King S Ender

@Scenario

第1章 少女の生誕



私が初めて目にしたのは、無機質で冷たさを感じさせる壁だった。現実感の欠如した視界は己の意思では動かず、ただ、ぼぅ……と一点を見つめている。

私にとっての世界はこの鈍色の壁のみだった。


 ある時、世界が揺らめいた。

これまで暗い壁のみが広がっていた世界に、左から右へと、時折流れてゆく歪みがあることを知った。

その日は何時もよりほんの少し目が冴えていた。

別段、何か思うものがあった訳ではない。ただ本能として、動くものに気を惹かれただけ。ひたすらにその歪みの行先を、動かない視界の中で追っていた。


どれだけの間、そうしていたのだろうか。

時間感覚が無い故に、長いか短いかも分からない。

しかし、暫しの後に名状し難い違和感を感じるようになった。

ただの錯覚と切り捨てる程度の感覚だが、僅かながら世界が傾いているかのように見えた。

違和感を認知するや否や、その変化は加速し始めた。


 私の世界が左へ左へと流れていく。

私の視界は、歪みを追うように右へ右へと追い縋ってゆく。

仄暗い夜闇に払暁が訪れるように光が徐に増してゆき、やがて一面が白で満たされた。

あまりの眩しさに目を細める。鈍色しか知らぬこの身には冷酷ともいえる光が差し込み、反射的に目を瞑る。


固く瞑った瞼から、恐る恐る力を抜いてゆく。

何処まで行けるかを測るように、危険域を見定めるかのように緩やかに、及び腰で。

次第に、暗い瞼を横切るように、一縷の光が生じた。

僅かに赤みを帯びたその光は、瞼から力を抜く程に広がってゆく。


気付けば、私の世界は光に満ちていた。

今や後ろから前方へと、絶えず流れる歪み。

ようやく分かった。それは気泡だった。


その瞬間、私の頭の中に満ちていた霧がさぁっと晴れた。

金縛りに遭っていたかのように動かせなかった視界が、多少だが意思通りに動き、その他の感覚も鈍いながらも目を覚ました。

私を追い抜くように浮き上がってゆく気泡の音と、その影に隠れて断続的に聴こえる、コンコンという遠くくぐもった音が聴こえる。

未だに身体は動かないが、熱くも冷たくもない何かの中に浮かんでいるかのような感覚。


緩やかに目が光に慣れてくると、光に掻き消されていたものも見えるようになってきた。

私を照らす光源があり、それと私との間を稀に何かの影が通過していた。


 私に向けられた、直視するには少々躊躇う光を疎ましく感じていると、一際大きな何かが光を遮り、影を落とした。

そこにはこちらを覗き込んでくる、見知らぬ顔があった。

専らその誰かは、こちらを観察するように視線を向けては記帳している。それに加えて稀に、私へ語りかけているかのように口を動かすこともある。

只、まだ感覚が覚束ない私にその声が届く事はない。せっかく目が覚めても長くは持たず、直ぐに視界はぼやけて意識も途絶えてしまう。

そんな状態ではあったが、数日をかけて徐々に意識の明瞭さは増していった。

1日の内、目を開けている時間が延びるにつれ、思考力というものが戻って来つつある事が実感できた。

いや、戻って来つつある、という言葉が正しいかは分からない。何故なら、残念な事に私は、この生暖かい液中で目覚めて以降の記憶しか無い。

時折通り過ぎる人影を目で追いながら、空虚なこの身が何者のものであるか、そのような答えの見つかりそうにない問いを幾日か繰り返していた。


そんな停滞した日々は、ふとした切っ掛けにより唐突に破られることとなる。

その日も決まった時間に、こちらを覗き込む顔があった。

白髪で皺の目立つ、実に温厚そうな顔立ちの老人である。口元が長い髭で覆われているものの綺麗に整えられており、かえって清潔感を感じさせる。

実にマメな性格の人物なのだろう。


いつもなら、ここまで頭が回る事もなかった故に、今日の一段と冴えている自分に少し驚きを感じていた。

そんな調子の良い今ならと、虚ろな記憶を辿り直してみる。思い返せばこれまで私を覗き込んでいた人物は、多くの場合この老人だったような気もする。朦朧とした意識による記憶であるからにして、信憑性に欠くが。


いつも通り、その老人はこちらへ微笑みかけて何かを語りかけていた。あいも変わらず私の耳には届いてはいなかったが、その様子が普段と違うような気がした。何処か、心配そうな様子を感じさせる。

老人の真意を掴みかねた私は、ふと、いつも何も返さないのは悪いような気がして、何かリアクションを取ろうと考えた。

しかし、このような試みは初めてである故に、勝手が分からない。取り敢えず、手頃に小さく首をかしげてみることにした。

これまで身動きなどしようとも思わなかった為、全身の筋肉が凝り固まっているが、きっと僅かながらも首は動いたらしい。私の反応を見た老人の表情が一転、明るくなり、跳ねるように即座に走り去っていった。


 暫くして老人が駆け戻ってくると、その手に持っていたものをこちらへ見せるように掲げた。

そこには紙に黒のインクで大きく、こう書いてあった。


- おはよう -


その言葉を目にした事も、耳にした事も無いはずだが、何故か意味を直感的に理解できた。

取り敢えず私は、老人のそのメッセージに応えるように、ゆっくりと頷いて返してみる。これまで無かった私のリアクションに気を良くしたのか、老人は勢い良くスケッチブックのページを捲り、大きな動きで何かを書き込んで行く。


- あすは、きみのたんじょうびだよ -


やはり、その言葉の直接的な情報は分からないが、内包する意味もまた、直感的に感じ取れた。

これから起こる事柄が老人にとって待ち遠しかった事である、という事はよく分かる。

歓喜を隠しきれない老人の表情を、自分なりに真似して微笑み返す。長らく無表情だったためか表情が硬くぎこちなくなってしまっただろうが、老人の顔を見れば、なんとか形になっていたであろう事は分かった。


