第13話

13.決戦、東京マラソン


 今年の東京マラソンは3月の第一日曜日に行われる。車いすマラソンの後、エリートランナーと、一般ランナーは、午前9時15分に新宿の東京都庁前をスタートし、東京駅前がフィニッシュとなる42.195㎞で開催される。国内外のトップ選手をはじめ、ありとあらゆるレベルの市民ランナーも参加する巨大な大会だ。東京マラソンは、2007年に当時の石原慎太郎東京都知事の主導で開催され、いまやニューヨークシティーマラソン、ボストンマラソン、ロンドンマラソンと並んで世界的なマラソン大会のひとつとなっている。マラソンとしての格付けが高いこともあるが、毎年3万人以上のランナーが銀座や浅草などの東京の名所を走るのは壮観で、東京マラソンを走ることは、多くの市民ランナーの憧れにもなっている。一般のランナーとして参加するには、約10倍という競争率の抽選に当たるか、10万円を払ってチャリティーランナーとして走るという方法がある。その他にも芸能人枠だとか、スポンサー企業枠などがあるが、一般ランナーにとっては3万人以上が走れるといっても、参加するには狭き門であることは間違いない。また、1位から10位までには賞金が与えられ、優勝者は1千万円以上の賞金を受け取ることができる賞金レースでもあった。

本日の東京は天気に恵まれ、絶好のマラソン日和になった。巨大なビル群がひしめく新宿駅からは、普段はスーツを着たサラリーマンやOLがひしめき合って移動して来るのであるが、今日はカラフルなウエアーを着て、リュックを背負ったランナー達が、日本全国、いや海外からもやってきて、スタート地点の東京都庁前に向かって歩みを進めていた。本格的な春にはまだ遠く、道端の街路樹もほとんど葉は付いていないが、今日はランナーたちのウエアーで一足早く花が咲いたようであった。今年の東京マラソンは、世界陸上の切符がかかり、多額の賞金もかけられている大会であるので、トップランナーにとっては、おのれの人生をかけた戦いの場であるのだが、市民ランナーの多くにとっては、マラソンを楽しみ、一生の思い出となる大会でもあるのだ。


 都庁ビルは、新宿の高層ビル群の中でも一番高い。しかも2つのタワーがあって、そこをつないでいる建物もかなりの高さがあり、回りのビルと比べても異彩をはなっている。建てられた当初は、「バブルの塔」などとマスコミにこき下ろされたが、今では、新宿のシンボルであり、日本の首都の庁舎として、これくらいがふさわしいと思っている人が多いのではないか。ちなみに、東京都で1番高いビルは、都庁ではなく、虎ノ門ヒルズであり、2位はミッドタウンタワー、都庁ビルは第3位だという。その都庁ビルの周りに色とりどりのユニフォームを着たランナーが集まり、楽しそうに話をしたり、朝食をとったりして、それぞれのマラソンのスタートを待っていた。


 エリートランナーが集まる控え広場で、颯太と江口は、ゆっくりとアップを始めていた。まずは柔軟体操、最近はストレッチで筋肉を痛くなるまで伸ばすのではなく、プラプラと振るように全身の筋肉を動かして、筋肉を無理なく柔らかくしてやる。少し走って休んで、リラックス。疲れないように筋肉を準備させることが大事なのである。そこへ、同じくアップを始めた東西自動車の伊沢隼人が話しかけてきた。伊沢と颯太は高校時代からのライバルであったが、いまや伊沢は日本記録保持者で、この大会でも優勝候補にも挙げられている。実績ではずいぶん差がついたものだ。

「おう、天津。調子はどうだ?今日は当然ベストコンディションだろうな」

伊沢の言い方は自信に満ちていた。前回ハーフマラソンで会ってから、調整は万全なのだろう。前日のレセプションで、颯太と話はできなかったが、インタビューでは自信をのぞかせていた。今やマラソンでは、押しも押されもせぬ第一人者であり、オリンピックにも入賞し、今や国内には敵なしと書いているスポーツ紙もある。颯太は少し笑って答える。

