目を見て話しましょう(未完状態時
私は人の目を見るのが苦手だ。
物心ついたころには人の目を見ないようにしていた。
きっかけはわからない。そもそもそんなわかりやすいきっかけなんてものは、無いのかもしれない。
母や父と話す時も目を見ていなかった。だから家族写真を見ると不思議な気持ちになり、なんでそうなるのかに気づいたのは小学生になってからだった。目より下はよく見知った親の顔をしているが、全体はこんな顔をしていたのかと改めて思うからだった。
小学校に通うようになったら、「人の目を見て話しましょう」と教えられた。
衝撃的だった。
人の目を見て話すことを、みんなが普通のことだと受け入れていたからだ。
私には受け入れがたいことだったが、みんながやっていることを自分だけができない事実は、孤独感をもたらすもので、私もできるようになろうと努力することにした。
写真の目は見れるのだから、生きている人間の目だって見れるはずだと言い聞かせた。それでも、どうしても目をそらしてしまう。
見ようとすればするほど、強く目をそらしてしまう。そんな状態だから、担任の先生が私の異常さに気づいた。
「ちゃんと見なさい」
先生は私をしかりつけた。
しつこく何度でも。
先生は、最初は言葉で注意するだけだったが、一週間以上たっても改善が見られない私の顔をつかんで、目線を合わせようとした。鼻から上、下まつ毛が見え始めたときに、私はパニックになり、無我夢中で振り払って逃げ出した。そのあとのことはよく覚えていない。気づいたら自宅の布団の中で丸くなっていた。
それから私は学校に通えなくなった。何度か先生や、クラスメイトが訪ねて来たようだったが、私は会うことが出来なかった。人の目を見れないことが悔しくて、歯がゆくて、情けなかった。
それから2年がたった。私は相変わらず家の中で自習をする毎日を送っていたある日、もう学年もクラスも変わって担任ではなくなった先生が、手紙を置いていった。
そこには謝罪の言葉と、少しずつ目を見ることに慣らしていく方法について書かれていた。「目を見なくてもいい」とも書かれていた。先生はあれからいろいろと勉強してくれていたらしい。世の中にはいろいろな個性を持った子がいることを知った先生は、「目を見れた方が社会生活を送るうえで便利なことが多いためにできないに越したことは無いが、『見ない』という選択をしてもいいのだと思うようになった」ということだった。
私はいろいろと試した。親に協力してもらって、でもやっぱり目を見て話をすることはできなかった。
だが、試行錯誤を繰り返すうちに遠くからなら見れることに気がついた。相手がこちらを見ていないことも重要だった。そうして人の目のあたりを観察することができるようになった。
それで人を観察して気づいたことは、目を見ているかあいまいな目線で会話している人たちがいることだった。
親たちが気にせず私を育ててきたことも、勇気を出して聞いた。気まずくて聞くことができなかったのだ。
あまり目を見ていない気はしていたが、ちゃんと話を聞こうとする姿勢は感じられたから気にしていなかったらしい。
私はわかったことなどを先生にてがみ
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