- いまは、しばらくおやすみ -


老人はその言葉をこちらへ掲げてから、安心してくれとでも言うように微笑むと、私の視界の外へ立ち去っていった。

 暫くすると、周囲を満たす液中へ、少し冷たいものが流れ込んできた。私を浮かべていた液体と混ざり合いながら、蜃気楼のように景色を歪曲させる別の薬液らしきものが注ぎ込まれた。

それを眺めている内、程なくして私の意識は落ちるように途切れていた。



 次に目を覚ました時は、これまでより一層、意識がはっきりとしていた。周囲の光景は今までと変わらないものの、大きな変化があることに気付く。

なんと、私の周囲を満たし浮かべていた液体がすっかりなくなっているのである。

それに加えて、これまで眠っていたも同然と思える程の明確な意識。それらが私に、自らが置かれている状況を仔細に語ってくれた。


私がこれまで居た場所は、人1人大の狭い空間の中だったらしい。

手足は伸ばせるが、自由に動くとは言い難い棺桶のような箱の中。

その箱に充填されていた、私を浮かべていた液体が失われ、今は箱の底へ横たわっている状態。肌に触れる床や壁の感触は、金属故か少し体温を奪われるように感じる。

これまで視覚しか十全に働いていなかった私に、ようやく目覚めた五感の全てが、容赦なく情報を送り込んでくる。

白黒の絵画に、顔料や香料、果ては感触や温度までをも叩き込んだかのような衝撃。

私はこの無機質な身動きも満足に取れない程の狭い空間の中でさえ、これまでとの情報量の差に目が眩んでしまう。


 数多の新たな感覚に圧倒されていた私は、ピー……ピー……と、音が微かに鳴っていることに遅れて気が付いた。

何処から聞こえる音かと見回していると、いつの間にか現れていた老人が、窓にメッセージを掲げていた。


- いまから、ふたをあけるよ -


その言葉を受けて、私は天井から手を離して体を縮めた。すると、プシュッ!と勢いよく空気の抜けるような音と共に、天井が両開きにスライドし開いた。一気に雪崩れ込んできた空気に吹かれ、一瞬だけ肌寒さを感じたが、部屋全体の温度は適温に保たれているようで、それ以上の寒さを感じない。

この狭苦しい空間から早く出ようと、言う事を聞かない体に鞭打って起き上がろうと四苦八苦していると、それより早く床そのものが起き上がってきて私の背を押し、半強制的に座らせた。

「おはよう。そして、ありがとう。君が目覚める日が待ち遠しかったよ」


容器の中で体育座りの体勢の私。それを取り囲み拍手で誕生を祝うのは、年齢、性別、人種様々な人達だ。彼らの唯一の共通点といえば、白衣を羽織っているという点だろう。

その人集りの中央、私から見て正面に、件の老人が立っていた。

「私が分かるかい?」

いつも通りの笑顔を見せる老人。私はなんとか返事をしようと試みたものの「ぅ……ぁ……」と、呻き声が出るばかりで受け答えにならない。

「無理はいけないよ。まだ、身体の感覚に慣れていないようだからね」

語り掛けてくる老人に気を取られていると、誰かが私の肩に大きめのタオルをかけてくれた。振り返ると、ふくよかな白衣の女性がこれまた笑顔を返してくる。

まだ声は出ないけれど、少しでも感謝が伝わるよう私は小さく頷いた。


初めての環境に幾ばくかの警戒心を抱きながら、部屋を一通り見回した。

コンクリート打ちの直方形の部屋。

壁や天井には鈍い光沢のパイプ類が無数に通っており、等間隔に並んだ電灯が無機質に照らしている。床は一面が縞鋼板張りで、本当に灰色と僅かばかりの金属の照りしか無い部屋だ。

私の目覚めた機器は部屋の端の方に設置されていたようで、研究員や老人達の方から振り返ると、目の前に壁が立ち上がっている。

壁際には用途の分からない無数の機器や計器が棚にズラリと並べられており、その狭苦しさに、実際の面積よりも圧迫感を感じさせる。

キョロキョロと落ち着かない様子で部屋中を見回す私の元へ、今度は2名、別の女性達が歩み寄ってきた。

彼女らはまだ話せない私でも分かるように、静かに手を差し伸べてきた。促されるままにその手を取ると、もう一方の手を私の背に回して、力の入らない体を支えながら一気に担ぎ上げられた。


自分の体であるはずなのに、まるで他人のもののようだ。そう、まるで糸引きの操り人形のように、自分が自分ではないような感覚。

これも老人の言う、身体の感覚に慣れていない、と言うことなのだろう。

二人掛かりで私を機械の中から抱え出すと、一人が私の体を支え、もう一人がタオルで薬液を拭き取ってくれた。ひとしきり拭き終わると、いつの間にか用意されていた椅子へ私を預けてから、側に置いてあるカゴを漁って中から衣類を取り出していた。

ただ覆い隠すだけの簡易的な白い衣類。理解が追いつかず成されるがままの私を他所に、二人は手際よくそれを着せてくれた。

私が老人の方へ振り返ると、彼は少しの申し訳なさを孕んだ笑顔を浮かべている。


「すまないね。簡易的なものだけれど、気を悪くしないでくれ。追々、採寸して専用のものを拵えてもらうから、それまでは我慢して欲しい」



 そうこうしていると、部屋に据えられていたデジタル時計が定刻を告げるチャイムを鳴らした。

老人はハッとしたように自身の腕時計を確認し、「そろそろのはずだが……」と小さく呟く。

すると老人の言葉に応えるかのように、ピピピッ!と甲高いアラームが鳴り響き、部屋の入り口に据え付けられたランプが赤く点滅し始めた。


「定刻通りだね。彼だろう?入れてあげなさい」


老人の指示に相槌を打ち、1人の部下らしき男がドアの元まで向かった。ドア横のコンソールを操作すると点滅していた赤いランプが一転、青く点灯する。


「失礼致します。ドクター、お連れしました」


スライド式のドアが開き、そこから1人の男が早歩きで老人の元へ来た。

この場にいる人物とは違い、白衣ではなく制服、それも軍服のような装いだ。一目で男は、この場の者達とは役職が違うのだと分かる。

男は老人へ耳打ちするようになにか要件を伝えると、敬礼をしてすぐに部屋から立ち去っていった。


 老人が軍服の男を見送ると、振り返って椅子に座る私に目線を合わせて優しく声を掛けた。


「これから、とある人物が入室してくることになるが……。君も知っているかもしれない者だよ。けれど、君にとっての良し悪しは我々には計りかねる。些細なことでも良い、何か異変を感じた時は隠そうとせずに表に出して欲しい。私たちは、それをフォローするだけの準備はしているからね」


