月とレンズ

いいの すけこ

Fly Me To The Moon

 痛みはやまない。

 重たい頭を抱えて、私は帰り道を急ぐ。ここ数日、ずっと頭痛に悩まされていた。とりついた痛みは頭からなかなか離れず、怠さが体を支配する。

 原因はわかっている。

 多分、高校に入学したから。

 新しい環境に身を置くたびに、私は弱る。

 お母さんは『どうしてこんなに繊細に育っちゃったかね』と力なく笑った。責めているのではなく、労りなのだろうけれど。新生活に馴染めず弱っては、母を困らせるのはやるせなかったし。困ってるのは何より私自身だし。どうしてかだって私が一番知りたい。

 痛みに脈打つ頭は血が上っているのか、引いているのかもわからない。熱いような寒いような、でたらめにかき乱れる体の内側から、吐き気までこみ上げた。

 目がかすむ。


 眼鏡、作りにいかなくちゃ。

 今、視界がぼやけるのは体調のせい。だけど中学入学時から三年間、無理やり使い続けた眼鏡は度が合わなくなっていた。フレームは歪んでいるし、レンズのコーティングもはがれて傷だらけだ。

(でも、眼鏡作るのしんどいな)

 私は検眼と新しい眼鏡が大嫌いだった。

 視力測定に使う検眼フレーム。眼鏡をものすごくごつくしたようなもので、特殊な構造のそれに検眼レンズをはめて見え方を確認する。

 検眼フレームは重たくて、かけていると気分が悪くなってくる。そこに一枚、二枚と何枚もレンズを抜き差しされて『さっきのと今のと、どっちが見えやすいですか』『これ、はっきり見える?』だとか、いっぱい質問をされるのだ。正しい視力測定のためには必要なのだろうけれど、重たい頭で色々な判断を迫られるとわけが解らなくなってしまう。

 そうしてだんだん、その場しのぎみたいな感覚で測定を進めて。そのまま、本当に自分の視力にぴったりなのかわからないまま眼鏡が出来上がる。

 新しい眼鏡は、顔に馴染むまで時間がかかるのだ。新品は緩みもがたつきもないから顔を締め付けられるし、度数も進んだからなおのこと頭が痛くなる。


 さすがに、今ほどじゃないけど。

 薬を飲んだのに。

 消えない痛みに、もっと強い薬をくださいと誰にでもなく心の中で訴える。

 もっと強くなれるものを。楽になるお薬でもいい。

(しんどいよう)

 歩道脇に寄ってしゃがみこんだ。人通りの少ない路地だから道をふさいでも迷惑にならないだろうけれど、立ち止まってくれる人もいない。心配されるのも苦しいからそれでいいし、だけど助けも求められない。だいたい、求めてどうする。自分のことは自分で何とかするしかないのに。


「眼鏡が合ってないね」

 頭上から声がした。通りすがりの誰か。通行の邪魔ならばどかなくちゃと思うのに、体は思うように動かない。だからゆっくり頭だけを上げて、相手を確認する。

「眼鏡、変えたほうがいいよ」

 若い男の人。

 穏やかな笑みが、レンズ越しに見えた。

 月みたい、と思う。

 (まんまる)

 その人も眼鏡をかけていた。小さなレンズが二つ、細い銀色のフレームで囲まれている。レンズは真円で、満月が並んでいるみたいだった。

 いいなあ、こういうの。

 この前覗いた眼鏡屋さんは、縁の太いセルフレームばかりだった。あれは主張が強すぎると思う。黒や茶色の地味なフレームは、ただでさえ冴えない顔を覆い隠すようだし。かといって赤や黄色だなんて、明るさが空回りしているような恥ずかしさがあった。あくまで、私に似合わないという話だけど。

 今の私の眼鏡はお母さんに選んでもらったものだから、自分に似合う眼鏡を自力で探せる気もしない。

 この人みたいな眼鏡も、私には似合わない。

 丸眼鏡は特徴的だから、人を選ぶ気がする。

 この人はとても似合っている。まあるい銀の縁が控えめに光って、それも月を思わせた。月が似合う綺麗な人だと、そんなことを考えた。


「いらっしゃい。見てあげる」

 そう言うと、丸眼鏡さんは私の腕をそっと引いた。

 見てあげる、体の具合を?

