108 山だー!

 山だ!

 山だ!

 山だー!!


 魔物討伐で森に入ったときとは空気の明るさが違う。秋の空は透明で高くて、ハロンズに比べると肌寒いくらいの気温がとても気持ちいい。

 今俺たちが歩いているところは黄色く色付いた木が多いが、山の上の方を見ると鮮やかな赤も見える。


 俺は両手を広げて深呼吸した。

 緑の匂いが濃い。これぞ山! 日本と違って工業化が進んでない分こっちの世界は空気が悪いわけじゃないけど、ハロンズは埃っぽいんだよな。家の前とか馬車が通ったりするし。

 雨上がりだったら最高だったろうな。俺は雨が降り始めの時の、土の匂いと雨の匂いが混じった感じが好きだ。


 でも、雨の後は場所によっては滑りやすくなるから、登山初心者のソニアもいることだし贅沢は言わない。

 荷物も持たなくていいし、手ぶらでのんびり山歩きができるなんて最高だな。

 いや、俺は必要装備全て背負ってストイックに登るのも好きだけど。それはやっぱり安全が確保されてるところで、って思う。


 歩く度に腰に付けた熊鈴がガランゴロンと鳴る。最初ソニアは「変な音の鈴ね」なんて言っていたけど、綺麗な高音が鳴る鈴じゃなくてこの低音が鳴る鈴の方が俺にとっては「熊鈴!」って感じがする。低音の方が周波数の関係で遠くまで届き、高音だと反射するので長く響くそうだ。ぶっちゃけ、音の高低はあまり熊除けの性能には関係ないらしい。

 そこを突き詰め始めると「そもそも熊鈴がどこまで有効なのか」とかの議論が始まるから、俺は突っ込まないけど。

 野生動物には野生動物の生きる場所があるのだし、お互いの注意喚起でそれを侵さずいられるならいい。


「山を歩くのってうきうきしますね。私は海辺の出身なので、依頼でもなくこんな風にのんびり山を歩くことがあるなんて思ってもみませんでした」

「サーシャが楽しんでくれてるみたいでよかった」


 俺とサーシャは顔を見合わせて笑い合う。これぞまさに健全デートだな。

 登山というよりは、気分的にはハイキングだ。厳密に列も作っていないし、サーシャも俺の横で様々な色に染まった木々を眺めて楽しんでいる。

 この山の標高は1000メートルくらいかな。本当に観光としての登山にちょうどいいと思う。

 ソニアも出発前はちょっとぐちぐち言ってたけど、のんびりと歩いて行くので警戒が解けてリラックスしたらしい。


「気温がちょうどいいわね。少しひんやりするくらいが歩いてるときは気持ちいいわ」

「汗を掻いたら体を冷やすから、すぐに拭いた方がいい」


 俺たちの後ろではソニアとレヴィさんが並んで歩いていて、レヴィさんは時々茸を見つけて採ったりしている。俺は山菜はある程度知ってるけど、茸は無理だな……。


 1時間ほど歩いて休憩をし、温かいお茶で喉を潤して甘いお菓子を摘まむ。――日本にいた頃はよくチョコレートとか食べたなあ。あの、キャラメルとヌガーが入ってピーナッツぎっしりの激甘の奴とか。

