本を愛でるように女子高生を愛でられるか
箇条書き
本編
私の人生に与えられた長い長い夏休みの、その何十ヶ月目かのあの夏。
山に囲まれた田舎のあぜ道を、私は原付で駆け抜けた。澄みきった朝の空気を全身で感じながら。
働かないで味わう山の息吹は格別だ。無職最高。私が向かっているのは街の中央図書館だった。
開館時刻のちょっと前に到着し、定年男性の群れに混じって入館した。彼らはみんな、日当たりの良いラウンジを占拠して朝刊を読む。だが私が向かうのは地下一階の集密書庫だ。電動式の移動書架を通り抜けた先にある、穴蔵のような閲覧スペース――外界から隔絶した私の特等席。
ここなら私は、世界のあらゆるものから自由だった。働かなければいけないというプレッシャーからも、母親の過干渉からも。
私の母親――顔を合わせれば小言ばかりだった。部屋が汚い、女の子らしくおしゃれしなさい(女の子っていう歳でもないのに!!)、どうして仕事を見つけないの、婚活しないと行き遅れるわよ……。東京の有名大学に合格した時は、「あなたのおかげでとっても鼻が高いわ」なんてほめちぎっていたくせに。今では「そんなに本ばかり読んで、頭でっかちになるだけよ!!」「あんたは妹と比べて出来が悪いんだから、私がどうにかしてあげないとね」などと言われる始末。
放っておいて欲しかったけれど、生活面では母親に頼りきりなのも事実だった。
図書館の本たちは、そんな現実を忘れさせてくれた。引きこもりの鬱屈した気持ちを癒すような、そんな言葉を探して、古今東西の書物を読み漁っていた、あの場所。
そこで私は亜香理あかりと出会った。
図書館に勉強しにくる高校生は他にもいた。けれど亜香里は、彼女らとは何かが違う感じがした。
大学の過去問を解いている時のピンと伸びた背筋に、きりっとした思慮深そうな眼差し。綺麗系のはっきりとした顔立ち。肩までの黒髪、田舎育ちと思えない肌の白さ、汗をふくハンカチの薔薇の刺繍……、
部活はテニスか茶道か。生徒会なんかも似合いそうだ。友達は多いだろう。勉強も出来て社交性もあってみんなから頼られる。そんな優等生なのではないか。夏休みなのに毎日ここに来て受験勉強しているくらいだから……。
こんなふうに、相席した相手でいろいろ想像するなんて、ふだんは絶対しないことだ。しかしどういうわけか、彼女のことが無性に気になっていた。名前も知らない女子高生だけれど、互いに通じ合うものがある気がした。
一週間も経った頃にはすっかり情が移ってしまっていた。
教えてあげたい。その勉強のしかたでは、キミの目指している大学は合格しないのだと。彼女がいかに効率の悪い勉強をしているか、無駄に学歴のある私には分かるのだ。
でも当然ながら私には、名前も知らない女子高生に話しかける勇気などない。
だから自分も隣で外国語の勉強を始めてみて、単語の暗記の仕方やノートのまとめ方をそれとなく示したりもした。
それに影響されたのかは分からないが、本棚から大判の英和辞典をわざわざ持ってきて単語を調べることがあって、慣れない紙の辞書を小さな手でたどたどしくめくっているのが可愛らしかった。
また、同じように私の真似をしているのか、勉強の息抜きに書庫を散策して、気に入った本を持ってくることもあった。ヨーロッパの古城の写真集を眺めている、その横顔を眺めているのが好きだった。
明らかに、私が悪影響を与えている。それに気がついたのは、亜香理が書庫から息抜き用の本をどっさり持ってきた時だった。もはや読書が目的で、勉強が息抜きみたいになっている。私は自責の念にかられて、思わず、
「ダメでしょ! もっと集中しないと」
そう突っ込んでしまい、突っ込んでしまってからハッと我に返った。
当然、亜香理はびっくりしている。
「あ……」
なかったことにしたかったけれど、もう目が合ってしまっていた。真っ白になる頭。みっともなくうろたえて、言葉が出てこない。
そんな私を見て、亜香理の顔はふわっとほころんだ。なんて子どもっぽい笑い方。これがあの凛々しい横顔と、同じ人間のものなのか。
それから私はちょくちょく亜香理に勉強を教えるようになった。
分からなさそうにしている時に「分からないの?」とささやくと、頬を染めながらコクリとうなずくのだった。
彼女、独学にしてはかなりの実力があったのだが、本人の自己評価は低かった。夏休みの計画が崩壊したのが追い打ちをかけて、さらに自信をなくしているところだった。
だから、私はよく亜香理のことをほめた。勉強のことでも勉強に関係なくても、とにかくよくほめた。
「前に教えた単語、ちゃんと覚えられててえらいね!」
「今日の髪型、決まってるね! 可愛い!!」
「(食堂で食器を返す時に)ごちそうさまでしたって言えてえらいね!」
自分がほめられないことをしている分、亜香理をほめた。すると亜香理はよく笑うようになった。
私が時々うっかり訛ってしまうのを聞いて笑う(自分だって訛っているのに!)。私がおしゃれだと思って被っていた、青い鳥の刺繍がしてある麦わら帽子を見て笑う。使っているシャーペンが一緒で笑う。整った表情を子どもみたいに崩して笑う。
亜香理の笑いのツボはよく分からなかった。
「おめでたい頭をしているね」
と呆れて言うと、ほめられたと勘違いしたのかとても嬉しそうにしていた。
こんなこともしょっちゅうあった。
談話室で紙コップのコーヒーを飲みながら、私は亜香理の話を聞いている。
「大人ってバカですよね! 自分たちは遅くまで飲んで帰ってくるくせに、『夜出歩くな』だの、『携帯は持ち歩くな』だの……」