「まあ、いつも通りさ。心配はいらないよ。お前は調子よさそうだな」

「まあな、絶好調だよ。今日はおまえも、外国人のやつらもぶち抜いてやるよ」

「そうか、頑張れよ」

他人事のような颯太の言葉を聞いて、伊沢はちょっと意外そうな顔をした。

「いつもの天津だと、スタート前はピリピリして、闘争心があふれていたのに、今日はやけに落ち着いていたな。『心配いらないよ』か、あいつ今日はもしかするとやっかいな敵になるかもしれんぞ」

伊沢は少し立ち止まって何やら考えていたが、またアップに精を出していった。

「なんや、けったいなやつでんな」江口が小声で話しかける。

「まあ、そう言うな、根はいいやつなんだ」颯太が答えた。

これまで、大きな大会のスタート前では、周りの選手の様子が気になったり、レースプランを考えたり、アップをしっかりしなくてはと考えて、ピリピリしていたが、今日はなぜか落ち着いていられる。いまさら、緊張してもしょうがない。事ここに至ってはやるべきことをやるだけだ。それはスタート前もスタート後も変わらない。まあ、隣にいる江口が緊張を解いているのもあるかもしれないな。颯太はそう思ってアップを続けていた。その颯太を見て、このレースに嵐を巻き起こすかもしれないと警戒したのは、参加選手の中でも伊沢ただ一人であった。


 「スタート1分前」係員が叫ぶ。車いすはすでにスタートし、ランナー全員が整列していた。緊張感が一気に高まった。

「10秒前」誰も言葉を発しない。それまで3万数千人のランナーとマスコミ、見物人の声でざわついていた東京都庁前が静まりかえった。

“パーン”という東京都知事の鳴らすピストルと、その後に舞い上がった紙吹雪の中、運命の東京マラソンがスタートした。応援の観客が「わー」という声援を送る中、ランナーたちが勢いよく飛び出していく。マスコミの言うビッグスリーのうち、伊沢隼人、片岡明彦、それからアモンディーら外国人招待選手が第1列目、颯太はビッグスリーの1人である佐藤卓とともに2列目からのスタートとなった。


 テレビ中継のアナウンサーが話す。

「気温10度、風はほとんどありません。絶好の天気の中、いよいよ東京マラソンがスタートしました。選手たちはここ新宿の東京都庁前をスタートし、東京ドームのある水道橋、日本の道路の始発点である日本橋、浅草、両国国技館前、銀座、東京タワーなど東京の名所をめぐってゴールの東京駅前の御幸通りまで42.195㎞を走り抜けます。

このレースの模様は、瑞穂テレビが日本全国に中継いたします。実況は私、小田が、解説は日本陸上競技連盟の金義成さんにお願いしています。この大会は世界陸上の予選も兼ねており、国内からもトップ選手が多数参加しています。その日本の選手が2時間3分、4分台をもつ外国人招待選手とどう戦っていくか注目されます。

まずはトラブルもなく順調にスタートをきりました。招待選手の後には一般ランナーも続々とスタートを切っていきます。スタート地点では、池田東京都知事も手を振っていますねー。赤やオレンジ、緑といったカラフルなウエアーに身を包んだランナーたちがにこやかにスタートゲートを通過していきます。そして最後尾のランナーがこのゲートを通過するには、30分くらいかかるかもしれません。それほどの大人数です」


 都庁前の道路は広く、また直線が割と長いので、競技場でのスタートのように、トラックのような急カーブに選手がひしめくことはなく、スタートで転倒することは少ない。その点は安心だった。しかし、スタート直後から、ものすごいスピードで先頭グループが飛び出していく。先頭グループを引っ張るのは、1㎞を2分55秒のペースで引っ張るペースメーカーだ。このペースメーカーについたのが、デイビッド・アモンディーらアフリカ勢と、日本人では伊沢隼人、片岡明彦、それに招待選手の田中幸太郎であった。颯太と江口勝は、佐藤卓など10数名の選手とともに次のペースメーカーの後ろについた。こちらのペースメーカーは1㎞を2分58秒のペースで引っ張ることになっている。颯太と江口にとって、これは初めから大野とともに話し合った予定通りの戦略であった。というのは、1㎞を2分55秒のペースで走ると、かなりのハイペースになり、30㎞過ぎからのスタミナに不安が残る。また外国人は極端にペースを上げ下げすることがあるので、2分55秒よりもかなり早くなったりすることもあり、それでペースが狂ってつぶされたりするかもしれないのだ。