 手軽にカロリー取れるから、スキーとかにも持っていったっけ……いや、スキーと言ったらゲレンデの休憩所にある、何故か異様に美味しく感じるラーメンの方が印象深いかな。


「ジョーさん、どうしましたか?」

「えっ?」


 サーシャに心配そうに声を掛けられて、俺は物凄くぼんやりと物思いに耽ってしまっていたことに気付いた。


「大丈夫だよ。――ただちょっと、前に山に登ったときのこととかいろいろ思い出してただけ」


 俺がそう答えると、サーシャがきゅっと腕に抱きついてくる。

 この半年で俺はもうこっちの世界で生きる運命を受け入れているから、何かを思い出しても懐かしいと思うだけだ。

 だから俺はナナカマドの赤く染まった葉を見ながら、「ラーメン食べたいな」とか思ってただけなのだ……。


「いや、心配させてごめん。本当に大丈夫。こっちの世界でまだ見かけてない食べ物を思い出して、食べたくなってただけだから」

「ジョーってそういう人よね。食への執着が半端ないわ」


 ソニアが呆れたように半眼で呟いた。鋭いところを突いてきたな。俺は異世界に来ても日本人だから、食に関して妥協はしない。


「それならよかったです。きっとそういうお料理もその内作れるようになりますよ! パーグに交易船も向かってますしね」

「そうだね、ちょっと方向性が違うけど、似たようなものが食べられるようになるかもしれない」


 日本っぽい国があるなら中国っぽい国もどこかにあるかもしれない。でも日本のラーメン独自進化らしいからなあ。さすがにラーメンは俺も再現できそうにない。


「そろそろ休憩は終わりだぞ」


 レヴィさんの一言で、様々なものを片付ける。本来は立ったまま5分程度の休憩を取るところなんだけど、今日はのんびり登山だし座って休憩していたのだ。

 サーシャは体力もあるし健脚だから全然問題は無いし、ソニアも意外に「疲れた」とか言わない。

 依頼の時もそういう文句は顔に出てても口に出さない我慢強さがあるんだけど、今日みたいなお気楽な場でも言わないのは驚いた。もっと文句を言いそうなイメージがあったから。


「ソニア、楽な山だけどあくまで俺とかレヴィさんの感覚だからさ、辛いときは言ってよ?」


 俺が声を掛けると、ソニアは素直にこくりと頷く。そして、微妙に悩んでいるような顔で額に指を当てた。


「それがねえ、やっぱり体力が付いたせいかへっちゃらなのよねー。荷物もないし、大して疲れてもないわ。私は都会が好きだと思ってたけど、こうして山を歩いてるのが自分でも意外に思うくらい楽しいのよ。やっぱり景色がいいからなのかしらね」

「ソニアも立派な『山とテントを語る会』の会員だな」


 レヴィさんがレアな笑顔をソニアに向ける。ソニアはうんうんと悩んでいたけども「マーテナ山は登りたくないわ」とだけ返した。

 あそこはなあ……岩場も多いし、道もないし。富士山と同じ感覚で言うと、登ることに意義はあるけど楽しさで言うといまいち。

 

 その後も紅葉を見ながらのんびりと山を登り、ちょうど昼頃に俺たちは山頂に着くことができた。

 途中で他の登山客にすれ違ったりもした。手ぶらで登っている俺たちは奇異な目で見られたけど、何故か元の世界でのマナーと同じようにすれ違うとみんな「こんにちは」と挨拶をするのだ。

 山の魔力かな?

 


「着いたー!」


 俺は山頂で思いっきり伸びをした。この山はそれほどの標高ではないけど、少し下に雲が見える。

 それまでは上しか見ないで登ってきて、頂上について初めて自分が歩いてきた道程を振り返ると改めて感慨深い。こんな高さを登ってきたんだなって胸にじんわりと達成感が湧き上がってくる。


 サーシャとソニアも眼下に広がる景色に歓声を上げているし、ふたりで雲を指さして笑い合っている。

 ちょっと物足りなくはあったけど、こういう登山もいいな。

 俺が空間魔法を使える以上、冬山ガチ登山とかやっても問題なさそうだけど。

 


 火口は俺たちが登ってきたのと反対側にほんの少し下った場所にあった。意外にギリギリまで近づけるし、覗き込んでみると確かにちらりとだけども溶岩っぽいものが見える。

 俺はありがたく溶岩をごっそりと収納させてもらった。これで今日のメインミッションは達成。


 そして携帯コンロを出して平らな場所で昼食作りだ!