亜香理は親の言いつけにしたがって、午後4時の最終バスに乗らなければならなかったのだ。本当は閉館時刻まで残って勉強したいのに、である。
「それはきっと親心でさ、心配して言ってるんだよ。亜香理ちゃんはホラ、そういうこと、あんまり知らないみたいだからさ」
田舎の若い男女が夜中に会ってすることとか。
「何も知らないのは親の方ですよ。原宿も中野ブロードウェイも知らないくせに、東京なんて行くな! 大学なんて行くな! なんて。つくづく、あんな大人にはなりたくないと思いますね!」
そう言う亜香理だって、原宿や中野で何が売られているのか全然知らないのだ。とにかく、東北の田舎にはないキラキラしたものが、東京にはある。そう思っているらしかった。
「亜香理ちゃんは将来、どんな大人になりたいの?」
「働かないでのんびりぐーたら過ごしたいです!」
大真面目にそう言うので、こっちは脱力してしまう。
「そんな大人尊敬できるの? 社会人の経験も何もなくて、子どものまま年を重ねてくんだよ?」
「働く苦労なんて何も知らないで、優雅にコーヒー飲みながら読書するのが格好いいんです!」
と、キラキラした目で私を見ながら言う。物事を知らなさ過ぎて、こういう馬鹿なことも平気で言えてしまうのだ。
実際、無知、というのが彼女の一番の強みだった。苦労や挫折を知らないからこそ、がむしゃらに前進できる――私にはない力。
そして、無知ゆえに彼女はたくさんの質問をしてきた。
「いつも何の本を読んでるんですか?」
「どうしたら先生みたいに頭がよくなれるんですか?」
「どうして勉強しなきゃいけないんですか?」
私はそんなことを聞かれるたびに、格好つけたくだらない人生観を披露した。
「勉強は、本を読むためにするんだよ」
「本を読んでどうするんですか?」
「言葉を探すんだ。可愛いものだったり、綺麗なものだったり、心ときめくものを表す言葉を。そして、その言葉で世界を閉じ込めるんだ。一冊の本の中に。私が読んでいるのはそんな本だよ」
「言葉で世界を閉じ込める」……本ばかり読んで頭でっかちになっている人間特有の言い回し。今思い出しても顔から火が出そうになる。
「『言葉で世界を閉じ込める』……?? 例えば?」
「例えば……そう、例えば……」
言葉につまった。何もかもがみずみずしい亜香里を目の前にしていると、これまで自分が閉じこもっていた世界が、急に色あせてくるような気がした。
「……『先生』かな。私は。世界を閉じ込める言葉」
風にそよぐ柳のように、さらりとそう呟いたので、ドキリとした。冗談にしては恥じらいが無さ過ぎる。
「じゃあ私は『亜香里ちゃん』かな」
「『じゃあ』ってなんですか! それに、それって本とか全然関係ないじゃないですかー」
怒ると目尻がちょっとだけ上がるのが可愛かった。
どんなに馬鹿げたことを教えても、彼女は全て鵜呑みにしてしまう。きっと、私がこの世のすべてを知っていると勘違いしているのだ。こそばゆかったけど、そんなふうに年下から尊敬されるのは初めてで、嬉しかった。
けれど、良心の呵責に耐えられなくなるのは時間の問題だった。
「どうしたら、先生みたいに、綺麗でかっこよくなれるんですか?」
「好きなことを仕事にするにはどうしたらいいんですか?」
答えられない質問をされて、とうとう勇気を振り絞って告白した。
本当は働いていないのだと。東京で就職活動に失敗して、田舎の実家に引きこもっているのだと。
「えぇ!? 働いてないんですか? 『言葉で世界を閉じ込める』という仕事をしているのかと思ってました」
どんな仕事だよそれは、と心の中でツッコミながら、私は頭を下げて謝罪する。
「黙っててごめんね。幻滅したでしょ、こんなに格好の悪い大人で……」
私を軽蔑するどころか、特に驚きもせず、亜香里は私の目をじっと見て言った。
「大丈夫だよ。先生は瞳が綺麗だから」
「どういうフォローなの、それは」
私が呆れていると、無遠慮にぐいと顔を近づけてきた。
「よく見せて」
10も年の離れた女子高生と至近距離で見つめ合う。気恥ずかしくて目を反らしたくなるのを我慢しながら。
亜香里の瞳は神話の森の湖みたいに澄んでいた。私の瞳はどう見えるのだろうか。
「本当に綺麗。いい加減な大人とは違う、世界の本質が見えてる目」
「世界の本質」なんて難しい言葉をいきなり使ったものだから、私は思わず吹き出してしまった。
「何? 何? どういう意味なの。『世界の本質』って」
からかうようにそう言うと、亜香里は顔を真っ赤にして、
「もう、せっかくほめてあげたのに。先生ひどい」
とすねてしまうのだった。
「世界の本質」……本人もよく意味の分かっていなさそうな言葉を使って、特に深い意味はなかったかもしれない。
しかし、私はそれで心が明るくなった。
自分はそんなふうに見えているのか。今まで否定され、否定し続けてきた人生が、それで一気に報われた気がした。本ばかり読んで頭でっかちになっているからこそ、世界の本質が見えるのだ。
世界の本質が見たい。
私は目の前の亜香里を見てそう思った。これまでのいろんな場面の亜香里を思い返して、さらにそう思った。
背筋をピンと伸ばして机に向かいながら、机の下では子どもっぽく足を揺らしている亜香里。
難しい問題が自力で解けた時に、やったーと声をあげ、弾ける笑顔を私に向ける亜香里。
20歳になったら何がしたい、と聞いて、「『今晩飲みに行きませんか?』って先生を誘ってみたい!」とはしゃぐ亜香里。
バレエみたいにくるっと回りながら、華麗なステップで自販機のアイスを渡してくる亜香里。
彼女の所作の数々に、表情の端々に、ことばの隅々に、本には書かれていないような世界の本質が隠されている気がした。