老人はそう告げると、老人以外の全員を部屋から退出させ、1人残った老人も少し離れた隅に置かれていた椅子に腰掛けた。

続々と部屋を後にする人達を目で追っていた私は、背後から不意に落とされた巨大な影に咄嗟に振り返った。


「久しいな」

「久しぶりだね」


鉄塊? いや、違う。それは鎧だった。私は座っているとはいえ、見上げる程の大きさの。私の背の1.5倍以上はあるだろう。きっと、手を伸ばすどころではなく、直立するだけでこの部屋の天井に頭が触れるほどだ。更に、その高身長に違わぬ肩幅。丸太のような腕と綺麗な逆三角形のシルエット。相当に鍛え込まれているであろう事は、一目で分かる。

その男が纏うのは、不思議な金属で打たれた巨大な鎧。一見、暗灰色ではあるが、光の加減によって青くも見える。

しかし、目を惹くのはそのような、瑣末なことではない。

息を呑むほど、溜息が出るほどに、精巧なその鎧の造形。まるで絵画、或いは伝承の中から飛び出してはそのまま動き回っているかのような、神々しさと禍々しさを併せ持つその姿だ。

兜には見る者を例外なく威圧し畏怖させる、猛々しい双角。

額辺りから狼の上顎のように伸びるフェイスガードは、鼻先から上を完全に覆い隠し、口元以外に表情を読み取る手掛かりがない。

また、恐らく目が位置するであろう場所には亀裂が走っており、一切光を受け付けないその裂け目は、中にある瞳を秘匿している。

全身を余すことなく覆うフルアーマーであり、露出している部分は、見る限り口元のみだ。


身体の前面側は、まるで鱗のような造形の極小のパーツを重ね合わせて造られており、巨視的に眺めると筋骨隆々な体躯のシルエットを成している。

一方で背面はというと、比較的大型のプレートで構成されており、荒々しく無骨。生体的な印象を与える前面とは対照的に、無機質なイメージを持つ。

腰回りを大きく護るスカート部分は、背面の腰部に備わった一対の翼が、体の前面に回されて畳まれているかのようだ。

私の胴より太い四肢。そして、その指先は半ば過剰とも言えるほどの、鋭利な爪のような構造。


見る者の心を挫く威圧的な双角。鍛え抜かれた体躯を表す腹面と、無機質に一切の害意を寄せ付けない甲殻のような背面。折り畳まれ、腰に回して休めた翼。触れただけで、引き裂かれそうな爪。

例えるならば、そう……伝承の中の怪物のような。

まるで竜が成した人の似姿だ。


数多の装飾、圧倒的な威容は遥か遠くからでもしっかりと認識できるのだろう。確かに戦場の士気を上げる旗印としては適任。

しかし、こと戦闘となれば、一分の隙間なく身体の稼動部さえも覆い尽くした鎧は動きを妨げ、双角や翼の造形は四肢の動作に干渉し、指先に備わる凶悪な爪の意匠は武器を持つ事さえ許さないだろう。

儀礼用……?

いや、最早儀礼用として用いようとも、あまりに遊びのないこの鎧では、身動き一つも取れないはず。


しかし、その実、違う。


私の中の何者かが、確信を持ってこう告げている。

『この方ならば、当然だ』と。

思うより先に、身体は動いていた。

椅子から身体を起こすものの、上手く動かない足腰では立ち上がる事もままならず、半ば椅子から滑り落ちるように床にぺたりとヘタリ込む。

それでも強引に足を動かし、鎧の人物の元に傅こうとする。光に縋る羽虫のように、それが本能とでもいうかのように。


「変わらんな。その律儀さは」


頰に冷たい感触を感じて顔を上げると、鎧の人物はしゃがみ込んで、鉄の手を私の頰へ添えていた。

最早、枷といっても過言では無いはずの重厚過ぎる鎧は、主人の身体の一部かのように柔軟に駆動し、一切の行動を阻害していない。

そう、この鉄身も含めて、この方なのだ。


「名は聞かされたか?」


 私は首を横に振る。

私の名前……、問われてみれば、心の何処かで引っかかりがある。しかし、露ほどにも思い出すことはできない。我ながら奇妙な感覚だと思う。


私の返答に鎧の人物が「そうか」と答えるや否や、その影からひょっこりと誰かが顔を覗かせた。


「それなら、私から伝えるよ」


金の髪と吸い込まれるような青い瞳を持つ、私よりも少し小柄な少女だった。少女は私の前に歩み寄ると、私の頭を慈しむように撫で始めた。


「私達の事は分かる?」


当然です。分からないはずがない。これ程、偉大な者を忘れるなど、有ろう筈も御座いません。


そう、声に出れば簡単に伝わるのだろうが、生憎まだ喉が言うことを聞いてくれない。

自分自身と、深くから顔を覗かせる何者かで混濁した意識の中、私が首を縦に振ると「うん、よろしい」と少女も頷いた。


「真名は言わずとも知っているだろうし、省かせてもらうね。私の今の名前は『エル』。コードネームみたいなものだし、気軽に呼んで。そして、こっちが『マグナ』。……良い名前でしょ?私が付けてあげたの」