 肉と野菜はもう切ってあるし、鍋にスープも入っている。山で食べれば何でも美味しいけど、今回はポトフを作る。ただ煮込むだけだけど、やっぱり山頂は風が冷たいし温かいものを食べるとほっとするだろうと思って。


「わあ、なんだか家で食べるのより美味しく感じますね!」

「運動した後のご飯ってやっぱりいいわよね。温かいのが染みるわー」

「やはり山はいいな……」

「そうですね。はあ、満たされた」


 4人で鍋を囲んで器を持ったままほんわりと和む。

 サイモンさんもコリンも来ればよかったのになあ。本当に今日は天気もいいし、景色もよく見えるから最高だったのに。

 ああ、それにしても、やっぱり山の上で食べるご飯は美味しいな……。


 

 帰りはいきなりハロンズまで移動することはせずに、途中にあった少し開けて見晴台みたいになっている場所まで腹ごなしを兼ねて歩いて行った。そこからは移動魔法でハロンズの家に戻る。

 サーシャはもちろん楽しそうだったし、ソニアもいざ行ってみたら案外満足したようなので、本当によかった。


 そして俺は、ニルブス山からの景色についてひとつのことが気になっていた。

 それを確かめるのには何日か掛かった。「もしかして」と思ったことの確証が取れた日、まだ夜が明けないうちに俺はサーシャの部屋のドアをノックした。


「はい……?」


 さすがに眠そうな声が中から返事をしてきて、俺はそっとサーシャの部屋に入った。


「おはようサーシャ。起こして悪いんだけど、見せたいものがあるんだ」

「私に見せたいもの、ですか?」


 小さな欠伸ひとつで、サーシャは横に寝ていたテンテンをベッドの真ん中に移動させて立ち上がる。


「靴だけ履いて。寒いと思うからこの毛布も持っていこう」

「どこか行くんですか? じゃあ着替えた方が」

「ちょっとの間だけ。誰にも見られないと思うからこのままでいいよ」


 俺はサーシャの体を毛布でぐるっと包むと、ニルブス山山頂にドアを繋げた。


 紺青の夜空が見渡す限り広がっていて、夜明けまではまだ少しだけ時間がある。

 サーシャは周囲を見て、小さな声で「わぁ……」と驚いた後、俺の腕に抱きついてきた。


「これは雲ですか? 凄く不思議な光景ですね! 私たちより下の場所にずっと雲が続いてて……」

「雲海って言うんだ。今まで2回くらい見たことがあったんだけど、秋くらいから雲海が見られる条件が揃いやすくなるんだよ。この前来たときに、大分下の方に街が見えたし、俺が雲海を見たことのある山と条件が似てたから、毎朝確認してたんだ。――サーシャに見せたいと思って。朝日が昇ってきたらもっと綺麗だよ」

「嬉しいです……ジョーさん、ありがとうございます」


 サーシャは俺を見て蕩けるように笑い、自分の体に巻き付けてある毛布の端を持って俺に抱きついてきた。

 1枚の毛布に包まって、お互いの体温を分け合うようにしながら俺と彼女は日の出を待つ。やがて雲の果てから黄色い光が差し込んだかと思うと、雲の海を金色に染め上げた。


「綺麗……」


 うっとりと雲海を眺めるサーシャの横顔の方が、俺は綺麗だと思う。もちろん雲海もとても美しいんだけど。


「私は女神テトゥーコに仕える身ですが、こういう景色を見ると『ああ、神様はいるんだな』って思いますね」

「わかるかも。うん、神様はいるよね。こんなに綺麗で神秘的なものがあるって凄いよ」

「……本当に、連れてきてくれてありがとうございます」


 俺の腕の中でサーシャが幸せそうに笑うから。

 俺も幸せで、凄くドキドキして。

 ふたりとも無言で顔が近づいて、サーシャがそっと目を閉じる。初めて重ねた唇は柔らかくて、溶けてしまいそうだと思った。

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