリートだ。フォンレドル伯爵とは旧知の仲であり、身元もしっかりしているし、末娘の嫁ぎ先として申し分ない、という胸算用が見て取れる。
「申し訳ありません、伯爵。今日私は、騎士の役目でこの場にいるものですから」
微笑みを浮かべて、やんわりと断る。
「そうか。それは残念だ」
「お兄さま、次は、わたくしとダンスを踊ってくださる?」
マリーが熱っぽい視線で見つめてくる。
「ええ、おれでよければ、1曲」
「お兄さま、約束ですわよ」
マリーは上気した顔で、若く美しい近衛騎士をもう一度見上げた。整った顔立ちは女性的で、長いまつ毛に縁取られた優しげな目は深い青。真っ直ぐに通った細い鼻梁、形のいい、ふっくらした唇。清潔に整えられた、少し暗い金色の髪。歳は18だったはずだ。彼は今まさに、少年から大人の男性に変貌しようとしている。
ヴォルフはその視線を避けるように曖昧に頷いて、伯爵に「では、任務がありますので」と告げてその場を後にした。それは嘘ではなかった。
間もなく、王が出座される。不審な動きをする者がいないかを見張るのが今夜の近衛騎士の役目だった。この華やかな場で唯一帯剣しているのもそのためだ。王族の身近にもそれぞれ護衛の騎士が控えていることは言うまでもない。例外があるとすれば、アウゲ姫だけだ。
(アウゲ姫にも、護衛はいるんだよな……?)
もう一度アウゲ姫に目を向けるが、それとわかる位置に騎士の姿はない。彼女がいなければ王国の繁栄もまたないわけで、この場で一番厳重に護衛されるべきは彼女ではないのかと思うのだが。
控えていた楽団が楽器を構え、荘厳なメロディを奏ではじめた。貴族たちはおしゃべりをやめ、玉座の方へ向き直って礼を取る。近衛騎士たちは礼を免除されている代わりに、不審な動きをする者がないか、貴族から使用人に至るまで目を配る。
玉座を覆う薄布の向こうに王と王妃が姿を現す。
音楽が止むと同時に、薄布がさっと左右に開かれる。
「皆の者、大義である。
こうしてそなたたちと相見え、太陽の復活を共に祝うは、余にとっても僥倖である。
王国の繁栄を願い、一年で一番長い夜を共に踊り、歌い明かそうではないか
宴を始めよ!」
それが合図だった。
楽団は再び音楽を奏で、酒が振る舞われ、広間の中央ではダンスが始まった。
王族たちの前には、新年の祝賀を述べる貴族たちが列をなしている。ただ一人、アウゲ姫を除いて。
しかし姫自身はやはり、背筋を伸ばして真っ直ぐに前を見て座っているだけだった。言い訳程度に御前に供されている飲み物に手をつける様子もない。
ヴォルフは任務も忘れてその姿に目を奪われた。
アウゲ姫は、上位貴族の祝賀挨拶の列が途切れたのを見計らって立ち上がり、王族席の後ろの通路を通って玉座の傍に出た。王と王妃、すなわち父と母に何事か話しかけ、礼を取り、そのまま後ろの通路に消えていった。
「ね、『姫さま』が退出されたわよ……」
ヴォルフの近くにいた貴族の女性が夫に話しかける。
「ああ……夜通しこの場にいらっしゃるのかと思ったが……」
夫は明らかにホッとした様子で言った。
その言葉を盗み聞いてヴォルフは腹を立てる。
(彼女を化け物みたいに言うな。あんなに気高い魂の持ち主が、化け物なんかであるはずがない。この場で一番尊い人だ)
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