第9話「はじめてだよ」


 あの出来事からしばらくして、宮橋は学校でいつもと変わらない様子だったし、僕も宮橋たちとはいつも通りの距離感を保っていた。


 そんなある日、僕が1人で下校している時だった、向かい側の道路から僕の名前を呼ぶ声がした。

 声のする方を見てみると宮橋が僕のことを呼んでいた。自転車に乗っている宮橋はスクールバッグを背負って、ワイシャツの袖をまくった腕でこちらに手を振っている。

 どうやら僕の方に来るようなので宮橋が横断歩道の信号待ちをしている間に彼にどういう対応をしたら良いか考えていたけど結論が出る間も無く、道路を渡って僕の方へやってきた。

「天野、帰り?」

「うん」

「そっか。公園が近くにあるから寄らね?」

 僕は断ろうと思ったが彼には、断る理由を作っても見破られるような気がしたので断ることはしなかった。

「いいよ」そう返事をした。


 宮橋に連れられて公園に行ってみたが、高校に何回も通学してきたけど初めて来る公園だった。こんなところに公園なんてあったのか?とさえ思っていたが綺麗な芝生で管理が行き届いてることが伺える。

 その公園には遊具はなく、ベンチや自動販売機があるだけで周りは僕の身長より少し高い木に囲まれている。

 駅前の喧騒とは対照的に、この公園は人通りが少なく静かでひんやりとした空気を感じる所だった。


 宮橋は公園の入り口にある自動販売機で缶コーヒーを2本買った。

 僕が飲み物の料金を宮橋に払おうと財布からお金を出そうとすると「いいよ、奢り」と制して僕にコーヒーを手渡し、僕はお礼を言って受け取った。

 宮橋は公園のベンチの近くに自転車を置き僕と宮橋はベンチに並んで座る。

 最近、衣替えをしてブレザーを着なくなりワイシャツになったことで制服越しに体格がよりはっきりとわかるようになり、2人並んで座ってみるとサッカー部の宮橋と今まで運動経験がほとんどなく痩せ型の僕で体格の差を普段よりも如実に感じる。

 その隣に座る宮橋は何かを考えているようで缶コーヒーを見つめていたが、少しの沈黙の後、僕の方を見た。

「最近調子どうよ?」

 さっきの様子から何か話したいことがあるはずだと思う。僕の最近の調子を知りたいからわざわざ公園に寄った訳ではないだろう。恐らく、いきなり本題に入る前に僕が宮橋との間に作った壁を少しずつ崩そうとしているのかもしれない。

「調子?いつも通りだよ。宮橋君は?」

「俺はまぁあいつらに手を焼いてるかな。あと、新クラスだから学級委員の仕事も忙しくなってきたし」

「そっか、学級委員は大変なんだね」

「これから文化祭もあるし、もっと大変になるんだけどな」

 宮橋は苦笑いしながらそう言った。

 2人で他愛もない会話をしていたが、彼が本当に言いたかったことはこれではないだろうということはすぐに察しがついた。

 宮橋はまた手に持っている缶を見つめ、指でさすりながら考え込むようにして、お互いの沈黙の後、意を結したかのように僕の方に目線を向けた。

「天野。この前ファミレスで話した件なんだけどさ」

 やっぱり本題はこの前のことか。

「しつこいのはわかってる。でもさ、吉永も今のお前を望んでないんじゃないか?」

「今まで何があったか分からないけどさ。もっと天野らしくしてる方が吉永も喜ぶと思う」

 そう言い切った後、僕はちらりと横目で宮橋の方を見たが少し呼吸が荒くなったように見えた。普段、思いついたことはなんでも躊躇いなく言葉にする性格だと思っていたため、宮橋のその反応は僕にとって意外だった。きっと、彼も彼なりの勇気を出したのだろう。

 僕は宮橋の言葉を聞いて両手で掴んでいる缶コーヒーをじっと見つめていた。別に缶コーヒーを見たかったから見ている訳ではない。勇気を出した宮橋に視線を移すことができなかったから手近にある缶コーヒーを見つめて、動揺していないふりをしているにすぎないからだ。

 前回のファミレスでの件もそうだったが、彼は自分のためにこれを言ってるんじゃないということは伝わってくる。僕や翔太のために言っているようだった。なぜ彼は他人のためにここまでできるんだ?僕が変わったところで宮橋になんのメリットがあるんだ?

