アドラメレク おまけの物語
霧野
第1話
深い暗闇の中を、独り歩き続ける。
右も左も後も先も分からない、何も見えない、自分の掌さえ見えないような、漆黒の闇。
今はもう遠くなった光に背を向け、逃げるように進んでいくにつれ闇は密度を増して重くのしかかりり、剥き出しの腕や胸を、体の芯を、冷やしていく。
身体の痛みは既に消えていたが、鼻を刺すような煙の匂いは鼻腔の奥にまだ残っていた。
罪の、臭い。
その臭いが、冷えきった身体を駆り立てる。
もっと。
もっと遠くへ。
進むたびに徐々に重くなる足を、無理に引き摺る。
己の罪を抱えて、さらに暗く深い場所へ。
凍えるほど寒く、この身を苛み罰してくれる場所へ………
もうどのくらい歩いたろうか。
距離も時間も、わからない。
わかったとしても、ここでは大した意味もないのかもしれない。
わかっているのは、遠ざからねばならない、ということ。
光から、温もりから、赦しから、幸福から。
うんと遠いところへ。
何故なら、自分は罪を犯したから。
画家としての成功を夢みたのではない。ただ純粋に、己が満足できる絵を描きたかった。描き続けたかった。
それだけのために、悪しき存在と関わってしまった。あまりにも不用意で、愚かなことだった。
大切な人たちを、不幸に陥れてしまった。彼らの幸福を、あまつさえ命をも、奪ってしまった。
故意ではなかった、知らなかった。
そんなこと、言い訳にはならない。
この罪と共に、悪魔の烙印を抱えたまま隠れるのだ。
誰にも見つからないところに。
これ以上誰にも、悪魔の力が及ばないように。
陽は痣を握り潰すように、胸の真ん中に爪を立てる。長く縺れた前髪が落ちかかり、歯を食いしばった唇に張り付く。
ずっと、歩き続けなければならない。
引き摺った足から血が流れても、足が千切れてしまったとしても、這ってでも、遠ざかり続けなければ……
……っていうか。
これは、なんだ?
さっきから目の前をブンブン飛び回っている、か弱い光の………気配?
相変わらず真っ暗で何も見えないにも拘らず、光の気配としか言えない何かが付き纏っている。
その気配に気を取られ、陽の歩みがほんの少し、遅くなった。
すると、その気配は僅かに存在感を強めた。
つられるように、また少し、歩みが遅くなる。
何かが、記憶の隅で引っかかっている。
頭の中のどこかが、チカチカと柔らかな光を瞬かせる。
……これを、俺は知ってる。この光を。
頭の中に瞬いていた小さな光が、ぽうっと灯った。
清らかに白く、ほの暖かい、小さな灯。
これは、この気配は…………
いや、そんな筈がない。
駄目だ。馬鹿な期待をするな。そんなこと、あってはならない。
彼女の、気配。
そう思った瞬間、目の前にふわりと現れた。
頭の中に灯った光が暗闇に浮かび、柔らかくこちらを照らしている。
この気配。やっぱり、よく知ってる………
(………
目の前の光が大きく膨らみ、像を結んだ。
暗闇に慣れきっていた目が眩み、陽は思わずきつく目を瞑る。
背けた顔を恐々あげると、そこには。
ほのかに発光する半透明の姿で、
「やっと、気づいてくれた」
自分の目が、信じられなかった。
恵流が、こんな場所に居るわけない。
こんな、暗く寒い場所に。
罪人の身にこそふさわしい、こんな穢れた場所に。
「陽ったら、ものすごい勢いで反対方向に行っちゃうんだもん。いくら呼んでも気づかないし、目の前で手を振ってるのに全然見てくれない」
恵流は、ぷうっと頬を膨らませた。怒ったふりをするときの、お馴染みの表情だ。
「耳も目も、罪悪感で塞いじゃってたんだね。これじゃ、見えないのも当たり前。でも……」
可愛らしく優しい、懐かしい恵流の声が耳から流れ込み、陽の冷え切った体をじんわりと温める。
ほの白い光を纏わせたまま、恵流はふざけるように手を振り、笑った。
「ちゃんと気付いてくれて、良かった」
「………めぐ、る……」
呆然と立ち尽くしたまま、掠れた声でその名を呼んだ瞬間。恵流が両手を広げ飛びついてきた。
「陽!」
温かく柔らかな重みを受け、足元が軽くよろける。
陽は混乱しながらも、華奢な体に見合わないほど力強く抱きついている恵流を見下ろした。
「恵流、どうして……ここは」
胸に顔を埋めていた恵流が、抱きついたまま顔を上げる。
オロオロと見下ろしている陽と目が合い嬉しそうに笑ったその姿は、すでに半透明ではなく、しっかりとした実体と以前と変わらぬ甘い匂いを伴っていた。
「やっと名前を呼んでくれた。呼んでくれないと、スカスカのままなんだ。これで、陽に触れる」
「………恵流……ほんとに、恵流なのか?」
信じられない思いで、陽は瞬きすら出来ずに恵流を見つめた。
恵流は背中に回していた腕を離し、胸の真ん中で爪を喰い込ませたままの陽の右手をそっと包んだ。
目一杯背伸びをして顔を近づけ、冷たくなった陽の鼻先に自分の鼻をくっつけて、また笑った。
「本物の私だよ。正真正銘の、清水恵流さんです。ねえ、陽? さっきからこの手、邪魔だよ」
恵流が手を下ろさせようとするのを、陽は咄嗟に後ずさりした。
「駄目だ。これに触っちゃ」
恵流は微笑んだまま、首を振った。
「もう、無いよ。痣なんて、消えちゃったんだよ。ほら、見てごらんよ」
「……え?」
陽は恐る恐る右手を開き、手を離した。
恵流の言う通り、痣は跡形もなく消え、傷跡ひとつ残っていない。
「………無い。俺の……罪の、烙印………」
またも呆然と見下ろす開いた胸に、再び恵流が飛び込んだ。恵流の体温が、直に伝わる。
「罪なんて無いんだよ、陽」
痣のあった場所に唇を付け、恵流は心臓に直接語りかけるみたいに言った。恵流の言葉が、身体中に響いて細胞を震わせ、温める。
「こんなに冷えちゃって。寒かったね、陽。無理して進んじゃって………戻ろうね。私たちが居るべきところに、戻ろう」
ガチガチに強張っていた身体が、解けていく。
がんじがらめになっていた罪悪感の鎖が、ポロポロと落ちていく。
「恵流……」
「うん。一緒に戻ろうね。でも、その前に」
恵流は再び陽を振り仰ぎ、悪戯っぽく笑った。
「ちょっと、抱っこ」
陽は自由になった両手で、恵流を強く抱きしめた。
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