大野春馬の立てた戦略は、とにかく日本人1位が最優先。もし外国人選手がそのままのペースでゴールまで駆け抜けてしまえば優勝はあきらめざるを得ない。現実的にはそういう可能性もないではなかった。しかし実力から考えて、日本人選手が1㎞を2分55秒で最後まで行くことは考えられないので、勝負は後半と判断したのであった。大野は30㎞までは「遊んでいろ!」と言っていた。1㎞を2分58秒でもかなりのハイペースであり、それを遊んでいろとはずいぶんな自信だが、颯太自身も「勝負は30㎞すぎ」と思っていたので、そんなものかと思っていた。まあ、外国人にペースをかき乱されたのではたまらない。30㎞まではペースメーカーに引っ張ってもらい、少しでも体力を温存したい。それには余計なことは考えず、隠れるように走ることが理想的だ。

「残り12kmで勝負をかけろ」

レース前に颯太と江口に大野はそう言っていた。

「コーチ、分かってますよ。しかし、ぼくが狙っているのはあくまで優勝ですからね」

颯太は、今はどこにいるかわからない大野に向かってそうつぶやいた。


 都庁前をスタートしてから右に曲がり、JRの高架下をくぐると、東洋一の歓楽街と言われる新宿歌舞伎町がある。ここらあたりは、夜はにぎやかだが、朝は人通りがそれほど多くない。その歌舞伎町を左に見ながら、靖国通りを東に走る。選手の集団は細長くなりつつあるが、はるか後方まで続く塊となって進んでいる。先頭集団はあっというまに防衛省の横を通り、東京ドームを臨む5km地点の飯田橋方面へと進む。この辺りは大学も多く、川の向こう岸に行くと靖国神社もある。地下鉄やJRの路線も多く入っていて、通勤などの交通の便も良いところである。家賃が高いことを除けば住みやすい街だ。先頭はもうすぐ5㎞のところまで来ていたが、都庁の前ではまだスタートもしていない選手もいることを考えると非常に巨大な大会というのがわかる。このような大きな大会で、主催者側が「一流選手と同じ土俵で競技ができる」などと言うことがあるが、かたや5kmまで走っていて、もう一方はまだスタートもしていないといった状況で、同じスタートラインに立てるなどというのは、果たしてどうかとも思うが、まあ例え同時にスタートしたとしても、あっという間に見えないところまで離されるので、レベルが違いすぎれば、結局同じ事かもしれない。

ここまでの5㎞はだいたい下っているので、選手はスピードに乗りやすい。5km以降はアップダウンが少なく、比較的平坦なコースとなっている。飯田橋駅手前の5㎞地点を先頭グループはあっという間に通過した。その後まもなく第2グループも通過する。この5kmを先頭グループは14分31秒という想定よりやや早いタイムで駆け抜けた。颯太のいる第2集団は5kmを14分49秒と、ほぼ想定のペースで通過した。颯太は、この5㎞は、いつも通り特に何も考えず、かといって転倒はしないようにまわりの選手との距離に注意して走っていたが、突然「あっ」と小さく声を上げた。

「忘れてた・・・」

いつもスタート前につぶやく「大丈夫、準備は万全だ」と言うのを今日は忘れていたのである。大学生の時からレース前に言うことにしていた言葉であったが、今日はなぜか忘れていたのであるが、5㎞を走っているときになぜか急に思い出したのだ。思えば、これまでのレースはスタート前に緊張と不安があり、自分を落ち着かせるために言っていた言葉であった。しかし、実際はいろんなことを考えてしまい、足が少し痛むとか、張りがあるとか、細かい事が気になっていた。しかし今日は特に緊張もなく、いつもの練習のようにアップをして、スタートラインに立ち、何も考えずにここまで走ってきた。

「そういえば、今日は足がどうとかなかったな」

それは、身体的な要素ではなく、不安とか恐れとか精神的な問題が無かったということなのかもしれない。いずれにしても、レースには問題なく入っている。今更あれこれ考えても仕方が無い。