 お医者さんでもないだろうに、あれ、これ大丈夫なやつだろうか。

 鈍い頭では判断が追い付かないまま立たされて、そのまま導かれる。

 住宅街、その細い路地の奥。古いおうちに挟まれるようにして、その建物はあった。

 臙脂色の布がかかった庇がついた、小さな建物。正面右手にある入り口は木製のドアで、格子みたいなアイアン飾りがついている。アンティーク風なのかもしれないけれど、本当にちょっと古い感じがした。

(お店かな)

 大きな一枚硝子の窓が嵌まっているけれど、それには金色の文字でロゴか何かが書かれていた。中を伺い見るより先に、その文字が目に飛び込んでくる。経年でくすんでしまったような色合いの金文字を読もうとするけれど、何語かよく分からない不思議な文字――模様のようにも見えるけれど、レイアウトからして文字だと思う――で、全く意味がつかめなかった。


「どうぞ」

 丸眼鏡さんは入口ドアを開けて促した。接客の基本なんだろうけれど、紳士だ、と感じる綺麗な所作だった。

「……わあ」

 思わず感嘆の声をあげる。

 お店のなかが、きらきらしていたから。

 何がこんなに。アクセサリーとか、硝子細工とか置いてあるんだろうか。

 窓際の陳列台らしきものに目をやる。

 これも臙脂色の、宝石箱の内張りに使われているような、綺麗な布地で保護した箱が置かれていて。

 その上に、きらきらが並べてあった。


「レンズ」

 思わず口にした。

 ずらりと並んだ丸いレンズ。検眼用に使うものと同じく金属のフレームに縁取られていて、小さなつまみのようなでっぱりには視力を示す数字が刻まれている。

 レンズは室内の柔らかい照明の光を受けて輝き、工芸品か装飾品のような美しさがあった。

「ここ、眼鏡屋さんですか?」

「はい、そうですよ」

 丸眼鏡さんはにこりと笑った。

「眼鏡、合わせてみよう」

 壁際に置かれた椅子を促される。凝った細工の木枠で飾られた座面の柔らかそうな椅子は、眼科の無機質なソファとの差が凄まじかった。もしかして高級店なのだろうか。

「あの、私」

 お金なんてたくさん持ってない。ショッピングモールにあるお手軽感を前面に打ち出したお店でだって、お母さんにお金を出してもらって買うのに。

「とりあえず、検眼だけでも」

「でも」

 そもそも、こんな体調でまともに検眼なんてできるとは思えない。丸眼鏡さんに声をかけてもらってから少し楽になった気もするけれど、検眼を始めたらまた気分が悪くなりそうだ。


「君ね、そのまま放置しておくの良くないと思うんだよ」

 丸眼鏡さんは、外して、と眼鏡のつるを持ち上げるような仕草をした。

 傷だらけの、合わない私の眼鏡。

「眼鏡、このままにしておくの、良くないとはわかってるんですけど」

「うん。具合悪くなるのもね」

 私は瞬いた。

 具合が悪くなるのを、弱い自分を。

 そのままにしておくのは良くない。

 良くないけど、じゃあ、どうしたら楽になれるの。

 瞬いて、視界が滲むのをこらえる。


「座って。壁に絵が貼ってあるでしょう」

 泣きそうなのを悟られたくなくて、私は言うとおりに座った。ぼろぼろの眼鏡を外し、顔をあげる。

 椅子から離れた壁には、縦に細長い紙が貼ってあった。

「なにこれ」

 視力検査表、なのだとは思うけれど。

 あの、アルファベットのCみたいなのがどんどん小さくなっていって。丸の上下左右のどこが空いてますかって聞かれるやつ。もしくはひらがなの羅列。

 けれど目の前の紙には、小さな月だとか、星の絵が並んでいた。

 もしかして、子ども用だろうか。

 小さな子どものために、楽しく検査できるように工夫をした表があるらしい。

 検査マークをイラストにして、なんの絵が描いてあるのかとか、動物の顔がどっちを向いているのかとか。

 眼鏡を外してはっきり見えないが、もしかして月の満ち欠けとか、星のとんがりが欠けている場所だとかで検査するのかもしれない。

 加えて、星と月の絵の並びが終わった紙の一番下のところに、丸とか直線とかを組み合わせた図形らしきものも描かれている。眼科で使う検査表にも線の太さとか長さとかを確認して見え方をチェックする図形があるから、それと同じものだろうか。図形と一緒に文字らしきものも描きこまれてる気がするけれど、よく見えない。

