05、ランチタイムと明晰夢

 十二月に入ると塾の日にちが増え、放課後にグラウンドへ顔を出せる機会はめっきり減ってしまった。


 あれで喜久井は夕真が本当に困るわがままは言わないので、それを伝えても反応はあっさりしたものだった。けれど絵に描いたようにしょんぼり肩を落とされて、盛大に罪悪感を煽られた。


「それじゃあ、レースの日も難しそうですかね。そう言えば、模試とかあるかもって前に言ってましたけど」


 練習着姿の喜久井は、そわそわしながらフェンス越しに夕真の目を見て発した。


「来週の日曜だよな。大丈夫。コース教えてくれたら、適当に応援しに行くよ」


 夕真がそう返すと喜久井はぱっと目を瞠り、フェンスを掴んで子どもみたいに軽やかに飛び跳ねて見せる。


「本当ですか!? やった! じゃあ、あとでラインしときます!」


 毎年十二月の第二日曜には、市が主宰するハーフマラソンの大会がある。ローカルテレビでは頻繁にCMも流れていて、夕真も名前だけは知っているそれなりに規模の大きなレースだ。陸上部で長距離をやっていると、これが引退試合になることが多いらしい。


「駅伝で全国行けたらそっちが最終レースだったんすけどね。今年は男子も女子もダメだったんで、このレースで世代交代っす。だから、おれっていうより先輩たちの方たくさん撮ってあげてください」


「善処するよ。……けど先にそっちで話通しといてもらえると助かるな。写真部のキモオタに盗撮されたって学校にタレ込まれたら、進路通り越して人生に響く」


「だぁいじょーぶですって! ウチの部わりに強いんで、みんなレースの写真は撮られ慣れてるし。ってか先輩、いっつもそんな心配しながら写真撮ってんすか?」


 喜久井が少し引き気味に声を落としたので、今のこそがキモオタ仕草だったかと時間差で恥ずかしくなった。


「……そうだよ。だから俺は行事の記録係以外じゃ、今まで風景と乗り物しか撮って来なかった」


「マジすかウケる! マイナスの自意識過剰! 先輩かっこいいのにギャップやばすぎでしょ!」


「くそ。バカにしやがって」


 サルのおもちゃみたいに笑いながらそんなことを言われても、煽られているようにしか聞こえない。なのに、いつものおべっかなのは明らかなのに、悲しいかな嬉しくなってしまって胸の内でリフレイン。


 かっこいいのに。かっこいいのに。かっこいいのに──絶対嘘だ。そんなこと親だって言わない。でも、嬉しい。


 あんまり照れ臭いのでマフラーを鼻の頭まで引き上げて、吐いた息で眼鏡を曇らせながら「塾行く」とだけ言ってリアクションを待たずに回れ右をした。


 雪のちらつく中でも汗ばむくらいの早足で学校を出て、駅前行きのバスに乗る。


 うっすらと窓に映っている自分の顔は、たぶん特別良くも悪くもない。同じような顔つきで女の子に生まれてしまったまひるには同情するが、愛嬌さえあれば気にするほどのことでもないんだろう。もっとも夕真には、その愛嬌がひとかけらもないわけだけれど。


 その日はそれから、ずっとふわふわ嬉しい気持ちが続いた。にやけてしまうのを堪えるために頬の内側を噛んでいたら口内炎ができて、夕食はえらくしみた。


 それでも夕真は暇さえあれば喜久井の「先輩かっこいいのに」を脳内でリピート再生し続け、ついには夢にもそれが出てきた。


 夢の中で喜久井は、夕真にキスをしてくれた。口内炎の痛みと、視界の端で捉えた少し背伸びをしている足元が妙に生々しかった。


 夢の中の夕真はそれが夢だと分かっていて、だから無邪気に好きだと言えた。


 当たり前みたいに何度もキスをして、手を繋いで歩いた。


 離れていると寂しいから、どちらからともなく肩を寄せてじゃれあった。


 気持ち良くて幸せな夢だったけれど、目を覚まして急に怖くなった。今までピントを合わせることを避けてきた「そうなんだろう」という実感が、溺れるような恋をしたことで、恐ろしいほど鮮明に像を結ぶ。


 夢の中では無視できた不都合の解像度が、リアルではやけに高い。だから自分が「同性を相手に恋をしている」という現実が、今更のように怖くて仕方がない。


 夕真はもう、自分たちのような人間がどんな風に人から笑われ、どんな風に拒絶されるのかを知っている。どんな疎外を味わい、大切な人にどれだけ大きな戸惑いを与えるのかを知っている。


