第15話 ギブアンドテイク




 家庭教師の名前はルーディスと言った。

 彼は先生と呼ばれるのを嫌がり、名前で呼んで欲しがる。

 ルーディスの授業はわかりやすかった。聖女教育のために王宮に来ていた先生は年老いた偉そうな人で、悪い人ではないのだが教え方はあまり上手くなかった。頭の固さがそのまま講義に出ている。だが、ルーディスの授業には柔軟性が感じられた。楽しく学習できる。


「一般常識の講義もルーディスにお願いすれば良かった」


 午前の授業の終わりにそう言ったら、驚いた顔をされた。午後からはわたしの要望で、別の先生が一般常識を教えに来てくれることになっている。どんな人が来るのかわからないのが不安で、ルーディスでいいのにと思った。

 昨日から、沢山の人に初めて会っている。とっくにキャパはオーバーしていた。気を遣いすぎて、疲れる。ライフががしがし削られている感じがした。


「一般常識って何のことですか?」


 ルーディスに聞かれる。不思議な顔をされた。


「この世界で生きるために、普通の人が当たり前に持っている常識のことです」


 わたしは答える。


「わたし、こっちに来て半年経つけど、王宮を出たこともないので何も知らないんです。だから、街にも出て込みたいし、普通の暮らしを見てみたい」


 訴えた。

 それはルーディスにお願いしたことでもある。


「街に出ていいかどうかは、私には判断できません。それはアインス様の判断に委ねることになります。ですが、お忍びでというのは難しいと思いますよ」


 ルーディスは微妙な顔をした。


「それは警備上の問題ですか?」


 わたしは問う。

 貴族の外出には護衛が付くのが普通だ。治安がそれほど良くないのかもしれない。そういう意味で、難しいのかと思った。


「いいえ」


 ルーティスは首を横に振る。


「詳しくはアインス様にお聞き下さい」


 余計なことは答えなかった。

 貴族社会は三猿が推奨されるのだろう。見ざる、聞かざる、しゃべらざるで、不用意な言葉は誰も口にしない。


「わかりました」


 わたしは素直に引き下がった。





 街に関する話がアインスから出たのは、お茶の時間だった。

 甘いだけのケーキを口に入れ、なんとか料理人にお菓子の改善をさせられないかと思案していたら、唐突にその話題が出る。


「街に行きたいそうですね」


 問われて、わたしはこくりと頷いた。心の準備ができていなかったので、どぎまぎした。


(ルーディス、仕事が早い)


 心の中で感嘆する。


「はい」


 返事をした。

 緊張で、顔が強張る。

 たかが街に出るだけのことだ。だがそのたかががこの半年、わたしには一度も許されない。普段はわたしに甘いキルヒアイズも、街にで出ることにいい顔をしなかった。それが何故なのか、わたしにはよくわからない。


「お忍びでということですが、それは無理でしょう」


 アインスはきっぱりと言った。


「理由を聞いてもいいですか?」


 わたしは尋ねる。


「貴女は確実に目立ちます。お忍びにはなりません」


 アインスは答えた。


「あっ……」


 わたしは自分が東洋人で、この国の人たちとは見た目が違うことを思い出す。髪の色や肌の色など些細な違いだ。だが、その些細なことが気になるのが人間だ。平均的なこの国の女性と比べると小柄で幼くも見える。