胸を張るエルを横目に、マグナは口の端に笑みを浮かべた。


「惜しむべくは、マグナだと女性形だと言うことか。あと一歩だったな、エル」

「しっ……!言わなきゃ分からないでしょう?」


エルが小声で急いで取り繕うものの、残念ながら私に全て筒抜けていた。遠い記憶ではあるが、二人共に随分と丸くなったような気がした。


「ま、まぁ。この話は一旦置こうか。それよりも貴女の名前だね。これから貴女の名前は『シオ』。これも、私が考えたんだよね」

「理由は言わずもがな、我々よりお前の方が造詣が深いだろう」


与えられた名に、自分の表情が自然にパァッと明るくなるのを感じた。

成る程、確かに私らしい良い名前を授けて頂いたものだ。心の何処かで、そう感心している私がいた。

感心に足る理由も分からぬままに。


「ぁ……ぃ、が……とぅ……ご、ざ……ま……す」


浮かんだ言葉を何とか絞り出しながら、首を垂れた。再び、頭を撫でられる感覚。


「いいんだよ。それよりも、無事に目覚めてくれてありがとうね」


エルの優しい声と暖かい手。優しい手の感覚に私は言葉を失っていた。



それから時は経ち、一ヶ月。

私は老人とその部下の方達から、様々な教育を受けていた。

教育とは言うものの、朧げな私の知識を辿り直すような作業、と言った方が的を射ているだろう。或いはリハビリが近いのか。

私の感覚では生を受けて一ヶ月。

しかし、意識を持った当時より、学んだことの無い言語に対する識字力があったことを思えば、私は多くを忘れている状態なのだろうと思われる。


座学により基礎的な知識が思い出されてゆくと同時に、身体能力の方も時間が経つごとに戻ってきていた。

最初は歩くにも手摺がなければままならなかったものが、今では軽い運動程度なら思い通りに身体を動かせる程だ。

テニスなどの競技もその一環として行うが、最近は相手になれる職員もいなくなってしまった。


しかし、順調とも言える一ヶ月を過ぎ始めた頃、えもいわれぬ違和感が顔を覗かせるようになってきた。


私の体が本調子に近づくにつれ、次第に不思議な夢を見るようになり始めたのだ。

別段、不快などと言ったものではないが、毎回同じような内容。類似した内容の夢を度々見ることそのものは不思議では無いだろうが、もう一つ、私の胸につかえるものがある。

夢であるにも関わらず、例外無く、仔細にその内容を記憶しているのだ。



それは巨大な何者かの夢だった。

気がつくと周囲を白い霧が閉ざした場所に立っている。一帯には視界が全く通らない程の濃霧が、幽閉でもするかの様に充満していた。

底冷えするような気味の悪い冷気と、霧のせいて湿っぽい空気が呼吸一つでも不安を煽る。

暫くその状況が続いた後、霧は次第に薄れていく。

不意を突くように走る突風一つを皮切りに、一気に視界が開けて遥か先まで澄み切った晴天が広がるのだ。

私が佇んでいたのは何処かの連なる山脈の峰であったことが、ここで初めて分かる。

日が天頂を往き、疎らな雲が蒼天を揺蕩う。

眼下には雲海が広がり、山脈の全容を隠している。


何故、私はこのような場所に立っているのか。

そもそも、この場所は何処なのか。

この1ヶ月弱の期間を同じ部屋で過ごし続けてきた私が知り得るはずの無い場所に、何故、夢の中の私は立っているのか。

夢の中でそのような疑問を覚えた後に、毎回、決まって私は自分の手を見下ろすのだ。


しかし、そこで視界に入るのはまさに異形の手としか言いようのないものだった。

夢の中の私の手は柔軟な肌色の皮膚ではなく、銀色の鱗に覆われ、手の甲や指先には無数の鋭利な結晶が連なっていた。

身体を見下ろせば、様相、組織、骨格に至るまで、全てが人の姿とは程遠く……。


ショックにその場で凍りつく私の視界の隅に、チラチラと何かが映り込んでいることに気付く。目を遣るとそこには結晶に覆われた太い鋼の綱のようなものがあった。

嫌な予感を噛み殺しながら目で辿って行くと、それは恐らく私の腰へと繋がっていた。

そして、それは私の期待を真っ向から裏切り、私の意思で自在に動くのだ。

ここまで現実を突き付けられれば、嫌でも理解せざるを得ない。異形へと変じた自らの体を見下ろし、やり場の無い感情を嘆く声として零す。


天を征く日が傾き、雲海に私の影を落とす。

……バケモノ。

これが私か?


思わず口を衝いた、耳を劈きかねない咆哮。もう、驚きはしなかった。

空気を激震させ、眼下の山肌に雪崩を引き起こす程の衝撃が打ち広がった。


ここで私の夢は覚めるのだ。

僅かな差異はあれど、多くの夢はこれと同じような行動を繰り返す。大きな違いといえば、先に目に留まるのが、尾か翼か、その程度だろう。


なんにせよハッキリとしていることは、この夢は今の私の記憶にない事であるということ。

この夢は記憶の整理としてではない。

言葉にするなら、そう……追憶。

そう形容するのが正しい気がする夢なのだ。


私はこの夢の事がどうしても気になり、老人へ相談をしてみようと思い立った。

話を聞くに、皆から『Dr.ミカミ』と称されるこの老人は、どうやら私やマグナ様達などについて研究をしているとのことらしい。

彼をプロジェクトリーダーとしてこの施設が活動し、更に言えば私自身が生み出されたとのことだとか。

端的に言えば、夢の内容も回数も、記憶の明瞭さも異様だった。そのため、彼に話せば、何か鍵となる情報を知っているかも知れないと頼る事にしたのだ。



「それは……いつ頃からなのかな?」


夢の話を聞いたミカミは怪訝な表情を浮かべ、仕事の手を止めて私の方へ向き直った。


「つい、先週の半ば頃からです」

ミカミは暫く考え込み、小さく独り言を繰り返しながら、部屋の中を歩き回っていた。5分ほどそのまま考え込んだ末、結論が出たのか、パン!と手を叩いて勢い良く振り返った。


