Ⅱ 白衣の女神

「――おっす! 今日も早いな」


「ああ、おはよう。まあ、家にいても特にすることないしね」


 無音の家とは対照的に、人々の会話や足音、車の走行音…様々な騒音に満ちた街を徒歩と市営のバスで移動し、通っている高校へとたどり着くと、クラスメイトが朝の挨拶をしてきてくれる。


 家族達と違い、ここの友人達とは言葉のキャッチボールができるのでとても楽しい……ようやく生きている人間と関わりを持てたような、そんな気がする。


「ねえねえ! この人の新しい動画見た!?」


「え! まだ見てないかも! どれどれ?」


「なあ、この新人グラドル、けっこうよくねえ?」


「いや、俺はやっぱ清純派のこの子だな」


 また、教室内には取るに足らない、そんなお喋りに花を咲かせる生徒達の声が、無秩序な交響楽のようになって木霊している……この場所も、やはり家とは違って生活の音に満ち満ちている。


 なぜ、僕の家にはあんなにも音がないのだろうか?


 家族って、他の家でもあんなに冷めた関係性しかないものなんだろうか?


「ね、ねえ、最近、家族と話とかしてる?」


 不意に、その疑問に強く囚われた僕は、思い切ってそのことを友人に尋ねてみることにした。


「はあ? いや、別に普通だけど……なんだ? 家族と揉めてんのか? ケンカか?」


 しかし、彼は僕の質問を違う意味にとって、勝手に想像を巡らせると逆に尋ね返してくる。


 普通かあ……その〝普通〟って、いったいどんなものなんだろうか? うちの状態は普通なのか? それとも普通じゃないのか?


 その〝普通〟のそもそもの基準がわからないので、どんなに考えたところでもうどうしようもない……。


「なあ、何か悩んでるんだったら相談に乗るぜ? まあ、俺じゃ話しづらいっていうんなら、スクールカウンセラーの先生に話すって手もあるし……とにかく、悩みがあんなら一人で抱え込まないで話してみろよ。誰かに話せば楽になるぜ?」


 思案して押し黙る僕が悩んでいるようにでも見えたのか? 彼は神妙な顔つきになると、ご親切にもそんな大袈裟なことまで口にし始める。


「い、いや、そういうんじゃないから。ちょっと気になっただけだよ。だから心配しないで。あは…あははは……」


 なんか図らずも誤解を与えてしまったようなので、僕は引き攣った苦笑いを浮かべると、そう言ってその場ははぐらかした。


 ……だが、この会話を契機として、僕の中ではこの家族に対する疑問というものがどんどんと大きくなっていき、どんなに忘れようとしても、そのことが頭から離れなくなってしまった。


 そして、授業中も上の空で窓の外ばかりを眺めて過ごし、先生の話も、友人達との会話も耳に入らないまま悶々と一日を終えての放課後……。


「……一人で考えてても埒があかないしな……ほんとにちょっと相談してみるか……」


 友人に勧められた〝スクールカウンセラーに相談してみたらどうか?〟という意見、その提案がなんだか良い解決策のように思えてきたので、僕はカウンセラーの先生がやっている、学校のすぐとなりになる心療内科へ足を向けることにした。




「――どうしたの? 何か悩みごと?」


 清潔感のある白のブラウスに白のタイトなミニスカート、その上に白衣を纏った全身白づくめの先生が、どこかなまめかしい響きを持った声でそう尋ねる。


 その服装とは好対照に長く麗しい黒髪を微かに揺らし、色っぽく小首を傾げる先生はやはり神々しいほどの美人である。


 その美しさと女神のように優しく悩みを聞いてくれるところから、生徒達の間では〝アフロディーテ(※ローマ神話でいうところのヴィーナス)〟という渾名で呼ばれていたりする。


「い、いえ……悩みごと…というまでのことでもないんですけど……その、家族との関係性について、ちょっと疑問というかなんというか……」


 その吸い込まれてしまいそうな黒い瞳に見つめられると、黙っていようと思っていても、ついついなんでも正直に話してしまう。


「いいのよ。悩みじゃなくてもかまわないから、なんでも遠慮せずに話してみて」


「は、はい……あの、家族とのつきあい方についてのことだったんですけど……」


 加えて、軽く酩酊を覚えてしまうような蠱惑的な声で促され、僕はありのままに、会話のない家族について思っていることをいつの間にか打ち明けていた。


「――そう。なるほどね。あなたの悩みはわかったわ。家族に対する信頼が揺らいでいるのね……」


 僕の話を聞き終わると、先生は僕の目をじっと見つめて大きく頷き、共感してくれている様子で僕の漠然とした疑問を一言に抽象化する。


 そう……なのだろうか?


 先生の言う通りのような気もするし、そうじゃないような気もする……。


「でも大丈夫よ。何も心配はいらないわ。あなたは意識しすぎているのよ」


 続けて先生は、僕を安心させようとしているのか? そんななんとも月次つきなみな、気休めみたいな言葉をかけてくる。


「お薬を出しておくから、今日は食後にそれを飲んでぐっすりお休みなさい。一眠りして、次に目を覚ました時にはその疑問もどこかへ消えて、すっかり世界が変わって見えるはずよ?」


 そして、最後にそう告げると、処方箋を書いてそれでカウンセリングは終了した。


 一応、専門家に話を聞いてもらって多少すっきりしたところはあるものの、それでもやはり、根本的な家族というものに対する疑問というか、得体の知れない不気味な不安のようなものは、湖底に沈澱した泥の如く心の奥の方に残ったままである。


「眠って明日目を覚ませば、ほんとにこの疑問はなくなっているんだろうか……?」


 しかし、今の僕には先生の言葉を信じることしかできない。


 いつも通りの誰も一言も口をきかない静かな夕食をすませた後、僕は言われた通りに薬を飲むと、早めにベッドへ入ってその眼を閉じた――。

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