 自分が思っている以上に、この国の人はわたしに違和感があるのかもしれない。


「つまり、外出は禁止なのですね?」


 わたしはがっかりした。

 1人で暮らすのも難しいだろうということに気付く。見た目の違いを誤魔化すのは大変だ。東洋人のわたしが市井で暮らすのはかなり厳しいと言わざる得ない。

 予定の変更を余儀なくされた。


「いいえ。公爵夫人としてなら、問題ありません。その際は、私がエスコートすることになりますが」


 アインスの返事に驚く。

 許可してくれたのもそうだが、エスコートされるという言葉に戸惑った。


「いえ、エスコートだなんてそんな。これ以上、ご迷惑をかけるわけには……」


 わたしは遠慮する。

 当主であるアインスはたぶん忙しい。わざわざ自分のことで手を煩わせるのは申し訳なかった。


「エスコートなら、ルーディスにでもお願いするので大丈夫です」


 やんわり断わる。

 だが、それを聞いたアインスはむしろ渋い顔をした。


「それはそれで問題があるので、ダメです」


 アインスはわたしの考えを却下する。

 家庭教師と2人で街に出たら、普通の関係ではないと誤解されると言われて驚いた。


「街を歩くだけですよ?」


 誤解されるような行動を取るつもりなんてない。

 だが、ダメだとアインスは首を横に振った。


「外に出たければ、わたしのエスコート付きは必須条件です」


 どうします? と問いたげに、わたしを見る。

 アインスは今日も無駄に綺麗でキラキラしていた。

 じっと見られると少しドキっとしてしまう。


(イケメン、圧が強い)


 思わず、目を逸らしてしまった。


「お忙しい中、時間を作っていただくのは大変恐縮です」


 わたしは気まずい顔をする。


「いいえ、そのくらい問題はありません。それに、私も一つお願いしなければならないことがあるので、丁度いいです」


 アインスは微笑んだ。でも目は全く笑っていない。

 互いにそれぞれ、相手の願いを一つ叶えることをアインスは提案した。


「まあ、そういうことなら……」


 一方的に何かして貰うのは心苦しいが、お互い様ならまあいいかと思う。わたしは頷いた。


「では、明日にでも時間を作りましょう」


 アインスは約束してくれる。話が早いと言うより、せっかちだ。何か急ぐ理由があるのかもしれない。気になったが、尋ねるのは躊躇われた。どこまで聞いてもいいのか、その加減がわたしにはわからない。


「わかりました。よろしくお願いします」


 わたしは小さく頭を下げた。結局、急ぐ理由は聞かないことにする。


「ところで、アインス様のお願いは何でしょう?」


 代わりに、それを尋ねた。


「来週、この家に私の息子が来ます」


 アインスはどこか無機質な、感情がこもらない口調で淡々と告げる。


「えっ……。それは、えーと……」


 わたしは戸惑う。いきなり、隠し子の存在を打ち明けられたのかと動揺した。


「生後六ヶ月ほどの赤ん坊です。今まではずっとレティアの実家のキャピタル家で育てられてきました。しかし、私が再婚したのでこの家で育てることになります。了承しておいてください」


 だが、息子とは半年前に生まれた前妻の子のことだった。

 赤ちゃんの泣き声が聞こえないので変だと思っていたが、今、この家に赤ん坊はいないらしい。


(どうりで)


 家の中があまりに静かなので、赤ちゃんはどこにいるのか気になっていた。いないなら納得出来る。

 だが同時に、アインスの言い回しに引っかかりを覚えた。


「了承というのはどういうことでしよう? 継母として、わたしが育てるという意味で合っていますか?」


 すばり聞く。


「いいえ」


 アインスは首を横に振った。


「育てるのは乳母の仕事です。貴女には女主人として、子供がこの家で育つことを許可して貰いたいだけです」


 噛み砕いて、説明される。


「わたしは何もしなくていいということですか?」


 アインスに確認した。


「ええ。貴女は何もしなくて大丈夫です」


 アインスの言葉はとても冷たく響く。一線が引かれて、突き放されるように感じた。だがたぶん、それはこちらの過剰反応だろう。

 アインスは言葉が足りない。行間を読まなければ、彼の真意は伝わらないようだ。


(情報が足りない。いろいろ確認してから、ちゃんと考えよう)


 そう思った。


「わかりました」


 とりあえず、頷く。


「女主人として、この家で赤ん坊が育つことを認めます」


 約束した。反対する理由なんて、わたしには何もない。この家の子はこの家で育つ方かいいだろうと思った。

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