第67話 世界一完璧な笑顔
お互いの意識がお互いを認め合っていた。他人のフリなんか無かったかのように。
神秘的に輝く琥珀のような瞳。俺は目を逸らした。危うく一声かけてしまうところだった。
「アリナ? どうしてここに?」
鶴が立ち上がってアリナの元へ近寄った。
「なんとなく気になって来たの。妙な気分ね」
「妙な?」
「既視感。鶴と私は一緒にここに来たことあるわよね?」
「うん。彗に連れてこられた時かな?」
鶴がアリナにお礼を言うため、鶴を誘拐した時のことだ。
「やっぱり。現実なのね」
「もちろん。アリナにありがとうって言ったじゃん!」
「そうね。今更だけどあなたをおんぶしたのは私よ。ひねくれててごめんなさいね」
「わかってる。彗もこの話おぼえてるでしょ?」
不意に話を振られて言葉に詰まった。バッグを肩にかけて逃げるすきを窺っていた。アリナが来てしまった以上留まるわけにはいかない。
少し間をおいてから「さぁな」と短く返事をして立ち上がる。他人から見ればどうしようもなく不貞腐れたクソガキにしか見えない。こんな自分を殴ってやりたい。アリナの困惑した表情が俺の心をひどく痛めた。
彼女らの傍を通り過ぎる。引き戸に手をかけて出ていこうとしたら袖を掴まれた。
「待って」
アリナが呼び止める。さすがに振り払うほど最低な人間ではないので仕方なくアリナの方を首だけ回した。アリナは上目遣いで俺をじっと見る。気恥ずかしさでまともに正面から向き合えない。
一歩踏み込んで彼女は接近した。制服が触れそうになるくらいの至近距離だ。俺は身体も振り返り、後退する。しかし背後には引き戸。まさに背水の陣だった。
目で鶴に助けを求めたがニッコリ笑うだけで何もしてくれる様子はない。きっと心の中で「ざまぁみろ」とほくそ笑んでいることだろう。
「どうして嘘つくのよ」
「嘘なんかついていない」
「鶴と何を話していたの? 私のことでしょう? 鶴、そうなんでしょ」
鶴は頷いて傍観を続ける。
「私はあなたのことを嫌ったりなんかしていなかった。否定できる?」
「お前は俺のことが嫌いだったよ」
「私の目を見て言って!」
顎を掴まれ、強制的にアイコンタクトをさせられる。その強引さが懐かしく感じた。
やっぱり彼女は毒舌薔薇だ。天使アリナでも新しい人格でもない。俺がよく知る日羽アリナだ。気高く、誰からも束縛されない彼女だ。
「お前が何を考え、何を感じ、俺をどう想っていたかなんてお前にしかわからない。だけど、お前は俺を嫌ってたさ」
「それはただの推測だわ」
俺は強く自分に念じた。これはアリナの為。そう、アリナの今後を考えた結果なのだ。
「放課後を共に過ごした人を嫌いになる?」
薔薇園にいた頃だ。
「文化祭で肩を並べて歩いた人を嫌いになる?」
臨時風紀委員を務めた時だ。
「一緒に水族館に行った人を嫌いになる?」
真琴と流歌のデートを追跡した時だ。
「嫌いな人の自宅に行ったりする?」
初詣の帰りで家に招いた時だ。
「嫌いな人のためにチョコを手作りする?」
バレンタインデー。彼女の中から俺が消えた日だ。
「嫌いな人のために――」
「やめてくれ」
もうたくさんだった。
思い出すだけで辛い。彼女が述べたそのすべてはきっとノートから引っ張り出してきた文章だろう。だから結局、彼女にとって小説のようなフィクションなのだ。
この物語は孤独だ。
世界で2人しか知らないこの物語は、もう俺の頭の中にしか存在しない。回顧できるのは俺だけだ。この物語を言葉にして伝えたところで、俺が虚しさに溢れかえるだけだと彼女は理解していないのだろうか。
「私のため、アリナのためって言い聞かせているんでしょう? あなたが私のためにしてくれたように、今回も私のために耐えているんでしょう?」
呼吸が止まる。
何もかも見透かされているような、公衆の面前で丸裸にされたような。そんな羞恥心が驚嘆とともに溶け合って俺を黙らせた。
「記憶喪失、二重人格、過去の虐待。こんな不安定な私を治療するだなんて無謀にもほどがある。私と過ごして来てそれを痛感したはずよ。まるで暗闇の中の迷路だわ。そんな中、私は父の死をきっかけに記憶を取り戻した。あなたのこと──榊木彗という私の大切だった人と引き換えに。きっと父を少しでも思い出させないための自己防衛なのでしょうね」
鶴は「えっえっえっ!?」と平仮名量産機になった。淡々と流れたアリナの真実に鶴は混乱の極みとなっている。
アリナは鶴になら明かしていいと判断したのだろう。俺はその決意を汲み取り、アリナの言葉に耳を傾ける。もう無視するわけにはいかなかった。
「今の私は、もう1人の私、赤草先生、そしてあなたが描いた理想の日羽アリナに最も近いのかもしれないわね。だからあなたはこう考えた。下手に搔き乱したら台無しだって。ただえさえ不安定な私に自分のことを思い出させようとしたら、私はまた人格が入れ替わったり、忘れたり、傷つくんじゃないかって。優しいあなたはそう考えて私に嘘をついた」
