ラストシーン
@nikoyama
本文
その日は卒業式の前日で男の子は放課後、人気の少ない教室に残り机の上に腰をかけていた。いつも学校から早く帰ってしまう男の子にとって、それは珍しいことだった。教室には男の子の他に短い髪をワックスで固めた友達と、薄茶色の髪の毛を後ろで丁寧に結った女の子の二人がいた。窓の外では冬の薄寒い風が吹いていてしかし、心なしか教室に差し込む陽の光は以前よりも柔らかい色を帯びているように思えた。校門から校舎にかけては桜が道沿いに植えられているが彼らが花を咲かせるにはまだ少し早いだろう。それでも冬は確実に終わりに近づいていて、目を凝らせばあちらこちらに春の萌芽が芽生え始めていることに気がつく、そんな日の午後のことだった。三人は静まりかえった教室の中で高校生の間にありふれているような事柄をありふれた様相で話していた。もっとも三人の口調にはいつにも増して感慨のようなものが少し余分に含まれてはいたが体裁上はどこにでもある話だった。男の子とその友達、男の子と女の子が二人で話すことはよくあることだったが三人でこうして一様に話すことは意外にも少なかった。言葉では説明できない思慮がひょっとしたらそこにはあったのかもしれない。しばらくして男の子の友達は後輩に渡さなければいけないものがあると言って教室を出ていった。それはいかにも出来すぎたタイミングだったが、端正な顔立ちの彼は実際に後輩の女子たちの間でも人気があったからあるいは本当のことだったのかもしれない。彼は男の子とは違って誰にでもよくモテるタイプの人間だった。彼がいなくなって静かな教室に残されたのは男の子と女の子の二人だけだった。二人は突然のことに驚いて沈黙するより他になく、ただ二人分の呼吸音だけが教室の中に響いた。きっかけがあれば流れるように会話の進む二人でもきっかけがなければ話すことができなかった。静まりかえった廊下、真っ黒な黒板、綺麗に並べられた椅子と机、窓から差し込む夕日、偶然に二人きりとなった男女。それは側から見れば絵に描いたように神聖で純粋な光景のはずだった。男の子は遥か昔に忘れてきてしまったようなときめきを密かに感じてはいたが同時にそれが好きという一言に昇華することは決してないということを良く理解してた。女の子は初めて二人が喋った日を思い出し、その時は夢にまで見たような景色が今あることを感じ、しかしそれは触れるものではないのだと冷静な頭で考えている。二人は恋という言葉が似合うほど盲目ではなかったが、適当な言葉でその場を取り繕えるだけの関係でもなかった。男の子と女の子は二人揃って、偶然にも生まれたこの状況でお互いにかけるべき言葉を探している。何かを話さなければという思いが二人の中で風船のようにゆっくりと膨らんでいき、結局先に口を開いたのは女の子だった。
「私、明日の卒業式の後、ロビーのとこで弾き語りをするんだ」
女の子の声は中途半端に上ずり、そして少し震えていた。それは触れてはいけないものに触れないようにした結果だったがあまりにそれを綺麗に避けようとしたせいか、かえって避けた思いの輪郭を明確にしてしまっていた。男の子がそのことに気がついたのかどうかはわからない。
「へぇ、そうなんだ」
男の子は男の子で女の子のことをなるべく見ないようにしながらかしこまった口調でそう返す。まるでロボット同士に会話をさせているようなぎこちなさだった。それでもこういう類の会話が世間にあふれているのは、渦中にいる二人は何かを考える余裕などないからで、彼らにしてみればそれは繊細な作業の結晶でもあるのであった。
「君は来なくていいからね。来てもらっても困るから」
女の子にとってこれは半分本音でありしかし半分は嘘だった。女の子は少し苦しそうにこの言葉を口にしたがなぜ苦しそうだったのかは誰にもわからない。男の子はそっかと呟きそれから少し間を開けて、今までありがとねと口に出そうとしたが思い留めることにした。教室には相変わらず二人分の空気だけが漂っていて男の子の友達はまだ帰ってきそうにない。女の子は会えて良かったということを言おうとは思ったが、これは言うべきではないと思い直した。どこまでが口にしても引き返すことのできる範囲なのか長くて短い二人の時間のなかで女の子は身に染みて理解していた。女の子はしばらく足元を見つめてから少し顔を上げて口を開く。