「まあ、いいか」颯太はそうつぶやいて、またレースに集中した。


 Aスピード社の中村聡子は東京駅にいた。ここで橘弘幸と待ち合わせて、東京マラソンのゴール付近で応援する予定である。もう2時間もしないうちに先頭はこの近くを走り抜けゴールするはずである。ゴール付近にはテレビ関係者や観客など早くも大勢の人が集まっている。駅の改札から出てくる橘を見つけて聡子は声をかけた。

「橘部長、おはようございます」

「おはよう。今日は天気に恵まれてよかったな」

聡子はスマートフォンでマラソンの中継を見ながら話しかける。

「今、先頭は5km位の所です。天津さんと江口さんは先頭グループにはいないようですね」

聡子は少し心配そうに話した。

「まだ序盤だからな。彼らにも作戦という物があるのだろう。俺たちは彼らを信じて待つしかないな」

陸上経験のある橘が言うのであれば、そうなんだろうと聡子は思った。まあ今さら自分たちができることはない。

「そうですよね、あの人たちを信じるしかないですよね」

聡子はそう言うと、2人はゴールゲート付近へと歩みを進めた。


 「さあ、選手たちは5㎞を過ぎ、飯田橋の交差点を右に曲がり、目白通りに入ってきました。先頭グループは、優勝候補筆頭のケニアのアモンディー、そして参加選手中2番目のタイムを持つエチオピアのソロモン、同じくエチオピアのハイレマリアム。あと数人外国人ランナーがいますが、後程確認します。日本人では日本記録保持者の伊沢隼人、同じくオリンピック代表の片岡明彦、九州電子の田中幸太郎も先頭グループについていっています。解説の金さん、日本記録を上回るスピードですが、日本人3人も先頭についていってますね」

「勇気ある挑戦だと思います。ここ数年、あまりの世界の進歩に日本人はついていけませんでした。しかし世界と戦うには、このペースにどれだけついていけるかだと思います。頑張ってほしいですね」

「この5kmは、概ね下りであったので、先頭は14分31秒という、とんでもなく速いタイムで駆け抜けました。ここからはほぼ平坦な道になります。日本人3人も先頭グループにいます。期待しましょう」


 まだまだレースは序盤だが、先頭グループは想定どおりのハイペースで進む。目白通りから靖国通りを通り、本の街神田を抜け、中央通りに入ると、間もなく日本橋の手前、10㎞のチェックポイントだ。先頭グループはこの5㎞を14分39秒で駆け抜ける。ペースメーカーは1㎞を概ね2分55秒のペースできちんと走っていた。颯太がいる第2グループは5㎞から10㎞を14分50秒でカバーしていた。こちらも予定通りのラップである。ここら辺ではほとんどの有力選手はまだまだ余裕がある。もちろん颯太も疲れなどなく、まだ元気だ。今日は風もなく、気温も暑くもなく寒くもなく、ちょうどよい。幸い足などにトラブルもなかったので、無理をせずついていけそうだ。周りを見ると江口も颯太の斜め後方にぴたっとついていた。颯太がちらっとみると、江口はにやりと笑った。

「あいつも好調のようだな」

颯太はペースメーカーに1㎞ごとに「2秒遅れたぞ、取り戻せ」など、予定のペースに遅れたら1㎞ごとに指示を出していた。自分の持つGPSウオッチで1kmごとのラップがわかる。そのとき以外は何も考えず、ペースメーカーの後ろに隠れるように走っていた。ペースメーカーが想定通りに走らず、あまりに先頭に離されると後半追いつくのは難しくなる。とにかくペースメーカーには30㎞までは設定されたペースより遅れないように頑張ってもらわないといけない。「たのむぞ」颯太はすぐ前を行くケニア人ペースメーカーにつぶやいた。


 「選手は日本橋を抜けて、浅草方面にむかって走ります。先頭グループは8人。この中に、伊沢、片岡、田中の3人もいます。伊沢は、ペースメーカーのすぐ後ろ、片岡は集団の中程にいます。田中は集団の一番後ろでねばっているという状況です。相変わらず日本記録を上回るスピードで走っています。後方の選手はどうでしょうか?第2中継車どうぞ」