「よし、明日にでも敢行しよう」

「何を……ですか?」

「早起きな君の為、出来る限り寝覚めを良くしようとね」


ミカミは笑顔でそう告げながら、部屋を後にした。私は彼の言葉の意味はよく分からない。

しかし、マグナ様やエル様と出会った時の言い得ぬ懐かしさや畏敬の念。有るはずのない知識や記憶など、口に出さなかった謎たちについて知れる切っ掛けとなる。

私はそう確信していたのだった。




翌日 AM11:00


「準備の方はどうかな?」

「もう少々、お時間を」

「そうか、了解したよ」


 昨晩、処方された睡眠薬にて眠りについたシオが目を覚ました。

自室にて眠りについたはずがいつの間にか研究室へ移動されており、そこでは何やら慌ただしく職員が往来していた。

実験室中央の簡易ベッドに、四肢や胴体、頭部等へ電極パッドのような機材を張り付けられた状態でシオは横たわっていた。

機材は何かしらの計器とコードで繋がっているようで、断続的に電子音をたてながら、波形図と数値を更新し続けている。


 シオが計器の推移を呆然と眺めながら、これから何が行われるのか不安に感じていると、突然直ぐそばに何者かの気配を感じた。

降って湧いたかのような気配に首だけ振り返ると、ベッドの横にシオを覗き込むエルの姿があった。

エルは何も言わずに、ただ微笑んでシオの頭を撫でる。

ただそれだけだが不思議と不安が消え、安堵と多幸感を感じる。暫く撫でた後、今度はシオの額へ手を置くと、目を瞑らせるように顔を撫で下ろした。

シオはそれただ従って瞼を下ろす。


「開始します」

研究員がそう告げるとエルは静かにシオから離れて、近くにあった椅子へと腰掛けた。


研究員がシオの横で機器を操作する様子を、ミカミは強化ガラス越しに隣室から眺めていた。

シオへ新たに機材が取り付けられるのを見届けた後、開始の指示を出そうとマイクへ手を掛けた時、別の研究員が駆け寄ってきた。


「申し訳ありません、ドクター」

「ん?どうしたのかな?」

「それが……」

研究員の話を聞いたミカミは一瞬目を見開いた後、「そうか」と呟きながら微笑んだ。

「了解したよ。是非、立ち会ってもらうといい」


「感謝する。ミカミ」

ミカミが承認した時には既に、彼は研究員の背後に立っていた。

「ひ……っ」

背後から聞こえた胸に響くような声と、覆い隠すような大きな影に、研究員は思わず悲鳴を漏らして部屋から逃げるように立ち去っていってしまう。


「よく来たね。マグナ君」

「あぁ」

研究室に横たわるシオを眺めながら、ミカミとマグナは並び立つ。ミカミ達にコーヒーが手渡されると、研究室へと開始の合図が通された。


「神格の覚醒、融合……だったな」

「ふぅ……。あぁ、そうだ。成功することを祈っているよ」

ミカミがコーヒーに口をつけると、マグナも真似るようにカップを傾けた。

屋内、況してや研究室室内であるにも関わらず全身に鎧を着込んだままのマグナ。唯一露出している口元もフェイスガードによって、鼻先まで覆われている。しかし、それでも兜は外さずに器用にコーヒーを飲んでみせた。

「成功確率はどれほどだ」

「そうだね……。楽観的に見積もって五分五分といったところかな」

「そうか」


研究室内に乳白色の光が蛍のように漂い始める。

職員はそこで役目を終えたのか、研究室から総員退避した。


乳白色の光の源泉はどうやら、シオの枕元にある一際大きな機器。それには透明な筒状のカートリッジが嵌め込まれており、その中で浮遊する何かの破片が光の出所のようだ。

別段、光を受けているでもなく、その破片は自発的に光を放ちながら筒の中で揺蕩っている。

手の内に収まってしまう程の小片であるが、ある種の神々しささえ感じる。


部屋内を満たす乳白色の光に呼応するように、今度はシオの体からも、淡く青みを帯びた銀色の光が立ち昇り始めた。


「シオ君に本来在るべきだった精神。それを今から呼び覚ます。そして、今の人間としてのシオ君の人格へ融和させるのだよ」

「それに一体、何の意味がある。初めから元の精神を与えれば、即戦力にもなるだろう」

「マグナ君。理由を知ってて聞いているね?」

「どうだかな」


 ミカミは深く深呼吸を一つして、遠くを見るような目で語り出した。なにか、ここには無い別のものに想いを馳せているかのように。


「君達の本来の精神はあまりにも強すぎる。人の身に余る程に。だから、人としての人格を確立させ、それを錨として繋ぎ止めるのだよ。人と神とをね」


「ほう、私達の力は人の身に余る。だからといって、本来の体躯を与えれば、今度は人の手に余る。苦肉の策として人の体という枷を科し、人格に心の手綱を引かせる事で御し易くする、という訳か」


「ははっ、君は意地悪だ。けれど、否定はしないよ。我々は、己の愚行は目を逸らしてはならない。これが全人類を利用した自作自演だとしても、君達を犠牲にしている事に変わりはないからね」


シオの胸部から、破片の光と同じ乳白色の光球が浮かび上がってきた。それは暫くすると光の束となって、解けるように宙に溶けていった。



「今、シオ君から出てきた光の玉がこそが、本来のシオ君の精神を縛っていた枷だ。ただ、いくら『神の王の力』によって施した枷とはいえ、完全に封じる事は難しかったようだけれどね」


「そうだな。人間としてのシオとの初対面の際にも、私にとって既知であるような感覚を覚えた。そして、その後に会話して分かった。彼女の本来の精神は抑え切れてなどいなかった。言うなれば微睡みか。自らコンタクトを取る事はしないが、こちらから問い掛ければ応えはする」


「やはり、君達は分かっていたんだね。……まぁ、ともかくここまで漕ぎ着けて良かったよ」



 淡く安堵を含んだ表情で、未だ目覚めぬシオを見遣った。寝返り1つせずに死んだかのように眠る彼女だが、一定周期で呼吸に合わせて胸が上下しているのを見る限り、容体は安定しているらしい。


「成功したのか?」

「枷を外して、一段落だ。後は、意識レベルが回復した際に暴走しないかどうか……だね」


研究室の中に、いつの間にかエルの姿が見当たらない。気がつくとマグナとミカミの間に立って二人を見上げていた。

その表情はどこか安堵の色が窺える。


「シオちゃんとあの子の精神は一応、繋がったみたいだね。……ただ、マグナの時ほど聞き分けは良くないみたいだ。前二人の悪ガキ具合までじゃないけれど、ある程度は気をつけとかないとね」