「サラバ青春っていう曲をやるの。君はどうせ知らないだろうけど結構いい曲なんだよ。ねぇ君も」
途中でやめたのはやはりこの後は口に出さない方がいいと思ったからだった。女の子はこう続けるつもりだった。ねぇ君も音楽くらい聴きなよ。
「そうなんだ」
男の子は女の子と同じくらい苦しい様子で答えたがなぜ苦しいのかはやはり誰にもわからない。男の子は言わなければいけない言葉があるような気がしていたがそれは同時に決して口にしてはいけない禁断の言葉のようでもあった。それに男の子はその言葉を言う資格をはるか昔に無くしてしまっていた。女の子は歌う予定の曲の名前を口に出してしまったのは間違いだったと考えていた。 この曲を選んだ理由を女の子は上手く説明することができない。しかし純粋な気持ちでこの曲を歌うにはあまりにも男の子と女の子の関係は複雑すぎた。男の子がもし歌詞を調べて誤解をしてくれたらとも思ったがそんなことは無さそうだし、誤解もやはりされたくないと思った。自分が好きな歌を自分のために歌う、それだけでいいのだと女の子は思いたかった。男の子は目の前の女の子を見つめて何か言葉をかけようとしたが、かけることのできるものは何一つとして見つからなかった。二人が出会った当初、そして記憶となったどうでもいいような毎日に二人がどんな会話をして笑い合っていたのかを思い出そうとしたが、それは無理な話だった。男の子はそれを毎日忘れようとして生きてきたのだった。思い出ができるたびに男の子はそれを消去しようとしてきた。だからか頭に残っているのは具体的な事実を抜きにした漠然とした柔らかな感情だけだった。その時その時に感じた思いだけはついに消し方がわからなかった。女の子は男の子と教室の空気感を前に、今日この日のこの瞬間を忘れることは一生ないのだろうと思った。男の子はこの瞬間をいつかきっと後悔する日が来るのだろうと思ったがそれと同時に自分にできることはこれしかないのだと知らない誰かに説明をした。そうしている間にも二人の最後の時間はゆったりと流れていって、やがて終わりを告げる足跡が廊下の方からひたひたと近づいてくる。ゆっくりと着実に足音は教室まで近づいてきて一瞬の間の後に扉が開いた。
「うっす。そろそろ帰る?どうする?」
「帰るか」
男の子は机にかけたままだった鞄を肩にかける。なるべく自然に鞄をかけるように男の子は意識しなければいけなかった。全てが物語のように誰かによって描写されている、そんな気がしたからだった。男の子は教室を出る前に一度後ろを振り返ってみる。女の子がこちらを見上げてる。
「ねぇ、」
やはり言葉は続かない。それでも全身の力を振り絞って言葉を続けなければいけない。
「バイバイ」
女の子がまたねと手を振ったのを見て、それから男の子は教室の扉を閉めると友達と一緒に廊下を歩き始め教室を離れて行った。バイバイと言った時は心がすっと軽くなったがそれは小さい頃、泣き喚いた挙句に涙が枯れた時に経験したような胸が浮く感覚に近くて、心の中で何かが破れる音がした。この傷を一生背負っていこうと決め、その心境だけでなんとか歩みを進めた。校舎を出て冷えた冬の風に吹かれながら友達と並んで男の子は歩いていく。校門まで植えられた桜の木が美しい花をつけ、そのうちに風に吹かれて散っていくのは少し遠い未来の話に思えた。うっすらと桜色に染まった茶色い幹を眺めながら男の子は学校を後にした。咲くことがなければ散ることもないのは当たり前の話だった。女の子は教室に残されていた。目には涙が浮かんでいたがそれがこぼれ落ちるより前に 女の子は弾かれたようにすっと立ち上がり軽く伸びをし、よしと小さく声を出した。二人の運命の星の下では出来過ぎなほどに綺麗な終わり方だと思った。明日、今よりも賑わいを増した教室の中で二人きりで話す機会はもうないだろう。これで正真正銘二人の最後の時間は終わりだった。荷物をまとめてそれから部室に顔を出してギターを弾こうと思った。きっと明日男の子が来ることはないけれど、自分のために良い歌を歌わなければいけないと思う。それにそうでもしなければ女の子は泣いてしまいそうだった。
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