「はい。第2中継車です。第2グループにつけています。こちらはトップとおよそ30秒遅れで、10㎞を通過しました。およそ10人が集団を形成しています。この5kmは14分49秒でカバーしています。1kmを、3分をわずかに切る速いペースです。ビッグスリーの1人である、佐藤卓もこの中にいます。佐藤は初マラソンでもあり、まずは落ち着いてこの第2グループにつけたといった感じでしょうか。表情はスタート時から変わらず、走りにはまだまだ余裕があります。給水も上手に取ったようですね。それから天津颯太、江口勝の神奈川電算コンビが、ペースメーカーのすぐ後ろで積極的なレースをしていますね。それから、メキシコのゴメス、モロッコのアサド、関東繊維の国松、ユニバーサルシステムの吉田などがこのグループにいます。以上です」


 先頭グループは、そのままのペースで蔵前を通過、隅田川沿いを北に走って、浅草寺せんそうじ雷門前を折り返し、15㎞を通過した。浅草寺や仲見世をはじめとする一帯は、外国人に最も人気の東京観光スポットである。日本独特の風土、文化が残り、近くには和菓子、洋菓子の専門店や手ぬぐいや財布などの土産物店もあり、落ち着いた風情も人気なのであろう。もっとも東京は、高層ビルやスカイツリーのような近代的な建物や、皇居や上野公園のように落ち着いた雰囲気の場所、新宿や六本木のように夜の華やかな街など、様々な顔を持つ街であるので、浅草だけが観光地とは言えないのだが、初めて東京に来た時に観光するには良いところかもしれない。普段は浅草寺や仲見世のお土産屋さんにいく観光客も、今日は東京マラソンを見ようとする人が多いようで、規制線が引かれた道路の外側に何重にもなって見物している。その中をトップランナー達は、猛スピードで飛ぶように駆け抜けていく。「飛ぶように」というのは大げさではなく、外国人ランナーはストライドが大きく、両足とも地面から離れている時間が長いので、まさに空を飛ぶように走っているように見えるのである。外国人ランナーとともに日本人ランナーが来ると、沿道からはひときわ大きな声援が飛んだ。そして、その後も続々と絶えることなくランナー達が駆け抜けていく。


 ここまでのところ、外国人ランナーもペースメーカーより前に出ることはなく、急激なペースのアップダウンといった駆け引きはしないようだ。勝負所はまだまだ先と読んでいるのだろう。そのおかげで日本人ランナー3人もこのペースに付いていっている。ただし先頭グループは日本記録をはるかに上回るペースできているので、このまま最後まで行くのは難しいだろうと思われた。ここまでの様子をテレビで見ていた大野は、「まずまず、予定通りかな」とつぶやいた。先頭グループのペースが極端に早いと、目標が見えにくくなり、颯太たちもあせるかもしれない。ペースの変動が極端で荒れたレース展開になることだけは避けたかった。なにしろ颯太も久しぶりのマラソンだし、そして江口はこれが初マラソンなのだ。多少心配していたが、今のところ彼ら2人の調子も問題ないようだ。

「よし、このままのペースで行け」

大野はテレビに向かって、そうつぶやいた。


 浅草を折り返すと、ランナーは蔵前橋を渡り、墨田区に入る。スカイツリーも見えるところだ。先頭は大相撲で有名な両国国技館の前を通過した。このあたりは東京の下町と言われるところである。大都会の高層ビルは少なく、昔からある商店や飲食店も多い。また、美術館や博物館なども比較的多いので、観光にもいいところである。この辺りは本来なら時間を気にせず昔ながらの情緒を感じながら、ぶらりと散歩を楽しみたいところだ。しかし選手たちはそういう下町の風情も感じさせないスピードで駆け抜ける。あっという間に永大通りを抜け、富岡八幡宮前で折り返すと、門前仲町の駅にたどり着く。そのすぐ先はもう21㎞あまりの中間点である。


 「さあ、先頭グループは折り返しを過ぎました。15から20㎞の5㎞も14分42秒、相変わらず1㎞を2分55秒前後の速いペースでカバーしています。依然として日本記録を上回るスピードです。先頭グループは、ケニアのアモンディー、エチオピアのソロモン、同じくエチオピアのハイレマリアム、日本の伊沢、片岡、田中の6人ですが、あーっと、ここで田中が少し遅れました。先頭グループとは5mの差。田中粘れるか。金さん、日本人選手の様子はいかがでしょう」