「……こればかりは、人の身である私には見通せんよ、マグナ君」

 ミカミがコーヒーを飲み干した。

それを見たエルはマグナの飲みかけのものを取り上げると、一気飲みして顔を渋らせた。


「なんでブラック……」

「飲まなければ良いものを」




「さて、話は変わるが」


 ミカミは目の前のディスプレイに流れている情報を閲覧しながら、視線をよこさずにマグナへ声をかける。


「私は研究室長兼所長だから多少の無理は通せるけれど、君の立会いは追々、誤魔化しが大変そうだ。……そこでだよ。君に少し聞きたいことがあるんだがね」


作業の手を止めて振り向いたミカミは、悪戯好きな少年のように好奇心に満ち満ちた顔で笑う。その目は老齢の身には、不釣り合いなほどに好奇に輝いていた。

それを見たマグナが、小さく溜息を吐きながら軽く首を振った。仕草の端々から諦観が見え隠れする。

「全く抜け目のない。端からそれが目的だったか」

「はははっ!なんのことだろうね?」


「まぁ、シオ君が起きるまでの間だけで良いよ。それに、都合が悪ければ答えなくても良いさ」

ミカミは部下に手渡された資料とディスプレイとを見比べながら、タッチパネルを叩き続けている。しかし、マグナへの意識も緩むことなく向いている。


「君のその姿について知りたいんだ」

「……私の姿については、貴様達人間の方が良く知っているだろう」

「あぁ、鋼の体躯の『鉄の王』。しかし、私が知りたいのはそんなお伽話じゃないんだ。君が頑なに鎧を外さない理由だよ」

その問いにマグナは僅かに身動ぎを見せた。なんとか有耶無耶にはぐらかそうとするものの、それが見逃されることはないらしい。

ミカミがタッチパネルをスワイプすると、マグナ達の目前の中空へ、マグナ出生時のレポートが投影された。

それを一通り眺めてから、マグナは溜息交じりに「ここに来たのは間違いだったな……」と零した。しかし、その様子を見上げるようにして覗き込むエルは、喜劇でも見ているかのようにニタニタと笑っている。


「君が培養槽の中にいた頃から今日に至るまで……、ありとあらゆる記録に君の顔の記録が無く、更に我々が提供していないにも関わらず、何処からか調達した鎧を纏っている。同時に培養槽とその周辺の設備の腐食が、大幅に進行していた。腐食した金属類の行き先は……?在ろうことか君が当時纏っていた鎧と、失われた金属類の構成が近似している」


「合金の構成など、用途によって大幅に絞られる。剛性と耐食性に優れたこの研究室の金属と、私の求めた鎧の性能が偶然にも一致しただけだろう」

偶然で押し切ろうとするマグナに、ミカミは好奇心溢れる少年のような瞳で詰め寄った。

「更にだよ。不思議なことに、君が鎧を纏っていなかった唯一の期間……、人造の君の体がゼロから構成されて行く工程においても、君の顔の記録が無い」


ミカミの純真な、それでいて獲物を追い詰めるような目に口を噤むマグナ。その横に立っているエルは笑い混じりでマグナの肩を叩いた。

「ふふふっ……!ドクターミカミってば、面白い考察をするね」


「いいだろう?袖の下というやつさ、マグナ君!私は性欲や物欲なんかより、知識欲に目がないんだ」


 シオの様子を見にきたのはマグナの意思であり、その事について面倒事も多少ある事は承知している。それを背負う代わりに秘密を明かせと迫るDr.ミカミ。

この調子では首だけになっても噛み付いてくるだろうと観念し、遂にマグナは溜息混じりに口を開いた。


「私の顔は貴様らには見えない」

「どういうことかな?」


「この顔について正しく言うなれば、『理の外にいる者』或いは『私と等しい者』のみが認識できる。どちらにも該当しない者達は、私の兜を剥ごうとも顔を認識できない」


マグナ自らが語る顔の事について、ミカミは好奇心が抑えきれないようだ。目線はマグナの顔の方に向けられてはいるが、真摯に話を聞いているというより、兜の中身ばかりが気になっているらしい。


「口で説明しても仕方がない。一度見れば、嫌でも納得するだろう」

 マグナがそう言うや否や、独りでに兜のフェイスガードがガチャリと音を立てた。それに呼応するように、次々とパーツが外れるような音が連鎖してゆく。

よく見てみると、猛々しい竜の顔を模した兜が、パーツの一つ一つに分解して宙に浮いている。大きいものは雄々しい双角から、小さいものは鱗を模したミリ単位のパーツまで。それも、数えようとすら思えない程の膨大な数にだ。

それら全てが誰の手を借りることもなくバラバラに分解し、宙に浮き上がって再び集結してゆく。

宙で寄り集まったパーツ群が再び組み合わさり、元の兜の形へと復元された。

すると、突然に糸が切れたかのように落下し、マグナの手で受け止められた。

その光景に目を奪われていたミカミへ、マグナは「どうした?お望みの私の素顔だ」と声を掛ける。

名を呼ばれて、はっとしたミカミがマグナの手の上の兜から顔へ向き直る。すると、そこでは摩訶不思議な現象が起こっていた。


「なんと……これは」

思わず、口からそんな言葉が零れだす。

今、確かにマグナは兜を自ら外した。その過程は自らの目で確認し、現に兜はマグナ自身の手の中にある。

マグナは兜をしていない。それは分かる。首から上が完全に露出している事も確信を持って頷ける。

しかし、顔が分からない。

きっと、理解の範疇を超えているどころの話ではなく……強いて言葉にするなら、理解する資格がない。そう形容するのが最も真実に近しいだろうとも思えた。まるで、マグナの顔に関する情報だけが、記憶の網に一切かかる事なく流れ落ちているかのようだ。

