第8話 立ち食いうどん

ぷりぷりの海老に、つゆでトロトロになった衣。

あの海老天は、いつ食べたんだっけか。


 駅のアナウンスと、たくさんの靴が通り過ぎる音が耳元で響いていく。それらの音は、これから食事に向かうはずなのに、胸の中のありもしない不安やモヤモヤをどうしようもなく煽ってくるのだった。

記憶がぼんやりと浮かんだのは、幼い頃。親と一緒に駅に来た記憶。確か、小さな舞台を見にきたのだと思う。少し早めに駅に着いて、夕ご飯もここで済ませちゃおう、と改札を出てすぐの右手にある『立ち食いうどん』屋さんに母に手を引かれ入っていった。

母が注文をする、のを聞きながら店内をチラッと見る。

黒っぽい服に身を包んだ大人たちが順番に並んで、コツコツと足早に横を過ぎ去っていく。「さ、食べよう」と母の声がして、ここはご飯を食べる場所なのだと思い出す。

立ち食いのために壁に取り付けられた台が自分には高すぎるから、一段低い場所で、大人の荷物と肩を並べて食べた。なんでだろう、味はろくに覚えていないのに、ツヤツヤと油で光るうどんが入った、あの大きな器の色は覚えている。母が黙って銀色の容器を器の上で振る。私の視線に気づいて、声をかける。「七味、使う?」私は首を振った。


 それから少し経って、友人と少し遠くの街へ出掛けることになった。いつもよりちょっとお洒落な洋服に肩を通して、お気に入りの鞄を手に持つ。電車を降りて、まだあまり見慣れない周りの風景を空気ごと吸って、吐き出す。お昼どうしようか、と友人に声をかける。「何でもいいや。どうしようね」と2人して同じような返答をしながら駅の出口へと進んでいく。改札を出て、周りを見渡す。目の前にはコンビニと、コンコース先にある幾つかの飲食店の看板が見える。少し歩いた先にはレストラン街を最上階に構える百貨店がある。さて、どうしようかな、と首を右に向けた。

久しぶりに、『立ち食いうどん』屋さんの暖簾をくぐった。うどんを頼んで会計を済ませると、おばちゃんがものの数秒で注文したうどんを出してくる。慌てて水を汲んで、席(?)に移動する。

あの日と変わらない姿をした麺を見つめて、啜る。ちゅるん、と唇の上を通り過ぎた感触に、味が口の中でふんわりと広がっていく。

映像は思い出せたのに、食べたはずの味はどうして忘れてしまったのだろう。

黒い器の上に箸を置く。あっという間に完食してしまった。少し遅れて完食する友人を待って、盆に乗った食器を返却口に戻して店を出る。


今は行かなくなって久しいけれど、家でテレビを見ながらのんびり食べるうどんや、お店で喧騒の中食べるうどんとはまた違う情景と味が思い出の中に揺蕩たゆたっている。今度こそこの味を忘れないうちに、またあの場所に行きたいものだ。

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