「はい、片岡は、表情はやや苦しそうですが、走りは乱れていませんね。まだ大丈夫ではないかと思います。田中は、ここで離されるとちょっと厳しいですね。なんとかねばって付いていって欲しいです。3人の中で、表情や走りから一番余裕があるのが伊沢ですね。まだまだこれからといったところでしょうか」

「伊沢と片岡、日本人2人が先頭グループで走っています。田中はちょっと苦しいか。先頭グループは5人となっています」


 永大通りを折り返すときに先頭とすれ違うので、先頭との距離がだいたいわかる。中間点での颯太達のいる第2グループと先頭との差はおよそ40秒、220mくらいだ。すれ違うときに観察したところ、先頭の6人は、田中幸太郎以外は皆好調のようだ。30㎞までこのペースで、行かれると、自分との差はさらに大きくなり、追いつけなくなるかもしれない。

「日本人選手はともかく、アモンディーら外国人選手は、30㎞までこのペースで行きそうだな」

トップグループの走りをみて、颯太はそのように感じた。予定通り30㎞までこのまま力をためて、残り12㎞で勝負をするか、またはこの40秒が追いつく可能性の限界と判断してここからペースを上げていくか、颯太にとって初めの勝負所であった。今のままのペースで行くと、先頭グループの外国人との差は30㎞地点ではさらに開くことを覚悟しなければならない。伊沢たちがこのままのスピードで行くかどうかは分からないが、外国人のペースはあまり落ちないと思われた。今ここからペースを上げれば、100%の保証はないが、うまくいけば先頭にも追い付くチャンスが生まれるかもしれない。しかし、失敗すれば、つまりここで無理をして、結果30㎞以降に失速したら、日本人1位も難しくなる。優勝の可能性を残すか、日本人1位の可能性を上げるかの選択だ。颯太は少し考えた後決心し、ペースメーカーにささやいた。

「Three seconds faster, please. (3秒上げてくれ)」

つまり、1kmのラップを2分58秒から2分55秒に上げろという意味だ。これは先頭グループのペースに匹敵する。

「俺の目標は優勝だ。その可能性を捨ててどうする」

颯太は自分自身にそう言った。

ケニア人のペースメーカーが、驚いて答える。

「Really? Are you planning to catch up with the first group? (何!おまえ先頭グループに追いつくつもりか)」

「Sure, of course. (もちろんだ)」

「…OK. Follow me. (わかった。ついてこい)」

いいペースメーカーだ。これで30㎞の地点で先頭との差をそれほど広げられずに済むかもしれない。少し無理をかけるが、引っ張ってくれよ。颯太は前を行くペースメーカーに心の中で念じた。そして大野コーチを思い、こうつぶやいた。

「コーチ、すまないな。遊んでいられるのはここまでのようだ」

驚いたのは、江口ら他の第2集団だ、なぜかペースが上がり、ほとんどの選手はついていけない。なんとか江口と佐藤だけは、急に上がったこのペースに必死についていった。江口は前を走る颯太を見てつぶやいた。

「天津さん、やってくれよりましたな。もう、勝手にペースメーカー操つるんやからー。わてらの事も考えてや!かなわんでー」


 その頃、先頭グループにいる伊沢隼人はレース展開について考えていた。このハーフの所まで、かなりのスピードで走ってきた。まあ、ペースメーカーの設定が速いので、順当といえばそうなのだが・・片岡と田中は30kmまで、このペースではついて行けないだろう。いずれその手前で脱落するだろうとみていた。自分はどうか?30kmまではついて行ける自信はある。しかし、そこから先の12kmは、駆け引きをする余裕があるかどうか・・・

