優しいあのひとの感触

「お嬢さん、どうして泣いているの?」

 新緑の季節、小川のそばで泣いていた私に、突然声がかけられた。

 そうやって声をかけてきたのは、私の人生で2人目になった。

 ニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべる若い男が、私の後ろに立っていた。

 その男の後ろには仲間だろう男がもう2人。同じように笑っている。

 同じ言葉なのに、それを発する人次第でここまで差があるのだと、当たり前のことに私は改めて気づかされた。


 数年前、幼い私はこの小川のそばで泣いていた。

「お嬢さん、どうして泣いているの?」

 それは、慈愛に満ちた優しい声だった。

 心底、私を心配してくれているのが伝わってきた。

 だから私も、警戒することなく、強がることもなく、どうして泣いているのか、素直に話せたのだと思う。

 私はそのころ目の病気を患っていて、日に日に視力が低下していた。

 手術すれば治る病気らしい。

 多くの人がまた見えるようになったという。

 しかし、失敗することもあるのだそうだ。

 私は心配をかけまいと、手術が楽しみだなどと周囲にうそぶいていた。

 家族にさえ強がっていた。

 失敗したらどうしようという想いを押し込めて、見ないふりをして、でも限界で、私はいつのまにか家を飛び出していた。

 ぼんやりとしたシルエットしかわからない程度にまで下がった視力で、私ひとりで出歩ける場所は限られていた。ひとりになりたかった私が、家から伸びる道沿いに来れる限界の場所がここだった。

 木々に囲まれたきれいな小川。すぐそばに山があって、そこからキラキラと輝く水が流れてくるのだ。小さな魚たちが泳いでいて、ときどきそれを狙うきれいな青い小鳥を見かけた。

 でも、このときの私にはもうそれらがそこに存在しているのかもわからなかった。

 私はそのことが悲しくて、悲しくて、涙が止まらなくなってしまった。

 そんなときに話しかけてきたのが、タロウさんだった。

 自分でも自分の想いがよくわからないうえに、泣きながらでたどたどしい私の話を、うんうんと静かに聞いてくれた。

 私の横に座ったタロウさんは自分と同じぐらいの背丈だったと思う。子供なのかとも考えたが、その落ち着いた様子からは長い年月を生きた特有のものを感じた。高くも無く低くも無い声はすんなりと耳に入ってきた。

「川に手を入れてみようか」

「うん」

 なぜか私は素直にうなずいて、タロウさんに手を引かれて川べりに行った。

 タロウさんに手をつながれたまま、私は水の中に手を入れた。

 冷たい。私は思わず手を引っ込めてしまったが、タロウさんは手を添えたまま、私がまた手をのばすのを待ってくれていた。

 私はまた、手を伸ばした。タロウさんと私の手の中に、小さな生き物が入り込んできた。

 私が手を閉じる前にそれはするりと逃げてしまったが、

「魚だ!」

 それが小川を泳ぐ小魚だとわかった。

「大丈夫、ちゃんとここにいるよ」

 見えなくなっても、無くなるわけではないのだ。

 私は何かがすとんと心の中で落ち着いた感じがした。

「夜で何も見えないときでも魚を取る方法を知っているから、よかったら教えてあげる。だから安心しなよ」

 まるで私が魚を捕れなくなることを嘆いていたみたいな言い方をタロウさんがしたものだから、私はひさしぶりに大きな声で笑っていた。


 私はそのあと手術を受けることができた。

 手術はうまくいったが、数年も入院するはめになってしまった。

 タロウさんにお礼を言うこともいままでできなかった。

 家族や知り合いに頼んでみたが、手掛かりが少なすぎてタロウさんを見つけることができなかった。

 退院することができた私は、まっさきにこの小川に来たのだが、新しい橋が出来ているのを見て不安になった。

 タロウさんの顔がわからないことが怖かった。

 何年も前のことだから、声もわからないかもしれない。タロウさんの方がそもそも私のことなんか、忘れてしまっているかもしれない。

 そんな不安にかられて泣いていた私に声をかけてきたのが、軽薄そうな若い男たちだった。

「あんたらなんか、お呼びじゃないのよ」

「なんだとぉっ!?」

 ついつい、文句が口に出てしまっていた。

 しまった、と逃げ出そうとしたとき、男たちの動きが固まっていることに気づいた。

 私のうしろ、川の方を見ている。

「う、うわあああっ!!」

 男たちは顔を青ざめさせて、一目散に去っていった。

 私はゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは全身が緑色の人間のような形をした存在だった。

 くちばしのようなとんがった口、亀の甲羅のようなものを背負っていて、。その肌はぬらぬらと魚のように光っていた。

「ひっ」

 私はさっきの男たちのようにさっさと逃げ出したかったが、腰が抜けてしまって、思うように動けず、じりじりと這うようにあとずさりをすることしかできなかった。

 川の中からじゃぶじゃぶとあがってきたその緑色の存在は、私に手を伸ばしてきた。

 私はぎゅっと目をつぶり身構えた。すると私の手がつかまれ、引っ張られた。

 このまま、川の中に引きずり込まれるのだ。

 そんな私の予想は当たらなかった。

 私の手は何か変な感触のモノの上に置かれていた。

「オレだよオレ、つるつる」

 ぱっと、目を開けると、私の手は河童の頭の上のお皿の上に置かれていた。

「タロウさん!?」


 私が数年前、魚を捕まえようとしたとき、大笑いしたあとになんだか気が抜けてまた泣き出してしまったのだった。その涙は以前の不安に染まったものとは違って、暖かいものだったのだが、そんなことは知らないタロウさんは慌てた様子で、なんとか泣き止ませようとしてくれた。

 そのひとつが「つるつる」と言って自分の頭を私に触らせる方法だった。

 田舎のおじいちゃんが「ほーれ、つるつる頭だよ」と赤ちゃんだった私をあやしてくれたことを思い出した私は笑ってしまった。泣きながら笑うという変な顔をしていたと思う。

 タロウさんは私が泣き止むまで「つるつる」「つるつる」といってあやしてくれたのだった。


 手術のあれこれで忙しかった私は、そんな大事なことを忘れてしまっていたのだ。

 だが、つるつる頭だと覚えていたとしても、河童では見つかるはずがなかった。つるつる頭でもなく、お皿だったし。

 泣き止んだ私を見て、タロウさんはにっこりと笑った。河童の笑った顔なんて初めて見た。河童自体を初めて見たのだけど。

「見えるようになったんだな」

「タロウさん……、私……」

 いっぱい言いたいことがあったはずなのに、いざ目の前にしたら言葉が詰まって感謝の言葉もうまく伝えられずにいる私に、タロウさんはこう言った。

「よし、魚をとりにいこうか」

「うん」

 私は今度もまた素直にうなずけたのだった。


おわり


※お題:オレだよオレ、つるつる

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