未だ温かな毒

御馬楠セカイ

未だ温かな毒


「ごめん。俺たち、別れた方がいいと思う」



 帰路、電車の中。広告をみると一話無料になるウェブ漫画を読んでいる時、画面の上の方にLINEの通知が表示された。


 心臓がぐわん、と揺れたことに、自分でも驚いた。


 正直、心当たりはあった。彼の好きと、自分の好きの間に、大きな差があることには気付いていた。


 もちろん、彼のことは好きだった。彼の、仲の良さそうな職場の話を聞くのは楽しかったし、寝顔は少しだけ北村匠海に似ていて、いつも可愛いなと思っていた。周りにいる人の中では、間違いなく一番大切にしたい存在だった。


 ただ、大好きではなかった。


 昔、大好きになった人たちがいた。大好きだった。その人たちを大好きだったとき、その人たちはいつも、全てを差し置いて、心の中の優先順位の一番上にいた。いつも、頭の中のどこかで、その人たちのことを考えていた。

 中でも一番、大好きだった人がいた。今でも、気を抜いた時に、口が勝手にその人の名前を呼んでしまうほど。自分に対して言う「落ち着け」が、頭の中で勝手にその人の声に変換されてしまうほど。大好きだった。片想いだった。

 きっと、愛していた。


 だから、彼のことは好きだけれども、大好きではないし、愛してはいないんだと、自分でもわかっていた。


 だから、手を繋いだ時の「大好き」にも、キスした後の「愛してる」にも、正面から返事をすることができなかった。なんだか曖昧に誤魔化すしかなかった。


 甘えていたな、と、今になって知った。

 辛い思いをさせてしまっていたんだな、と、今になって反省した。


 少し前に、大学の頃の先輩に勧められて、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んだ。正確に言えば、その途中までを読んだ。表紙から四分の三くらい進んだところに、ミュシャ展で買った『ハムレット』のブックマークを挟んだままだった。

 とにかく、最後の四分の一にどんでん返しがない限り、その本には、愛は育てるものだと書いてあった。落ちるものではなく、育むものだと書いてあった。


 そうなのかもしれない、と思った。


 その頃、同僚に勧められて、マッチングアプリを始めた。無料だったし、適度に自己承認欲求を満たせて楽しかった。実際に何人か会ってみて、面白いと思う時もあれば、嫌だなと思う時もあった。


 そして、彼に会った。初デートは、なんてことはない、普通の居酒屋だった。いぶりがっこを使ったポテトサラダが美味しかった。


 楽しかった。

 また会いたいと思ったから、LINEを交換した。


 数ヶ月後、付き合って欲しいと言われた。


 断る理由がなかったから、付き合うことにした。きっといつか、今ある気持ちを孵して、愛にすることができると思った。


 孵卵器の中の生温かさが、毒になることすら気付けずに。


 二人で行った定番の観光地は、これまで見た中で一番綺麗だった。よく行く小料理屋に連れて行ったときに飲んだ日本酒は、驚くほど美味しかった。カラオケの帰りにラーメンを食べて、心の底から「生きている」と実感した。

 胸の中を覗いてみると、そんな思い出たちが、何面にもカットされた色とりどりのビーズになって、シンプルで、白くて平べったい小箱の底にキラキラと転がっていた。


 心臓をぐわん、と揺らしたのは、多分この箱なんだと思った。


 シンプルで、白くて平べったいその箱は、蓋を閉めてしまえば、きっと目立つことなく、埋もれていってしまうだろう。その中身は、物で溢れかえって足の踏み場も無くなって、ようやく断捨離をしよう、というころに、数年ぶりか、数十年ぶりか、手に取って、この箱はなんだろう、と開けるその日まで、消えてなくなってしまうだろう。

 週末を長く感じたら、部屋を頻繁に掃除しなくなったら、また展覧会を一人で巡るようになったら。遠くない未来に、この蓋をそっと閉めることになるのだろう。

 箱の中で、ビーズがぶつかって音を立てた。


 さて、駅に着いた。既読をつけて、返事をしよう。



「話がしたい」


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