 オリンピックに出て、世界の強者の実力は目の当たりにした。自分も5位に入賞したが、メダル争いには絡ませてもらえなかった。その後も次から次へと世界では速いランナーが湧いて出てくる。今、すぐ前を走っているアモンディーやハイレマリアムは、世界のトップランナーなのか?確かに、仮に今世界選手権をやったのなら、彼らがメダルを取る可能性は十分にあるだろう。それほどの実力者なのは間違いない。しかし彼らが現在のマラソン・ナンバーワンかというと、否だ。持ちタイムにしても、レースの強さにしても彼ら以上の選手は少なくとも3,4人はいそうだ。それに彼らは年齢などからしても今がピークと思われる。それなら、今アモンディーやハイレマリアムに勝てなければ、世界でメダルなんて取れるのか?そういう思いにとらわれざるを得ない。世界と渡り合っていくと公言した以上、自分はここで勝っておかねばならないのだ。

 大学を卒業し、日本1位を目指すのではなく、世界と戦っていくと決心した伊沢は、ストイックにハードなトレーニングをしてきた。日本人が普通にやるようなトレーニングでは世界に通用しない。実際にこの10年余り世界と競争してきて、その差は開くばかりであった。その差を埋めるにはどうすればよいかを常に考え、1000m、10000mのスピードを上げる練習、筋力アップのトレーニング、呼吸法からメンタルのトレーニングまでふつうの日本人選手がやらないようなものまで取り入れてここまで準備してきたのである。大学時代から「天才ランナー」、「走る精密機械」などとマスコミは持ち上げたが、伊沢はそんな評価は後から勝手につけられたもので、自分の考えとはまるで違うものであった。本来の自分は、決して妥協せず、泥臭く何度でも練習することで着実に力をつけていく。それによって初めて、フォームが安定し、故障が少なくなる。そして後半もスピードが落ちず、粘れるようになるのである。そういう、たゆまぬ努力で日本新記録を、オリンピック入賞を勝ち取ってきた。それは、まさに地道な努力が実を結んだ形だったが、今のこの時、外国のトップランナーを前にして、自分の望むものを得るにはまだ足りないのかと思わせた。

「30kmで終わるようなレースはしない。しかし、駆け引きができるような先頭との距離と、自身の体力は残しておく」

このままのスピードで42km走られたら、太刀打ちできない。しかし彼らも人間なので、疲れることはある。チャンスはあるはずだ。それが伊沢の出した答えであった。


 先頭グループは再び両国国技館前を通過し、蔵前橋を渡り、東京の下町墨田区に別れを告げる。そして再び東京の中心部、銀座方面に向かってひた走っていた。

「さあ、先頭グループは25㎞を過ぎました。相変わらず日本記録を上回るペースで走っています。先頭グループは5人です。やや縦長になりました。前を行くのはケニアのアモンディー、エチオピアのソロモンとハイレマリアム、日本の伊沢隼人と片岡昭彦は、先頭グループの後ろにつけています。解説の金さん、アフリカ勢、そして日本人選手の様子はどうですかね」

「はい、アフリカ勢の3人は、ペースメーカーの後ろにいて、無難で堅実な走りをしていますね。言うなれば勝負に徹した走りをしています。持ちタイムから見ても、このペースは問題ないと考えていると思います。伊沢と片岡はここまでハイペースでついて行っているので、その分当然ダメージはあると思います。これから30kmを過ぎて、ペースメーカーがいなくなるので、レースが動くと思いますが、外国人選手のスパートについて行けるか、あるいは自分で前へ出てペースを作ってみる。そういう駆け引きに対応できるかどうかが一つのポイントになると思います」

「優勝争いはこの5人にしぼられたと言っていいのでしょうか?それでは、第2中継車。後続のグループはどうですか」

「はい、こちら第2グループにつけています。第2グループは、今25kmを通過しました。驚くべきことが起こっています。このグループはペースメーカーを除いて、3人です。この第2グループの先頭は天津颯太、その後ろに佐藤卓と江口勝がついています。実はこのグループ、なんと折り返し地点からペースを上げていまして、1kmをだいたい2分55秒前後のペースで走っています。これは先頭グループとほぼ同じペースということです。そして、徐々に先頭グループから遅れた選手に迫ってきました。あーと、ここで前を走る田中幸太郎をあっという間に捉えました。並ぶ間もなく一気に抜いていきます。この3人は現在6位ということになります」