 また、見たくないものを見せられているようなそんな感覚を覚え、沸々と僕の中で何かが込み上げて、僕の頭の中で思考がグルグルと渦巻いているようだった。


 もう僕に構わないでくれ。

 もう放っておいて欲しい。

 今のままで良いんだ。今のまま誰とも関らず卒業できたらそれで僕は十分なんだ。

 そうさせてくれ…。

 翔太はもういないんだから関係ないだろ。

 天野らしくってなんだ?今の僕が僕自身のはずだ。


 だから…だから…。


「放っておいてくれ」

 言葉を発した自覚はなかったが僕はそう呟いていた。


 当然、宮橋は聞き返した。

 どんな時でも最悪の結果を招かぬように感情を押し殺しているが、今回はそれができなかった。

 僕は宮橋に聞こえるようにもう一度言った。

「もう、放っておいてくれ!」

「僕に関らないでくれ!」

 ああ、言ってしまった。きっと、また同じことを繰り返すのだろう。

 中学生の時に感じた争うことのできない恐怖がまた襲ってくるのだろう。

 そんな気がしていた。


 それを聞いた宮橋はやはり少し驚いた様子だった。

 それでも宮橋は絶対に引くつもりはないらしい。

「天野。お前はそのまま殻に閉じこもって自分を偽り続けて生きていくつもりなのかよ?吉永がお前のことを認めたのは今のお前の姿じゃないだろ?お前自身も辛いだろ?」

 もうどうでもいいんだよそんなこと。宮橋には関係ない。

 そう思った僕は立ち上がり、自分の内側にあった言葉を吐き出すように言った。

「宮橋君に何がわかんだよ!」

「僕と対極にいるような人間で僕みたいなやつが今までどんだけ苦労して生きてきたかわかるのかよ!」

 今まで相手の顔色を見て関わりを拒絶して生きてきた自分が発している言葉とは思えなかった。でも、僕の内側ではそう思っていた。

 ふと気が付く。小学生以来だろうか。自分の本心を言葉にしたのは。

 感情的になった僕に宮橋は少し驚いた様子だったが、それ以上に感情的だったのは宮橋の方だったのかもしれない。

 彼も意を決したように立ち上がって言った。

「わかんねぇよ、そんなの。俺はお前の小学生の時と出会ってから3ヶ月しかお前のことを知らない。それに俺はお前じゃないし、お前は俺じゃない。俺はお前が考えてることを全て知ってるわけじゃない。だから…」

 宮橋は途中まで言いかけて一瞬間を開けて言い直した。

「だから、教えてくれよ。お前は一体誰なんだ?吉永から聞いた天野と今、俺の目の前にいる天野、本物はどっちなんだ?」

「他の奴らは気付いてるのか知らないけど、俺はお前を見ていてわかる。お前は自分を閉じ込めて無理してるように俺は思う」

 宮橋の問いの数々が僕の頭の中で反芻する。

 

 暗闇に1人ポツンと下を向いて体育座りをしている僕がいる。下を向いてるのは変化のない地面を見てると安心するからだ。前を向いていると見たくないものを見せられるから見たくない。僕の前方には鍵のかかった大きな扉がある。僕のいる扉の内側に光が漏れていることから外側は明るいのだろう。