気がつけば私は、どうしたら亜香里に喜んでもらえるか、彼女のことばかり考えるようになっていった。
亜香里の部活はダンス部だった。
それを知ったのは、珍しく落ち込んでいる彼女の相談に乗っている時だった。
「今の亜香里ちゃんの実力なら一般入試でも大丈夫だって! なんだったらもっと上の大学だって……」
成績も出席率も全く問題ないし、短期だが留学もした――にもかかわらず、東京の有名大学への指定校推薦が取れなかったというのだ。
「ダメなんです。元から反対されてたんです。東京に行くの……推薦がダメだったら、地元の大学にしろって。何言ってもその一点張りで」
亜香里の家は代々県議の家系で、星一徹のような昭和の頑固親父が権力を握っているのだ。
「やっぱりもっと活動実績のある部活の方が良かったんですかね……あるいは生徒会とか」
私は亜香里に、ここで負けて欲しくなかった。こんなことで自分の限界を知って欲しくなかった。だから思わず叫んだ。
「そんなことないっ!! ダンスの方がずっと格好いいっ!! 見せてよ! 亜香里ちゃんのダンス!!」
顔を上げた亜香里の表情が、ふっと明るくなった。それが嬉しかった。
図書館に隣接する市民センターの、誰もいない体育館の中にふたりきり。大人っぽいK-POPのアイドルソングがミニコンポから流れ、亜香里は私だけに自分のダンスを見せてくれた。
そしてそれが終わって、はにかみながら私に感想を聞く。
「どうだった?」
言葉にできなかった。
しなる四肢、うねる腰、振り乱す髪、情熱的、野性的、官能的……、たくさんの観念が一度に押し寄せてきて、処理できなかった。
ただ一つ言えるのは、亜香里は自分が思っているほど子どもじゃない、ということだった。
「いつもそんなふうにして男の子を誘っているの?」
「どういうこと?」
きょとんとされることで、自分がいかにトンチンカンなことを言っていたか気づく。
「ねえ、一緒に踊ってみようよ」
最初はふざけて言っているのだと思ったが、亜香里は何度も何度も私の手を引いて、私を誘ってきた。どうやら本気で踊らせたがっているらしい。
「無理だよ! 絶対できっこないって!」
「大丈夫、一から教えてあげるから」
大丈夫だ、いやできない、の押し問答がしばらく続いた後、私の必死さに気圧されて、とうとう亜香里が折れた。
「先生だったら絶対かっこいいのに……」
しょんぼりと肩を落とす亜香里。ずるかった。そんな顔をされたら、嫌だなんて言えるわけがない。
「……アラサーの体は安くないよ」
頭の中ではリズムに合わせてステップを踏んでいるつもりが、鏡の中の自分は、よたよたふらふらしている老人のようにしか見えなかった。ゲラゲラという亜香里の笑い声が、体育館中に響き渡る。
「何それ、昭和の踊り?」
「昭和はさすがに馬鹿にしすぎ! 馬鹿にするんならやらないよ!」
「ごめんごめん」
恥ずかしくて全身が灼けるようだ。そんな私の背後に亜香里はすっと回り込み、何をするの、と尋ねる間もなく、腰の左右をいきなり両手で掴んできた。危うく叫んでしまうところだった。
「意外といい腰してるよね。服で隠れちゃってるの、もったいないよ」
無自覚なのか、私をからかってそういうことを言っているのか。後者であれば許しがたい。
「もっと腰をくねらせて! それで両手をこう、左右にぶんぶん振って……『蜂に襲われながらも蜂の巣を手放さない熊のポーズ』っっ!!」
「そんなポーズあるんだ……」
背中にぴったりくっつかれた状態で、私は亜香里に両手を掴まれ、操られ、されるがままだ。私の腕の柔らかいところは腰以上に敏感で、声を上げそうになるのを我慢してびくびく震えながら、悔しさを噛みしめる。
これじゃあまるで、お遊戯の指導をうける子どもみたいだ。しかも相手は女子高生。自分はアラサー無職。年下にこんなふうに、いいようにされてしまうなんて……。
「無理だよ。覚えられないよ。こんな難しい振り付け……」
「大丈夫、先生ならできるよ!」
「何を根拠に、そんな……」
「……『亜香里ちゃんならできるよ』って、いつも言ってくれるじゃん。そう言ってもらえるだけで、すごく嬉しいんだよ、私。だから」
そんなの、勉強させるために適当にハッパをかけてるだけだ。亜香里は子どもだからそれに騙される。私は大人だから、そんな言葉に釣られはしない……。
でもどうしてだろう。どうしてこんなに嬉しい気持ちになるんだろう。
そうか。今さら気づいた。もう敬語じゃなくなってる――友達になれたんだ。10も年の離れた女子高生と。
亜香里の躰が放つ熱、息遣い、甘い匂い――本の世界にこもったままでは知り得なかった、生(なま)の質感。気がつけば、亜香里との距離はこんなにも近かった。
この距離感は、現実のものだろうか。それともふたりの間には、どうやったって縮められない心の距離があるのだろうか。そのことだけが、ずっとひっかかっていた。
それからしばらくの間、私たちはほぼ無言でダンスの振りを合わせた。森の妖精のような亜香里の踊りにずっと見惚れっぱなしのまま、私は必死にその動きを追う――。無心にそうするうちに、ダンスのコツは不思議とつかめてきた。
本当に、彼女とシンクロしているかのようだった。身体だけでなく、心も。
「先生、いい感じ! 大人の色気、出てきたねっ!」
「大人をからかうなっ!!」
亜香里の持つ質感を、ほのかに感じるだけでは嫌だった。直に手で触れたかった。身も心も重ね合わせたかった。
(私は、亜香里のことが好きなんだ)
その気持ちを言葉にするや否や、もうひとりの私が私を非難する。
そんなのおかしい。普通じゃない。だって亜香里と私はいろいろ釣り合わない。
常識や正論を語ろうとする私に、私は反論する。
それは誰かに思い込まされたことじゃないのか。亜香里に迫って失敗するのが怖いから、自分にそう言い聞かせているだけじゃないのか。
――失敗? でも亜香里は私のことを、綺麗でかっこいいって言ってくれたじゃないか。世界の本質が見えているって言ってくれたじゃないか。
でも、本当にその言葉を信じていいのか? その言葉に気持ちはこもっているのか? 歳が10離れているだけで、なんでわざわざこんなことを考えなくてはならないのか。
その時だった。歌の最初から最初のサビまで動きが完璧に揃ったのは。
「今! 今ぴったりだったよ!!」
「うん!!」
目と目が合うや否や、亜香里はがばっと抱きついてきた。
それが嬉しくて、私も強く、つよく抱き返す。
「言った通りでしょ。『先生ならできる』って」
「本当にそう思ってた?」
「……もちろん!」
「今ちょっと考えたでしょ」
「そんなことないってば~あはは」
手と手を合わせて指を絡ませながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねる私たち。まるで小学生みたいだった。
わたしは亜香里と同級生で、学校が終わったら誰も知らない秘密の場所に集まって、ランドセルを下ろしてダンスの練習をして……そんな想像の中で、私は世界の本質に触れた、気がした。
その勢いで私は就職活動を始めた。
「先生ならできる」と励まされた以上、格好悪い大人のままではいられなかった。
けれどもそれは、はなから勝ち目のない戦いだった。この街のどこで働こうと、この街に住んでいる以上、母の干渉から逃れることはできない。かといって家を出ていくほどの経済力はなかった。
自由を諦めて母に服従すること。同時にそれは、亜香里への想いを諦めることを意味していた。
でもそれでいいんだ。格好いい大人と思われたまま、亜香里と別れたい。そもそも自分はアラサー無職。同性の高校生と深い仲になるなんて、世間が、彼女のご両親が許すわけがない。
そんなふうに考えることで、本当の気持ちに蓋をしていた。
結局、世界の本質を手に入れられる自信がなかったんだ。図書館で亜香里と逢うことも、日に日に少なくなっていった。
冬の訪れも間近なその日、季節外れの大雨が街を覆った。
話したいことがある、と談話室に呼び出されて、ドキドキしながらついていく。
「じゃーん!! 見て見て!」
部屋に入るなり目の前に広げてきたのは、秋にあった全国模試の成績表だった。
第一志望、A判定。古文は満点。最後の記述問題は全国で亜香里ひとりしか完全正解していない。
「どう? すごいでしょ。会わないうちに頑張ってたんだよ」
にぃーっと自慢げに笑い、ブイサインを突き出す。
あの亜香里がここまで成長するとは。これが亜香里の才能なんだ。私の目に狂いはなかった。亜香里の中には世界の本質がある。
「すごいよ!! こんな順位私だって取ったことないよ!」
「えへへ……じゃあお願い、聞いてくれる?」
すり寄るように近づいて、上目遣いで私を見てきた。一体なにをお願いされるんだろう。
「何?」
「……頭」
スッと頭を下げて、可愛らしいつむじを私に見せる。
「撫でてください……あたま」
なんだ、そんなことだったか。
ホッとしながらそっと黒髪に触れる。上等な絹みたいな感触だ。そのままゆっくりと撫で続けた。
私はちょっと驚いていた。亜香里がこんなふうに自分から甘えてくることは、ほとんどなかったから。けれど私は、その違和感をすぐに忘れてしまった。それくらい亜香里の質感に酔いしれていた。
「先生に撫でてもらったら、もっと頭が良くなる気がする。先生の大学にも、合格できるかもしれない」
「そうだね。この成績を見せたらきっと、親御さんも上京を許してくれるはずだよ」
「……うん、そうだね」
しばしの沈黙。嵐はいっそう激しくなっていった。私に何かを訴えるかのように、雨粒が窓を叩く。
言おう。言うべきだと思った。亜香里の頑張りに報いなければ。
「合格祝いで買って欲しいもの、ある?」
「ええー、悪いよ! だってお金、ないんでしょ」
「大丈夫。2月までにはお金、たまってると思うから」
亜香里は目を丸くして、私を見つめた。
「先生働くの? ……いつから?」
「仕事が見つかったら、すぐ」
亜香里の声のトーンは目に見えて暗くなった。
「どうして急に」
「亜香里ちゃんと釣り合う存在になりたいから」
「どういうこと?」
「……亜香里ちゃんと、今よりももっともっと仲良くなりたいから」
怖かった。本当の自分をさらけ出して、亜香里から嫌悪の眼差しを向けられることが。この関係が壊れてしまうことが。
だからこれが、私にできる精一杯の告白だった。
「何言ってるの。もうすでに十分仲いいじゃん」
そうか。亜香里はこれ以上、私と仲良くなることを望んでいないんだ。
その後はスマホでツーショットをせがむなどいつも以上に騒がしくしてから、バスに乗って亜香里は帰った。
去り際に彼女が残した、「先生ってやっぱり優しいんだね」という言葉が頭に残っていた。
私は優しくなんかない。ただ弱いだけだ。今だって告白に失敗して、後悔して後悔して震えるばかりだ。私が出来るのは、今も昔も同じく、本の世界に逃げ込むことだけだった。
ひとつ調べたいことがあって、集密書庫に向かった。
全国で亜香里しか解けなかった古文の問題文、『伊勢物語』の一編「芥川」――、高校生のときに読んで、とにかくわけがわからない話だった、という覚えはあるのだが、その内容はどうしても思い出せなかった。亜香里ごときに満点が取れるのだから、今の私ならきっと理解できるに違いない。
電動書架を動かして作った、人ひとり分の幅しかない狭い通路の中で、日本古典文学全集の何巻目かを手に取る。早速見つかった。私は踏み台に腰かけて「芥川」を読んだ。
昔、ある男が身分の高い女に求婚していたが、かなわず、屋敷から女を盗み出して逃げることにした。逃げてくる途中で女は、川辺に生えた草におりた露を、「あの光るものは宝石ですか?」と男に聞いた。
そうして芥川のそばのあばら家で、ふたりは夜を明かしたが、明け方、女は突然現れた鬼に食べられてしまう。男は、逃げてきた時のことを思い出して歌を詠む。
「白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを(「あれは宝石ですか?」彼女が尋ねた時、「それはただの露だよ」と答えて、自分も露のように消えてしまえたら良かったのに)」
どうして急に鬼が出てくるんだろう。どうして女は鬼に食べられなければならなかったのだろう。そんなことを考えながら、一方で、それとは全然関係のないことを考えていた。
ふつう模試の結果が返却されるのは、受験してから一か月後ぐらいだ。となるとさっきの亜香里の成績表は、遅くても先々週には彼女の手元にあったはず。
どうしてすぐに教えてくれなかったんだろう。その理由をいつか、亜香里は教えてくれるだろうか。そもそも亜香里と会えるのは、あと何回か。辛い、考えたくない――。
背後で物音がした。
通路の出口を塞ぐように立っていたのは、ずぶ濡れになった亜香里だった。
「どうしたの!? バスで帰ったんじゃ……」
唇をかみしめたまま、私をジッと見つめる。いつになく真剣に、何かを伝えようとしていた。
「……帰らなくていいの?」
親御さんに怒られないの? 聞きたいことはいろいろあったけど、我慢した。
「先生とね、もっとお話がしたくて」
ぎこちない笑顔。ブラウスの袖をつかむ指。スカートの下から生えた、交差する白い足。言葉を絞り出そうとして体を捻じらせている、そんな体勢で、亜香里はすう、と息を吸った。
「先生は、誰かと付き合ったことありますか」
質問の意図が読めなかったが、私はいつものように、冴えない話を精一杯盛って格好つけた。
「学生の時に何人か。だけど、だいたい“お試し期間”中に解消したなあ。理想が高かったのかも。それか、まだ子どもだったのかも」
女王様みたいで格好いいですね。そんなふうに言ってくれるのを少し期待していた。
けど甘かった。亜香里の表情は暗くなるばかりで、「そんなことが聞きたいんじゃない」と言わんばかりの反応だった。亜香里の心が本当に見えない。
「先生は本当に、大人になりたいの?」
「……どういうこと?」
「本当はずっと引きこもっていたいんじゃないの? この図書館に」
見透かされているようで怖かった。嫌われるのが怖くて、亜香里から逃げようとしていることが。
「いつまでも自分の世界に引きこもっているわけにはいかないよ。亜香里ちゃんがあんなにいい成績取ってがんばってるのにさ」
「……だから嫌だったんだ。教えるの」
小さい声だったからよく聞き取れなかったし、その意味について深く考えもしなかった。その時は。
「うらやましいなあ。亜香里ちゃんには未来があって。大学にも行けて、東京にも行けて、何にでもなれる。どんな大人になるのか楽しみだよ」
彼女の機嫌を直すためにそう言った。そんな言葉が、図らずも彼女の心の起爆スイッチを押した。亜香里は爆発した。
「私は嫌だ!! 先生が大人になるのも、私が大人になるのも……だって忘れちゃうでしょ、私のことなんか!」
書架の中で叫び声が反響する。幾重もの電動棚が遮音壁となるからか、書庫の外の誰かが気づくことはない。
「なんでそんなこと言うの!? 忘れないよ……忘れるわけないよ!!」
「先生は優しい・・・からそう言ってくれるだけでしょ!? 本当は私のことなんか、なんとも思ってないよ!」
信じられなかった。私たちの心の距離は、こんなにも――こんなにも離れていたのか。
「でもそんな優しさ、もういらないから! さよならっ!!」
これ以上涙に濡れた顔を見せたくなかったのだろう、きびすを返して私の元から去ろうとした――、
そんな亜香里の腕を私は掴んだ。呼び止めるよりも先に、体が動いていた。
逃がしたくなかった。私のものにしたかった。
だから腕を背中に回して、一気に抱き寄せた。抵抗は、されなかった。四方を本の壁に囲まれているから、ここなら誰にも見られない。
そういう雰囲気を察してか、身を寄せる亜香里の躰から力が抜けた。
二の腕にしがみついて、胸のあたりに顔をうずめる。そこから漏れ出る嗚咽。小さな身体がひくひくと震えていた。
「ずっと怖かった……弱いところを見せたら、先生に見捨てられちゃうから。本当はずっと一緒にいたかったの!!」
そうか――東京の大学を第一志望にしたのも、模試で良い成績を取ったのも、そうしなければ私に失望されると思ったから……。
「私だって本当はずっと一緒にいたいよ。でもいつか、私たちは……」
せつなくて、それ以上口にしたくなかった。
何故ふたりは離れなければならないのか。
何故ふたりは釣り合わないのか。
何故女子高生に手を出してはいけないのか。
何故かなんて考えるな。とにかくダメだ、ダメだ、だからお前はダメなんだよ。
常識が正論が私を否定する。
――でも負けない。本たちが、亜香里が味方になってくれるから。
常識がなんだ。正論がなんだ。そこに私の求める世界の本質はない。
今こそ、世界の本質を手に入れる時だ。
私は亜香里の唇を奪った。
世界の本質はつるつるふかふかしていて、洋書の上質な革の装丁みたいな味だった。亜香里は一瞬身を硬くしたが、すぐにやわらかくなった。
唇を離して、私は彼女の耳にささやく。
「逃げちゃおうよ」
この場所から。街から。私たちを縛る全てのものから。
閉館時刻をとうに過ぎて、夜中10時。
ハイビームで暗闇を切り裂き、曲がりくねった峠道をひた走っていた。
「街、出ちゃったね」
「……出ちゃいましたね」
止まない雨が、車のフロントガラスをとめどなく濡らす。ワイパーで拭っても拭っても、一向に先は見えなかった。私たちが進むべき道も、未来も。
車内は助手席の亜香里のバニラみたいな香りで満ちている。さっき、コンビニのタオルで亜香里が髪を拭いたからだ。その芳香に焚きつけられて、緊張と興奮でどうにかなってしまいそうだった。
亜香里はどうだろうか。表情はよく分からなかった――ガラスを伝う雨に道路灯の光が差し込んで生まれた、縞模様の影に隠されていた。
「ふわぁーーっ、ふしゅるるる」
突然、なんの生き物の鳴き声か、と思ったが、それは亜香里が洩らしたあくびだった。今まで見せてくれなかった、彼女の子どもっぽい一面。
「眠くなっちゃった?」
「先生、私のこと子どもだと思ってない?」
亜香里は怒ったように言う。
「違うの?」
「違います。夜ふかしだってできるもん」
「へぇー、夜ふかしして何するの?」
笑いをこらえながらそう聞いてみる。
「先生と会ったらどんなこと話そうかとか、ずっと考えたり……あとは」
「あとは?」
「どんなふうに困らせたら、先生の可愛いところが見れるかな、とか」
小悪魔めいた微笑が闇に浮かぶ。ずいぶんと挑戦的ではないか。
「キミみたいな小娘に弱みをにぎられるような私ではないけどね」
「あっそう。じゃあここに入っているもの、見てもいい?」
「え……」
背筋が凍った。亜香里の足元の収納ボックスには、彼女が乗り込む直前に慌てて片づけた、タオルケットやらシートカバーやらが詰め込まれていたからだ。どれもこれも母親が勝手に残していったもので、ファンシー過ぎて子供じみた柄だった。そんな恥ずかしい過干渉の痕跡を、亜香里に見られるわけにはいかない。
「先生、意外と可愛いものが好きなんだね。なんで隠したの?」
「見たのっ!?」
「えへへ、先生がコンビニ行ってる時に」
オレンジ色の電灯に照らされて、愛嬌で出した亜香里の舌が妖しく光った。
「亜香里ちゃんはいつからそんなに悪い子になったのかな? 悪い子にはお仕置きしなきゃね」
脇腹を2、3回つつかれて、亜香里は黄色い声で叫び、バタバタ身をよじらせた。
こんな、小さい子どもみたいにはしゃぐ亜香里を見るのは初めてだ。
図書館の外でこの子がどんな娘なのか。今の私はそれを知ることができる。そういう関係になったんだ。
「ふふふ……」
亜香里がまた謎のツボにはまって笑い出した。
「どうしたの?」
「先生、なんでまだヒソヒソ声なの? そんな必要ないのに」
「ふふっ、確かにそうだね」
クスクス、クスクス。ふたりでいけない遊びをしているかのような背徳感。共犯者となった亜香里には、なにをしても許されそうな予感がした。
「後悔してない?」
「全然。あの家に帰らなくていいと思うと、せいせいする」
彼女の頑固親父は最大の障害だった。私との関係なんて認めるはずがないだろう。だから逃げるのだ。
「これから、どこに連れてってくれるんですか」
私を完全に信頼しきっている、甘えたような声色――後ろめたくて、ハンドルを持つ手がびくりと震えた。
そんなふうに信頼されたって、自分には何もないから。
知識もない経験もない、計画性も経済力もない、あるのはただ、亜香里を自分のものにしたいという欲望だけ。
そんな自分、絶対亜香里に見せられなかった。――いや、いずれは見せなければならないのか。図書館の外の自分を見せることは、図書館の外の亜香里を知るために支払わなければならない対価なのかもしれなかった。
「何も考えてないよ。私、亜香里ちゃんが思ってる以上にダメ人間なんだ」
衝動的に言ってしまってから、じわじわと後悔した。これではまるで予防線を張ってるみたいじゃないか。最低だった。
案の定、亜香里はしばらく口をつぐんでいた。沈黙が怖くて、「ってのは冗談だけどね」と言いかけたその時、彼女が口を開いた。
「私にも見えるようになったかもしれない。世界の本質」
闇の中で亜香里が私を見ていた。湖面に浮かんだ満月のような瞳で。
「なんだったの? それは」
「世界で一番格好いいのは先生だってこと」
声の響きから分かった。これが、亜香里のまごころなんだ。亜香里は、私がどんな人間だろうと、これから私がどんなことをしようと、きっと私を許してくれるだろう――私は泣きそうになった。
「で、本当はどこに行くつもりなんですか」
亜香里は再びそう尋ねる。
「お城に行くんだよ」
「お城?」
「山を越えて、そのまた次の山の、深い森の奥にそびえてる、おとぎ話に出てくるような、石造りの、西洋のお城――恋人たちが、二人きりで夜を過ごすところ」
「そんなお城、本当にあるの!?」
蜂の巣を見つけた熊みたいに食いついてくる。
「あるよ。この道をまっすぐ行った先に」
田舎によくある、バブル期に建てられた成金趣味のラブホテルが。
「すごい! 先生、どうして知ってるの?」
私だけじゃない。あの街の誰もが知ってることだ。夜遊びの場所を一つも知らないのは、箱入り娘の亜香里だけ。
「行ってみたい?」
彼女はうなずく。夢見るようにうっとりとして。
そんなにあっさり信じないでよ。これ以上、私の良心を痛ませないでくれ。
でもまあいい。さすがの亜香里でも、実物の「お城」を目にしたら、いい加減目が覚めるだろう。拒絶されるならされるで、それで良かった。
いつの間にか嵐は止んでいた。
ただ立ち並んだ黒い杉だけが、山頂から下りる風を受けて生き物のようにそよいでいる。まもなく到着する、と思った時、ズシン、ズシンと地鳴りのような重低音が遠くから響いてきた。
何あれ、と隣の亜香里が叫ぶ。
暗闇に閉ざされた森の中で、そこだけが異様に照り輝いていた。木立の向こうでなにか巨大なものが光を放っているのだ。季節外れのホタルが、おびただしい数の群れを成して飛び回っているようにも見えた。
林道を通り抜けた私たちの前に、それは姿を現した。木にも建物にも幾重に巻きつけられた、七色に輝くイルミネーション。1000は優に超えそうな数の電球が、波打つように点滅していた。
「先生すごい! ホントのホントに、ほんもののお城だよ!!」
亜香里は、私の肩を揺すって興奮していた。私も思わず息を飲む。
ごつごつした石の外壁。唐草模様の窓格子。尖り屋根の塔。……確かにそこには“ほんもののお城”があった。
安っぽいネオンの看板『ホテル・ルートヴィヒ2世』、外壁も窓格子も尖り屋根も全てまがいもの。駐車場では不良青年たちがカーステレオをかけてたむろしている。ズシン、ズシンと爆音で。
そんな有様にもかかわらず、私にはそれが“ほんもののお城”だと思えた。
それは、この有様を前にしてもなお、それが“ほんもののお城”だと信じられる亜香里のこころに、世界の本質があったからだった。
亜香里には、汚いものが見えないんだ。安っぽいネオンも、まがいものの装飾も不良青年も、彼女の目には入らないんだ。
だから私を信じてくれた。私の心の醜いところが見えないから。そんな彼女の心こそ、この世界で最もきれいな場所のように思えた。
これまで誰もたどり着けなかった世界の本質に、ようやく、たどり着いた。
そして、同時に悟った。世界の本質とは、結局まぼろしなのだと。亜香里の信じる“ほんもののお城”が、ただのラブホテルでしかないように。
「このお城じゃないんだ」
「え?」
「もっと綺麗で素敵なお城があるんだよ、この先に。着くまでまだ時間がかかるから、少し眠っておきな」
亜香里は素直に従って、シートにもたれて目をつむり、疲れていたのだろう、すぐにすうすうと寝息を立てた。
守りたかった。この安らかな寝顔を。私みたいな醜い、弱い大人には、絶対なって欲しくない。
私はある決断をした。
「起きて。もうすぐ着くよ」
深く眠っていた亜香里は、うっすら目を開けてしばらくぼんやりとしていた。が、自分がどこにいるかに気づいてさっと表情を変えた。
「どうして?」
私をきっと睨む。無理もない。そこにはお城でも夢の国でもなく、私たちが暮らす街の見慣れた光景があった。車を止めたのは、街と里を結ぶ小さな古い橋の前。川を渡った向こうの集落にあるお屋敷では、きっと亜香里のご両親が、娘の帰りを待ちわびている。
「私に嘘ついたの?」
今まで聞いたことがないような怖い声だった。でも私は負けない。
「伊勢物語の『芥川』で、なぜ突然鬼が出てきたか、分かる?」
「そんなこと、今となんの関係が……」
模試では全国1位を取れても、亜香里は何も分かっちゃいなかった。鬼に食べられた女のように。
「女は世間知らずで、何も分かっちゃいなかった――露を見て宝石だなんて言うくらいにね。だから鬼に食べられたんだ。罰として。それと同じだよ。亜香里も私も、宝石だと思いたがってる、お互いを。このまま行けば、私たちは鬼に食べられてしまう」
「どういうこと?」
今から、大好きな人にひどいことを言わなければならない。
ダンスを教えてくれた亜香里。うまく踊れてはしゃぐ亜香里が頭をよぎり、体が張り裂けそうで、声が震えて、けれども真っすぐに彼女の目を見すえ、想いを伝える。
「強くて、明るくて、頭が良くて優しくて……そんな亜香里と出会えて、私はどれだけ救われたか……どれだけ未来が変わったか! でも……でも!!!!」
続けたくなかった。亜香里は全然悪くないのに。悪いのは私だけなのに……こんなこと言いたくなかった。でも言いたかった。言わなければならないんだ。
「本当は強くもないし、優しくもない。ただ、何も知らないだけ! 何も知らなくて自信がないから、現実逃避しか出来なくて、私みたいな人間にすがってるだけだよ!」
亜香里の大きな瞳から、涙の粒がこぼれ出た。誰よりも自分を理解してくれる、理想の恋人。私に対する彼女のそんな幻想が、音を立てて崩れていく。
理解のない大人がつまらない説教をし、叱られた子どもはみっともなく泣きじゃくる。車の中で起こったのは、ただそれだけのことだった。
「自分で何も考えないで、人任せでどうにかなると思っている……私はそういう甘えた態度が一番嫌いなんだよ」
一番きつい言葉でとどめを刺す。亜香里は顔を上げて「お父さんと同じこと言うんだね」と吐き捨てると、車の外に飛び出した。
「自分だって子どもじゃないですか。本読んだだけで、なんにも経験してないで……何が分かるって言うんですか!」
その言葉を残して、亜香里はバタンとドアを閉め、橋の向こうへ駆け去っていった。
「本じゃない。全部、全部きみが教えてくれたことだよ」
ひとり残った車中でそう呟く。そして自分も子どものように泣きじゃくった。
「このまま、自分も露のように消えてしまえたら良かったのに」――私の長い長い夏休みは、そんなふうにして終わりを告げた。
それが3年前のことだ。
亜香里のいない東北の田舎は何もかもが無意味に感じられた。だからお金を貯めて東京に出た。「私は結婚するつもりないから」と言ったら、母は止めなかった。
コールセンター、営業事務、イベントスタッフ、派遣で時給の高い仕事はなんでもした。そうして派遣先の小さな出版社で事務をしていたら、社長にたまたま気に入られてそのまま就職。
ゆとりはないけれど、なんとか自立して生活して。で、今。
夢の中であの時のことを想い出していた。
本当にこれで、良かったのかな。結局、傷つけたままで終わってしまった。あの後、亜香里はどういう人生を歩んだんだろうか。
知りたかったが、知るすべはなかった。割り切れない思いが、チクリと胸を刺す。
そうして目を開けて体を起こして、自分が図書館にいることを思い出す。
図書館、といってももちろんあの図書館ではない。東京にある、卒業した大学の図書館。市立図書館と比べれば、蔵書の数は桁違いだ。読みたい本は星の数ほどあった。卒業生は自由に入館と資料の貸出ができるので、たまの休日に羽を伸ばしにくるのだ。
随分長い時間寝ていたと思うが、まだ眠かった。連勤で疲れがたまっているせいだろう。さあもうひと眠り、と机につっぷそうとした時、
「ここで寝ないでください。図書館は寝る場所じゃありませんよ」
背後にいる誰かから、そう注意された。
利用者の邪魔になっているわけでもないのに、ずいぶんと規則にうるさい司書さんじゃないか。
こういう注意をしてくるのがもっと年配の人だったら違和感がないが、声からしてかなり若い。まだ学生だろう。しかし、どこかで聞き覚えのあるような……。
ハッとして振り返ると、そこには本のたくさん入ったカートを引いている、作業エプロンをつけた女の子がいた。
黒のセーター、ベージュのスカート。髪を染めうっすら化粧をして、ずいぶん垢抜けてしまっているけれど、その女の子は間違いなく、亜香里、その人だった。
「私のこと、忘れちゃいました?」
聞きたいことがありすぎて、言葉がすぐに出てこなかった。
どうして亜香理がこんなところに? ……そうか、結局受かったのだ。私の母校に。それで大学の図書館でバイトを……。
私と別れてからどれくらい頑張ったのだろう。とにかく、やってのけたのだ。並大抵ではない努力が報われたことに、涙が出そうだった。
「何で司書のバイトをしてるの?」
私をジッと見たまま、しばらく亜香里は黙っている。結局質問には答えないまま、代わりに妙なことを言ってきた。
「この図書館には、先生みたいな人ひとりもいない。先生がいかに生産性のないことをしていたか、よく分かったよ」
「良かった。それだけしっかりしてたら、もう鬼に食べられないね」
すると亜香里は少しはにかんで、
「単位足りなくて留年しそうだけどね!」
と、ブイサインを出してきた。情けないことを言っていても、その表情はどこか誇らしげでたくましい。
これで良かったんだ。別の人生を歩ませて正解だったんだ。そう自分に言い聞かせた。
亜香理はいたずらっぽい笑みを浮かべると、周りに誰もいないのを確認しながら近寄ってきて、私に耳打ちしてくる。
「今でも世界を言葉で閉じ込めているんですか、先生」
何かと思ったら、ずいぶんと意地の悪い質問だった。
「ああ……よく覚えているね、そんなこと」
「忘れるわけないじゃないですか。で、どうなんですか?」
「もちろん。ずっとずっと探しているよ。世界の本質を」
いい歳こいて恥ずかしいけれど、私ははっきりそう答えた。
「あはは、ホントだ。相変わらずピュアな瞳してますね」
「私をいくつだと思ってんの!? 大人をからかうな!!」
つねってやろうと手を伸ばすと、ぴょこんと跳ねて軽やかに身をかわされた。
整った表情を、子どもみたいに崩して笑う。大人びていても変わらない。謎にツボって馬鹿みたいに笑っていたあの時と、同じ顔だ。それを見て確信した。
いつかきっとたどり着けるはずだ。まぼろしじゃない世界の本質に。
そしてそれを見つけた時、そばにいて欲しいのはやっぱりこの子だ。そう願うのは間違っているだろうか。
「良かった、諦めてなくて。……じゃあ、いいことを教えてあげましょう」
「何?」
「まだ近くにありますよ。先生の知らない世界の本質は」
「どういうこと?」
「本当は私、全部知ってたんです。先生のこと」
働かないで読書するのは全然優雅なんかじゃなくて、すごくすっごく辛かったってこと。
「釣り合う存在になりたい』とか「もっと仲良くなりたい」とか、滅茶苦茶分かりにくくてカッコ悪い告白をしてくれたこと。
「……それから、あの夜車でどこに連れてくつもりだったのかってことも」
知っていた? ということは、ラブホテルを見て「ほんもののお城」だと言ったのも、全部――。
「でも、何にも知らない振りをしてた方が、先生は気に入ってくれると思ったから」
亜香里はいつのまにか後ろに回り込んで、私の肩に手を回してきた。いろんなことにびっくりして固まっていると、甘い匂いが私を包み込んだ。顔の横に、マシュマロのような感触のものがあてられる。大胆にも頬をすりよせてきているのだ。
「それなのに、あんなふうに怒っちゃうなんて。世界で一番格好悪かったよ、先生」
まったくとんだ小悪魔じゃないか。まぼろしを見ていたのは自分だけだったということか。
やっぱり現実の女子高生を愛でるのは、本を愛でることの何百倍も難しいようだ。
本を愛でるように女子高生を愛でられるか 箇条書き @kajogaki
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