 丸眼鏡さんは並ぶレンズを指で辿って、その中から一枚を取り出した。検眼フレームも遮眼子も渡されなかった。

「じゃあ、いくよ」

 私の右目に、薄いレンズが重なる。


 星が瞬いた。

 レンズ越しに見る、検査表に描かれた星々がきらめく。五つの角がある、抽象化された星のイラストじゃなくて、星屑と呼ぶのにふさわしい光の粒になって視界の中で流れた。紙の上を離れて宙で渦巻いて、銀河を作る。

 私は暗闇に投げだされていた。

 ここはどこだっけ。通学路、じゃなくて、眼鏡屋さん。だった、はず。

 月が見える。

 丸眼鏡じゃなくて、イラストじゃなくて。

 闇の中に浮かぶ銀色、大きな一つの輝き。

 静かの海を見下ろす。広がる闇は宇宙だった。

 今、私は息をしているのだろうか。真空の暗闇に投げだされているようなのに。だけどさっきよりもずっと呼吸が楽で、頭も軽かった。

 目いっぱい手を伸ばしても、何にも触れない。解放された、と思う。何からというわけではないけれど。 

 私の目に映る、歪みもにじみもない広い世界。

 夢だとしても、ずっと覚えていたい。そう思った。


 かちゃりと、音がして。

 一息吸ったら、いっぺんに周囲の光と音が戻った。月と星の光ではなくて、部屋の明かりと外から差す日光。

「今の、なに」

 丸眼鏡さんの手には、二枚のレンズが握られていた。重なって、かちゃりと音を立てる。

「魔法の眼鏡」

 は、と思わず声を漏らせば、丸眼鏡さんは本物よりもずっと小さい二つの満月の奥で目を細めた。

「魔法もね、色々な種類のものがあるけど。人間の目に、様々な景色を見せるてくれるんだ。宇宙とか、世界の果てとか。過去とか未来を見せる魔法もあるな。とにかく、人間の肉眼では簡単に見えないものを見せるのが、魔法ってものなんだ」

 奇妙な言葉を半分疑って、半分信じながら聞いた。

 だって確かにあの光景は、現実から遠いものに見えたから。

「魔法は道具を使うこともある。このレンズに魔法をかけて、君の目を魔力で矯正したんだ」

 よくわからない。わからないけれど、魔法をかけられたのだということはわかったし、それは信じてもいい気がした。

「少しは楽になった?」

「え」

 魔法で宇宙を見ることと、私の具合に何の関係があるというのか。ただ単に、座らせてもらえたから落ち着いたという気もするけれど、でも。

「少し、ですけど」

 気は楽に、なった気がする。

「私は、環境が変わると、すぐ駄目になっちゃって。だけどあんなに広い宇宙を見たんだから、自分の小さな世界でくらい、もう少し頑張ってみようかなって思えました」

 私がそういうと丸眼鏡さんは少しだけ目を見開いて、それからやっぱり微笑んだ。


「あのね、老人なりに助言させてもらうと」

「老人?」

 何かの聞き間違いだろうか。それとも冗談。どう見たって、私の両親より若いお兄さんだ。

「あ、僕のかけてるのは老眼鏡なのね。いや参るよね、さすがに三百年以上生きてると体もガタ来ちゃって」

「さん」

 びゃくねん。と口にするのも荒唐無稽な話で、なんだかむにゃむにゃした言葉になってしまった。丸眼鏡さんは続ける。

「長く生きてるとね、多少のことじゃ動じないみたいに思われるけど。でも、長く生きようが人生経験積もうが、変化を受け止めるのは大変だし。世の中や時代が変わるたびに流れに必死にしがみついて、振り落とされないように前に進むしかないんだよね」

 それが本当のことだとして。この人はその銀の眼鏡の向こうから、いったいどれだけのことを見つめてきたのだろう。

「だから、いろんなことが大変だけど。頑張ってね」

 そう言って丸眼鏡さんは、そっと私の手に己の手を重ねた。

「あげる」

 掌に冷たい感触があった。小さなお月様みたいな、検眼レンズだった。

 お代はいいのだろうか、眼鏡そのものじゃないからいいのかもしれない。

 ああそうだ、眼鏡を作りにいかなくちゃ。不思議な眼鏡じゃなくて、普通のやつでいいから。ちゃんと、自分にぴったりの眼鏡を。

「ありがとうございます」

 掌のお守りをぎゅっと握りしめる。

 お店を出たら揺らぐかもしれない。明日の朝になったら、また不調になったら、わずかな時間の奇妙な体験は、何の慰めでもなくなるかもしれない。

 それでも、月のようなささやかな光でいいから。

 私を導いてくれるといいなと、そんな風に思った。

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