「充分だろう」

呆気にとられるミカミは、マグナの声で現実まで引き戻された。

手に持っていた兜を頭へ近付けると、兜は再び細かく解けて、自らの所定の位置まで移動して元の形に組み直された。

あれだけ複雑な動作を挟んだにも関わらず、寸分の狂いもなく元の形状に戻って、マグナの頭を覆っている。


「人が思い描いた、人の及べない域というものだ。諦めることだな」

淡々とそう言い残して、固まるミカミに背を向ける。小さく寝息を立てるシオを見遣ってから、マグナは部屋を立ち去ろうとした。



 その時だった。


 シオのベッドの横でディスプレイを眺めていた研究員の表情が一気に変わり、こちらへ振り返りながらインカムに話しかける。

「ドクター!コードネーム・シオの脳波レベルが上昇しています。覚醒です!」


「む、予想より恐ろしく早いな……」


焦りと期待、興奮の混じるその声から、彼らがシオへどれだけの労力をかけたのかがよく分かる。

報われるかもわからぬ努力が、後一手で結実するのだ。期待しないほうがおかしいと言える。


そんな嬉々とした研究員のメッセージを聞いたマグナは、足を止め踵を返すとミカミの横へ戻り、シオの眠る実験室へ注目した。

先程まで静かに眠っていたシオは、何処か寝苦しそうに顔をしかめて、軽く体を捩っている。

確かに、目覚めは近いらしい。


「マグナ君、いよいよだ。彼女の寝起きが良ければ、全行程終了となる」

「そうか。こればかりは祈るしか無いのだろう?」

「君の口から祈るなんて言葉が出てくるとはね。最も縁遠い性格だと思っていたよ」

「そうだな。祈りは諦観も同然だ。そんな暇があるなら、1つでも可能性を模索する方が効率的だ。……多くの場合はな」

「その通りさ。そして、その上で祈ろう」

「あぁ」



「んん……」

覚醒の予兆が始まって10分程、シオが僅かに眉を顰め、大きな身動きを見せた。大分、意識が表層近くまで上がってきているのだろう。実験室用の硬いベッドに体を拘束されているのでは、寝心地が良いはずがない。

ミカミは固唾を飲んだ。


ある者は素体に生命が宿らなかった。

ある者は心が芽生えることがなかった。

ある者は心の枷に耐え切れなかった。

ある者は枷から解き放った精神が圧壊した。


気の遠くなるほどの失敗の数々。

積み重ねた犠牲に、積み重なった罪悪感。

この時を如何に待ち続けたことか。

ミカミはただ静かに、今まさに目覚めんとする彼女を静観する。広く知られる神話にて彼女を形容した文を、心の中で何度も追いながら。


最も美しき者。

何より人の心を惹きつけ、惑わし、狂わせる者。多くの者へ栄華を与え、そして、彼らの身を亡ぼした者。

ヒトが人である以上は逃れられない者。






「ん……。……っ?!あ、あああああああ!!!」

湖面のように静かだったシオが、突如、目を見開き奇声を上げ始めた。

折れてしまうのでは無いかと思うほどに体を反り返らせ、頭をメトロノームのように激しく振ってベッドの上で暴れ始めた。制御から外れ掛けた彼女の力に、ベッドと繋ぎ止める拘束ベルトが軋みを上げて、鈍色の鎖が変形し千切れかけている。


「まずい!総員、速やかに退避するんだ!!」

普段の物静かなミカミと同一人物とは思えない程の張り詰めた声と、目の前で起きている異様な状況に、実験室にいた研究員達が我先にと逃げ出してゆく。

しかし、人数に対して出入り口の数は1つ。更に1人づつ通るのがやっとの幅。同然、背後から先に先にと押し寄せては、通れるものもかえって通れず輻輳してしまっている。


「何が起きている。ミカミ」

「暴走だ!やはり、覚醒には早過ぎたのかっ……! 彼女の精神がもう一方の精神を繋ぎ止めきれなかったんだ!結果を焦るあまり、人格形成が不十分だったのか?!」

「そうか……」


まだ避難し切れない人員の残る実験室内に、チラチラと光を乱反射する何かが宙を漂い始めた。その光が現れるのと同時に、シオの髪が紺色から青みを帯びた銀色へ変わり、限界以上に見開いていた瞳は銀に輝き始めた。

出入口で立ち往生する者の幾人かは、死を悟ったかのように大人しく光に見入る者さえいる。


それを目の当たりにしたマグナ達は、反射的に体が動いていた。元いた場所からマグナとエルの2人の姿が突如として消える。

慌てて2人を探すミカミの視界は、そこまでで一旦途切れた。下からせり上がった黒い何かに覆われてしまい、一切の視覚が遮断されてしまっていた。


バシャァアンッ!と、何か硬質な物が砕け散るような音が響いた。あまりの大音量に耳を塞がざるを得ない程に。

肌で感じられる程に空気を震わした高音が収まるのを見計らって、恐る恐る耳から手を離す。一瞬耳にしただけでも、一時的に難聴を発症している。耳の保護がいくらか遅れてしまっていれば、それこそ聴覚を破壊されかねなかっただろう。