 その外側からドンドンと扉をこじ開けるような音がする。今にも突き破って内側に入ってきそうだ。

 扉を叩く大きな音が耳障りだ。

 うるさい…うるさい…

 自分の安全な領域に外部からの侵入者が怖い。

 だから、拒絶する。


 その力に抗うように僕は言った。

「宮橋君には関係ないだろそんなこと。なんでそんなこと…」

 僕が言いかけた時、宮橋の声に僕の声がかき消された。

「だったらなんで否定しないんだよ」

 何か反論できないか考えていた。でも、何も言い返す言葉が見つからない。宮橋も僕が何か言い返してくるための間を設けたようだが僕は何も言い返せずただ2人は沈黙し、少し間が空いてから宮橋はさっきより声を落として言った。

「俺が言ってることが間違ってるなら否定しろよ」

 自分の意思ではない中途半端で表面的な反論をして揚げ足を取られたくなかった…はずなのに。

「別に宮橋君が僕のこと気にかける必要ないだろ。どうせクラスのリーダーだからはみ出しものを更生させようとしてるんでしょ?」

 僕は何を言ってるんだ。そんなこと思ってなかったはずだ。見苦しい真似はよせ。

 そう言い放った時だった、視界が歪んだ。よろついて体制を崩して僕は倒れ込み、頬が熱くなっているのを感じた。

 僕は宮橋に殴られていた。

「お前…」

「いいかげんにしろ!クラスのリーダー?そんなことどうでも良いんだよ!いつまでも悲劇のヒーローみたいな面しやがって。お前は世界で一番不幸な人間なのか?いつまでも不幸でい続けるつもりなのか?いいかげん前に進めよ!」

 僕は頬を押さえてた。そして、呆然と彼の発言を聞いていた。

 熱を持った頬を押さえながら立ち上がる。

 頬だけでなく体全体に流れる血液の温度が上がっていくように、じわじわと熱を帯びて、鼓動が早くなっていくのを感じる。

 

 もうどうにでもなれ…。

 この先のことなんてどうでもいい。

 僕の中にある言葉はそれだけだった。


 鈍い音がする。

 僕の拳がヒリヒリと痛む。


 気がついたら僕も宮橋に殴り返していた。


 また、鈍い音がして僕はよろつく。

 その鈍い音はお互いに続いた。


 お互い体力の全てを使い果たし、大の字になって公園に倒れ込む。

 2人とも力尽きるまで殴り合って顔にはあざや流血している箇所がある。

 身体中を包み込んでいた熱が次第に引いて冷静になってみると身体全体に猛烈な痛みが走った。こんな痛みに耐えて宮橋のことを殴っていたと思うと本当に自分がやったのか信じられないぐらいだった。

 横で倒れている宮橋の顔を見てみると痛々しい傷やあざがある。これを僕自身が付けたものだと思ったらなんだか胸がチクリと痛くなった。


 宮橋は口を開こうとしたが口元が切れて痛そうにしてけど、それでも白い歯を見せて笑っている。

「天野って怒れるんだな」

「僕だって人間だよ」

 そう言って笑ったせいか口元がヒリヒリと痛む。

 宮橋は起き上がってこちらを向いた。

「なぁ、天野。お前は変われそうか?」

 僕は今の気持ちを正直に伝えた。

「どうだろう…今すぐには無理かも。でも…」

「なんとか頑張るよ」

 今回は嘘ではない。

「そうか」

 宮橋は満足げな表情だった。


 公園の時計は午後8時を回っていた。

 春の暖かい風が頬を撫で、昼間来た時はひんやりとしていた公園は夜なのになんだか暖かく感じた。

 宮橋と別れ痛む体を庇いながら無事に帰宅した。自分が徒歩通学で良かったと今日ほど強く思ったことはないだろう。


「ただいま」

「樹遅かったわね。ご飯できてるから温めて食べちゃってね」

「うん」

 母親に顔の傷を見せないようにリビングを振り向かず、まっすぐ自室に入った。

 

 壁に寄りかかりながら今日公園で宮橋と交わした会話を思い出す。自分の擦りむけて痛々しい拳を見てふと思う。


 人を殴るってこんなに心も体も痛むんだな。


 今までの人生で初めて人を殴ってそう感じた。


 でも、宮橋に殴られた痛みは今まで色んな奴に殴られた痛みとはなんだか違っていた。

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