颯太達、第2グループの快走に、徐々にテレビで放映される場面が増えてきた。25kmを過ぎても颯太の走りは変わらず、フォームの乱れはない。表情も変わらないまま走っている。また、他の選手のほとんどがニューテクノロジー社のシューズを履いている中、颯太と江口の履いている「ウイングオブフット」が徐々にテレビに映るようになり、映像的にも際立って見えた。鮮やかな青色に白の翼が踊り、まさに大空を飛んでいるかのようである。

「天津颯太、ペースを上げています。佐藤卓と江口勝の、初マラソンコンビがこれについて行きます。東京マラソンはまれに見るスピードマラソンになりました。日本人3人が先頭グループを追っています。金さん、これは天津のスパートでしょうか?」

「いや、スパートにしては、まだ15km以上ありますので、早いと思いますね。ここから無理をしても最後まではもたないでしょう。しかしレースは諦めないという表れだと思います。天津君の走りをみると、表情にはまだ余裕がありそうですね。足も動いています。これは期待できますね。佐藤君、江口君も、初マラソンながらしっかりとした走りです。まだ疲れは見えませんね、大丈夫です」

「天津颯太、佐藤卓、江口勝の日本人3人が、ペースを上げて先頭グループを追いかけます。はたしてレースは、この先まだまだ波乱があるのでしょうか?東京マラソンは、これから再び東京の中心部、日本橋にもどり、さらに銀座へと向かう所です」


 その頃瑞穂テレビの放送センターでは、ディレクターの青木真理しんりがいらいらを募らせていた。レースは日本人の活躍もあり盛り上がってきたのはいいことだ。この分だと視聴率もよさそうだ。しかし、レースを盛り上げている立役者と言っても良い、天津颯太と江口勝の情報がほとんどないのだ。2人ともレース前には優勝候補にはほど遠いと見られており、天津は2年前にMGC予選で敗退した後の情報が無く、江口はこれが初マラソンで、大学時代に佐藤のライバルだったという以外はわからない。それでは一般の視聴者とたいして変わらないではないか。レース前の情報収集の甘さに、青木は怒鳴った。

「おい!江口は一般参加だから、情報が少ないのは仕方ないとしても、天津は招待選手だろう。だれが取材に行ったんだ」

取材班の一人の金本が、おずおずと答える。

「はい、望月アナがやっていると思いますが」

「望月。天津の取材はしたのか?」

「は、はい。一応しましたが・・・」望月は小声になりつつ返答した。なにしろ望月が取材したのは、レセプションの終わりに、立ち話で1分くらいのものである。たいした取材はしていない。初めから「どうせ使われない」と思って、おざなりな取材になってしまった。むろんここで使えそうな話題は取材できてなかった。

「それで、映像は撮ってきたのか」青木が問い詰める。

望月は「今回は、とにかくビッグスリーに焦点をあてる。ほかの選手はどうでもいいから3人を徹底的に取材しろと、あんたも言っていたじゃあないか」と思ったが、口には出せなかった。

「え、映像は撮っていません」

「ばかやろう。テレビが映像取らなくてどうするんだ」

「万一、天津が日本人1位にでもなったら・・・」そのあと青木が少し考えてから言った。

「そうなったときは、なりふり構わずゴールで徹底的に聞きまくれ!いいな。」

「はい、すみません」

望月は、とにかく謝るしかなかった。そういえば、天津はあのとき「優勝を目指します」とか言っていたな。あれは、“はったり”でもなんでもなかったということか。

「もしかしたら、あいつが狙っているは、伊沢でも片岡でもないのかもしれないぞ」

望月はそういう考えがふと浮かんだが、これ以上青木を怒らせてはまずいので、口に出しては言わなかった。


 「先頭グループは銀座の中心部に入ってきました。高級デパート、ブティックなどが並ぶ界隈です。日曜日ともなると買い物客でにぎわいますが、今日は東京マラソンを一目見ようとものすごい人だかりです。沿道は4重、5重に人垣ができており、建物の2階から応援する人もいます。うおーという声援の中、選手は猛スピードで駆け抜けていきます。先頭グループは間もなく30㎞を通過し、これからペースメーカーが外れ、優勝をかけた、そして世界陸上の切符をかけた本当の勝負が始まります」

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