アリナは俺と鶴の袖を掴んで引っ張り、椅子に座らせた。
鶴は両手を挙げて「えっ!? はい!?」と未だに平仮名量産機として体内の栄養を音エネルギーに変換し続けている。少し黙りなさいと言いたいところだが、鶴の立場だったら俺もあわてふためいて品性に欠ける卑猥な単語を連呼していただろう。
アリナは仁王立ちになって再び口を開いた。
「2人は私のことを話し合っていたんでしょう? 鶴、どんなこと?」
「えと、その、アリナが彗のことを忘れてるっぽいから彗にそれでいいのかーっと説教していたというか……つまり怒ってました。彗はこのままでいいとか根性無しなこと言って必死に何かを隠して嘘つくし、突然怒鳴るし、つまり、うん、怒ってました」
「そう。なるほどね」
「今言ったことって――」
「事実よ。私、今まで中学3年生以前の記憶が全て無かったの。それに二重人格の解離性同一性障害。原因は死んだ父親の虐待」
「えっ――」
鶴は絶句して俺を見る。眉をひそめて見る見るうちに表情を曇らせる鶴が気の毒で、俺は鶴の緊張を解すためにピースした。が、ビンタされた。
「彗が嘘をついていたのは、私に知られないためだったってこと?」
「そうだ」
「アリナの、その、過去の――いや、身体と心を守る意味合いで関わらないと決めたってこと?」
「アリナのため、と言ったのはそういうことだ。俺を思い出そうすれば絶対に精神的負担になる。それが原因でアリナの身に何か良からぬことが引き起こると思った。事情を話せなくて悪かったな、鶴」
「そんな……なんでそんな……ぐすっ」
涙目になり、また泣きだしそうになる鶴を見て俺は「泣くなー! 耐えろー! 干からびるぞー!」と茶化した。もうこれ以上泣いてほしくなかった。
「だってっ! そんな悲しいハッピーエンドなんて、なっ、納得できないっ! ご、ごめんねぇ~ずい~ゆるじで~! ありなもずいの、ずいっ、のこと避けないであげで~」
「あーもう一生泣いてろ。人類を想うなら砂漠で泣き続けろ。緑が生まれるかもしれん」
「人類のみなざんごめんなじゃい~」
鶴が落ち着くまで待とう。アリナに目で伝えると困ったような笑みを浮かべて「そうね」と呟いた。
「これからどうすればいい」
泣き疲れている鶴を放っておいてアリナに一言訊いた。
もう彼女と無関係でいる目論見は崩れ去った。それが正解だったかどうかはこれからわかることだが、目的を失ってしまった。アリナ更生プロジェクトは完遂されたといっても過言ではないだろう。俺を忘却した以上、アリナと関わる理由がない。
「プロの帰宅部員」
アリナは人差し指を立てて得意げにそう言った。
「あなたはそう自称していたようね」
「自称じゃなく事実だ」
「ノートには中々痛々しいことが書かれていたけど本当のようね。あなた変わっているわ」
「お前もな」
「そう、私も。あなたと同じ変人」
その不名誉なレッテルを誇示するかのように微笑み、長机を撫でる。その白くて長い指を目で追う。スケートのように踊っていた指はぴたりと止まり、俺を指さした。顔を上げると彼女は微笑んでいた。
それは俺が見てきた数々のアリナの表情の中で一番麗しく、可愛げがあり、そして世界一完璧な笑顔だった。きっと彼女より魅力のある女性はどこを探してもいない。
俺にとって彼女はそういう女性なんだ。
おそらく俺が死ぬまで記憶に残り続け、走馬燈がやってきた時にはとても色濃く映ることだろう。その死に際に誰がいるかはわからない。独身貴族を掲げる俺が何を血迷ったことを、と以前の榊木彗なら笑い飛ばしていただろうが俺にも春が来たらしい。
あわよくば、その死に際に彼女がいればいいなと心に思った。
「私のために帰宅部を辞めなさい」
帰宅部員にとっては宣戦布告。彼女はまっすぐな瞳で言った。
「あなたを思い出すためにあなたと放課後を過ごすわ。それがあなたの最後の仕事。また、助けてくれる?」
俺は思わず笑った。帰宅部員に辞めるもクソもないのだ。入部届も退部届もないのだから当然辞める概念がない。言ってしまえば自称することによって成立するステータスなのだ。
極論、自称しなければいい話。しかしながら俺はまだ帰宅部員としての誇りを捨てきれない。全国の帰宅部員たちは仲間が減ることを一番恐れている。彼らを裏切るのは心苦しいことではあるが、アリナの為なら辞めてやろう。毒舌少女のために帰宅部辞めてやろうじゃないか。
「いいだろう」
全国の帰宅部員へ。俺は一時的に帰宅部員を辞める。
しばらくの間、地球は頼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます