備忘録

楪 玲華

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彼女が胃酸と共に吐き出した息が白くて、今日の朝食は温かいコーンスープなんかにしようと思った。彼女は毎朝吐くのが日課になっていたし、僕も毎朝そんな彼女の背中をさするのが日課になっていて、慣れとは恐ろしいものだと痛感する。「はあ、吐くなら食べなきゃいいのに」「だって食べなきゃ吐けないし」「はいはい、金があるならもっといい事したらいいのに」「あ、アフリカの子供は、とか言わないでね!私だってなりたくてこんなゴミ人間になった訳じゃないから!」


はーあ。わざと聞こえるように大きめにため息をついて、ポットのスイッチを入れる。「ねえかずくーん、今日はねー、小さなぞうさんの夢をみたのー」「そっかー」「聞いてる?小さいぞうさんだよ?」「うんー」適当な相槌と共にスープをかき回す。ここはスピードが命。早くしないとダマになるからね。「それでねー、小さいぞうさんはねー、いじめられちゃうのー。周りのー、体だけは大きいぞうさんにー、踏まれたり蹴られたり引っ掻かれたり内蔵もうっオエ」「あーもう、せっかく僕は今から朝食なのに」トースターの可愛らしいベルが鳴った。


「で?先輩は行かないの?」「んー、今日は一限無いから」「じゃ先いくよ?」「真面目だなー」「いってきます」


彼女の家から学校までは歩いて五分ほどだ。僕の実家からだと学校まで一時間半程かかるので、ありがたくルームシェアしている。彼女の身辺の世話をする、という条件つきで。彼女もプライドの高い人間なので、あまり多くの人に弱みを見せたくないのだろう。そこに高校時代の後輩、しかも住む場所に困っているという丁度いいやつを見つけて、声をかけた、というところか。彼女は家も彼女自身もエリートなので、ちゃんとした世話係を雇えばいいのにと思いつつ、ありがたいので何も言わないことにしている。


「ただいま」「おおーおかえりー」「あれ先輩学校行った?」「いったよひどいなー」「帰り早くない?」「君と違ってバイトとかしてないからねぇ」「はいはい、お嬢様はいいですね」「あはは!紅茶をいれておくれよじいや」「はいはい、おじょーさまの仰せのままにー」スイッチを入れるとポットがこぽこぽと音を立てる。「そういえば先輩夜ご飯たべた?」「あー、うん、食べたよ」「はいダウトー、どうせ食べてないでしょ、なんか作るよ」「ちぇ、ばれたか」そう言うと彼女は毛布にくるまって背を向けた。


「はい、できたよ」「あ、ありがと」「どうせ食べないんでしょ?」「なにそれ」「ま、いいけど」「ううん、食べるよ」今日は寒かったから暖かいミネストローネを作った。「先輩パンいる?」「んー、やめとく」「そっか、じゃ、いただきます」「いただきまーす!……うっ」「大丈夫?」「んー、だめかも」「無理しないで」「やだ、かずくんの手料理だもん」「そうですか」「なんだ冷たいなー、うっ」「もー」僕は慌てて彼女の背中をさする。「ごめんね、いつもありがとう」「なに急に、いつものことじゃん」「えへへ、そっか」彼女は悲しそうに笑った。



「かずくんはさー、嫌にならないの?」いつも通りの沈黙の中、急に彼女が言った。「え、なにが?」「んっと、私のお世話?」「嫌も何も、仕事みたいなもんだし」「ふーん、そっか」「先輩が嫌なら出てくけど」「いや、いいよ」彼女の横顔はいつ見ても少し寂しそうだ。「いてくれなきゃ、こまる、かも」


「てか先輩、彼氏欲しいとか思わないの?」「うん、まー、そーだねー」「先輩、そーいうの興味なさそうだしね」「かずくんは?」「え、僕?まあー、欲しいといえば欲しいけどさ、曲がりなりにも男子大学生なんで」「へぇー」先輩はなにやら満足げな笑みを浮かべた。「なにその顔」「いやー、私にとってかずくんはいつまでもかわいい後輩だからねー、かずくんが女の子をエスコートしたりって考えるとー、えへへ」「もうこの話やめよ、悲しくなる」「あはは、かずくんはかわいいなー」




「あれ、先輩」翌朝、いつも僕より早く起きてげーげーやってる彼女が珍しくまだ寝ていた。「先輩、朝だよ、起きて」「あ、かずくん」彼女は僕の声を聞くとすぐに体をこちらに向けた。「なに先輩、寝たフリ?」「違うの」彼女は布団の端をぎゅっと握った。その手はかすかに震えている。「落ち着いて、どしたの」「今日ね、えっと、あのね、かずくんしんじゃう夢、みたの」「え?」「だからね、目開けたら、いないんじゃないかって、怖くて、それで」そう言いかけて彼女はえづいた。「あーもう、ほら、起きて」「だいじょぶ」彼女は震えの止まらない手で布団をかぶり直す。「大丈夫じゃないでしょ」「だいじょぶ、だから」「はあ、じゃあ僕行きますよ?」「うん」そういうと彼女は体ごとそっぽを向いてしまった。


心配だがどうにもならないので学校へ向かうことにする。よく考えてみると、僕が起きる前彼女が何をしているか、僕は知らない。そもそも、僕の見ていない間彼女が何をしているのか僕は何も知らない。彼女曰く「しゅひぎむ!」だそうだ。でも周りの噂によると彼女は家の外では相当出来る人という認識らしい。家ではあんなに弱々しいのに。


「ただいまー」彼女の疲れた声がした。「先輩お疲れ様です、遅いの珍しいね」「きょーはねー、けんきゅーすすめてきちゃったー、えらいー?」「うんうん偉いねー」「でしょー、だからねー、今日はごほうびにプリンかってきちゃったのー、後で食べよ?」鼻歌を歌いながら冷蔵庫に向かう彼女は、今朝のことなど忘れているようだった。「僕の分も買ってくれたの?」「当たり前だよー、この幸せを独り占めしては神様に怒られてしまうよ」


「じゃあお皿とスプーン出すね」「ねー、電気ってなんで眩しいんだろうねー」「え?」「いや、なんでもないの」うふふ。理由は分からないが嬉しそうな彼女。「はいどーぞ」「空気ってねー、ぷかぷかなのー。でもねー、暖房がちくちくするからー、」「どしたの先輩、今日変だよ?」「…じゃない。」「え?」急に先輩の表情が硬くなった。「変じゃない。私は変じゃない!病気なんかじゃない!みんな分かってないんだ!だって私はこんなにも頑張ってて、あんなに」「ど、うしたの、先輩」「え、あ、えっと、うぐっ」青白い顔で口を押さえる彼女をトイレまで連れて行く。「ほんとにどうしたの先輩」「……やだ」「ん?」「いやだ……いかないで……」僕は困惑しながら彼女の背中をさすり続けた。

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