ミカミは大きく息を吸って落ち着いてから、激変した現状を整理して行く。


シオの2つの精神を繋げるところまでは成功。その後に実際に合わさった心が目を覚ます際に暴走してしまった。この峠を越えれば成功であったのに、非常に悔やまれる結果だ。


次に目の前の黒い壁について。

撫でてみたところ、粒度の高いヤスリのような荒い触感をしている。非常に硬質で、押し引き程度ではビクともしない。

少し離れて全体像を確認すると、それはまるで手の彫像ような形状をしていた。

まるで巨人の手。ただし、その手はヒトのそれとは明らかに異なり、鋭利な爪や棘、鱗のようなものが確認できる。

その手首が床面から飛び出し、ミカミを包み込むように拳を半ば優しく軽く閉じているのだ。

それが何で、誰の手によるものなのかはすぐに分かった。

マグナの作り出した鉄の腕だ。

地面から飛び出した、巨人のような鉄の腕がシオの起こした暴走から守ってくれたのだ。


鉄腕の指の間から向こうを覗き込むと、研究室全体が結晶により、晶洞のように覆われていた。縦横無尽に突出した結晶はベッドや機材、果ては壁をも易々と貫いている。

しかしながら、現場にいた研究員達は例外無く、マグナの鉄腕に守られているらしい。結晶に遮られ様子は視認出来ないものの、焦燥しきった話し声が聞こえてきた。


 研究員達の無事を悟り一先ず安堵したミカミは、事の渦中のシオと姿を眩ませていた2人の方へと目を向ける。

鉄腕の隙間から、ベッドの上に横たわるシオと、その脇で心配するかのように見下ろすマグナが見えた。

未だ苦痛に悶え呻くシオの頬へマグナが手を添え、丁重ながらも強制的に顔を自分の方へ向かせる。


不気味な程に内部へ光が差し込まず、洞々たる闇に閉ざされて表情の窺い知れないマグナの兜。その目があるであろう位置に走る、切り裂かれたような亀裂から光が溢れていた。

それはまるで、星のない夜空にただ1人で浮かぶ金の月。

一切の光を拒絶する兜の内から、マグナの金色の瞳が光を湛えて覗いていた。

それは彼が、力を行使している証でもある。

対するシオも、その金の瞳に感応するように、瞳の帯びる銀の光が強まった。それと同時に、まるで瞳孔が爬虫類のそれのように縦長に開いた。


「私が分かるか」


 もの静かにマグナが問い掛ける。

すると、先程まで苦悶していた事が嘘だったかのように、シオは落ち着きを取り戻した。しかし、その身に纏う雰囲気は彼女のものとは程遠く、何処か得体の知れない何者かの様相を帯びている。


「あぁ……あぁ。貴方様は……、間違えようも御座いません」


マグナの問いに、まるで2人分の声が重なっているかのような奇怪な話し声でシオは返した。

現在の寝かされた姿勢に気付いたシオが、急いで上体を起こそうとする。しかし、両手首の拘束具がそれを引き留めた。それを冷淡な目で流し見ると、助走を付けるよう僅かに手を引いてから、一息に引き千切って、ゆっくりと体を起こした。


「久しいな。また、私と共に来てくれるか」

「御心のままに」

「そうか」


マグナとの受け応えを見せた直後、ダイアモンドダストのように空間中をチラチラと舞っていた結晶片が、シオの身体へ一気に寄り集まって四肢を覆った。それを確認したマグナは、すぐに制止するようシオへ掌を向ける。


「お前の、その心の傍に……由無い小人が居るだろう」

マグナの言葉に目を丸くして驚くシオ。しかし、表情はすぐに先程までの澄ましたものに戻った。

「何故、その事を……?ですが、どうか御安心を。すぐにでも搔き消してみせましょう」

強い意志を感じさせる口調でそう言い切ったシオに、マグナはただ静かに首を横に振った。


「その者に手を貸せ。お前が出るにはその身体は余りに矮小だ。それまで、小人に力を託すがいい。お前の忠誠はその程度で揺らぐものでもないだろう」


シオはマグナの言葉を黙って聞き届け、それから徐に頷いた。マグナに向けられた真っ直ぐな視線には揺るぎない自信と、確固たる意志が滲んでいる。

「承知致しました。どのような形であれ、忠誠は必ずや果たします」



 そこまで言葉を紡ぎ終わると、シオの髪が蒼銀から元来の深い紺色へと戻って行く。それに伴って、空気中に漂っていた結晶片はどこへとも無く姿を消し、シオの瞳が帯びていた銀の光は鳴りを潜めた。

シオが支えを失ったかのように前のめりに倒れ込んで行くのを、マグナは咄嗟に支えた。

目は開いており意識もあるようだが、険しい表情に玉のような脂汗を浮かべ、息を切らしている。

一瞬とはいえ本来の意識が表層に出てくるのは、まだシオにとって負担が大き過ぎるようだ。

ただ、不幸中の幸いか。シオの心や身体が壊れずにいた事は喜ぶべきだろう。

本来の精神を船とすれば、シオの精神は岸と船を繋ぎ止める綱。しかし、その綱は余りにか細く、最早、糸と呼んでも差支え無い。

しかし、到底耐えられるはずもないその糸が船を係留できたのは、マグナが船を引き留めた故か。

その事を居合わせた全員が確信していた。何故なら、こうなる事を予測していた為に。


シオは差し伸べられたマグナの腕に体重を預けるようにへたり込む。その横にしゃがみ込んだエルが、ゆっくりとシオの頭を撫でて微笑んだ。

「頑張ったね、シオ。暫くはゆっくりお休み」

頭を撫でていた手をスライドさせ、ゆっくりと顔を撫で下ろして行く。すると、その手に逆らう事なく瞼は閉じられ、シオは静かな寝息を立て始めた。

先程までの苦しみようがまるで夢だったかのように、今は安らかな表情を浮かべている。


 静かに眠るシオをゆっくりと寝かせながら、マグナが小さく息を吐く。その機微が何処かに引っかかったエルが首を傾げた。

「マグナ、どうかしたの?」

不思議そうな表情を浮かべるエルに、マグナはシオを眺めたままで応える。

「出来る事なら、彼女まで巻き込みたくはなかった」

「でも、シオちゃんを見捨てる事もしなかった。貴方は優しいよ」

「……いいや、私はまた彼女に犠牲を背負う道を示してしまった。彼女にとって、この場で消失する方が幸福だったろうと言うのに」


エルの言葉に、マグナは首を横に振った。そんな晴れない様子の彼の手を、エルが下から引っ張った。何をして欲しいか察したマグナが、その場でしゃがみ込む。すると、エルはマグナの前へ歩み寄り、慈しむようにその頬を撫でた。

「それでも、貴方は正しい。それに……この子にとって何が幸福か、そんな事誰にも分からないさ。……この子の世界は、この子にしか見えないんだから」

「あぁ、そうだな」

エルの言葉に少し心が軽くなったか、俯き気味だったマグナの口元が少し和らいだように見えた。

「これで最後にせねば」

その言葉に何処か、悲しみのようなものが滲んでいるようで。そんなマグナを見ていられず、エルは少しだけ表情を曇らせて目を逸らした。

「……あと2人。だけど、この2人は巻き込んじゃいけない」

「だが、誕生を避ける事も難しいだろう」

「そうだね……。それまでに、私達で終わらせるしかない」


それこそが責務。

語らずとも共通認識として、2人は胸に刻む。

力を持つ者の為すべきことだと。

どの者の手に依っても良い。全てを治める。いや、全てが治まらねばならない。

破滅を避け、後世に世界を残す為に。


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