「おい、盗撮マン」


 朝礼と授業の間。後ろの席から椅子を蹴られ、夕真は肩を竦ませた。


 振り向くと、サッカー部の副キャプテンがにやにや笑いで夕真を見ていた。


「昨日も陸部のホモ写真撮ってたん?」


 彼とは一年の時もクラスが一緒だった。推薦で進路が決まったらしい。きっと暇なんだろう。


「盗撮じゃない」


「は? なに? もう一回」


「盗撮ではない」


「え?」


 小声で「暇かよ」と呟いたらそれは聞こえたようで、もう一度椅子を蹴られた。前につんのめった勢いで机からノートが落ちて、前の席の女子に当たった。「ごめん」と頭を下げたら「最悪。キモ」と舌打ちで返された。


 黙ってノートを拾い、歯を食いしばって深呼吸をする。こんなことはあと少し。こんなことはあと少し。いつものように自分に言い聞かせて、授業の準備をする。


 織部夕真はゲイだ。けれど、どうしてそれだけのことでこんなに居た堪れない思いをしなくちゃいけないんだろう。そう考えると悔しくてたまらないが、同時に、そればかりが原因でもないだろう。とも思う。


 同じゲイでも、社会できらきら輝いている人はたくさんいる。タレントやオピニオンリーダーでなくたって、当たり前に男同士で恋をして、普通に明るく楽しく暮らしている人だってたくさんいる。


 だからきっと、夕真はただ夕真のままで「キモい」のだ。


 周りがどうであれ、それを跳ね返せる強さやしなやかさがあればこういう仕上がりにはならなかったんだろう。


 息を潜めて午前中をやり過ごし、移動教室の帰りに部室の前を通りがかったら、鍵のかかった戸の前にはもう喜久井がいて目が合ってしまった。


「──何してんのお前」


 夕真はむっとしかめっ面で目を細めたのに、喜久井はぱっと顔を綻ばせて目を瞠り笑う。


「あ、お疲れっす! 何っていうかまああの、お昼なんで!」


 部室の前に体育座りをしていた喜久井は勢いよく立ち上がり、あたりを見回してそそくさと携帯を隠した。大方また新しいイベントでも始まったんだろう。


「ちょっと待ってて」


 夕真がそれだけ伝えると、喜久井は元気よく「はい!」と頷いて見せた。その笑顔があんまり眩しいので泣きそうになる。彼が夕真に見せる笑顔はいつも、その名の通り太陽をいくつも重ねたみたいに明るい。


 急いで教室に戻り、弁当を持って職員室に鍵を取りに行った。直前の重い足取りとは打って変わって、広い歩幅で軽やかに足が上がるのが現金で気恥ずかしい。


 そうして夕真が部室へ到着した時にはもう喜久井はサンドイッチを口いっぱいに頬張っていて、申し訳ないやらおかしいやらで笑いそうになる。


「待たせて悪かったけど、さすがにどうかと思うぞ。こんなとこで」


「ふぉおあおおうああいお」


「モノ食いながら喋んなって」


 つぶらな瞳で瞬きを繰り返し、サンドイッチで頬を膨らませながら喋る喜久井はほとんどリスだ。サルだったりリスだったり、彼は何かと小動物っぽい。


 部室を開けてやると、喜久井は携帯の画面を凝視したまま我が物顔でまっすぐ定位置の椅子に腰掛けた。夕真も黙ってその差し向かいに座り、ポッドキャストを再生して弁当を開ける。


「……条件厳しいのか。今度のイベント」


 いつも手を叩いて笑いながらラジオを聞いている喜久井が、くすりともせず携帯を眺めているのが気になって恐る恐る尋ねてみた。


「え? あ。あー、まあ……イベントっちゃイベントか。リアルの」


「リアル?」


 喜久井は困ったように頭をかきながら「そっす」と頷いて答える。


「部活で一緒の子に、ラインでコクられちゃって」


「へ、へえ……」


 そういうこともあるだろう。というのは、折に触れて考えていた。にも関わらず実際にそうなってみると自分でも驚くくらい心拍数が上がり、目が泳いで焦点が全然合わない。


「なんて返すの」


「それで困ってんすよ。結構ずっと仲良くしてたし、向こう友達多いんすよね。なんつってゴメンすれば波風立たないか全然わかんねー」


 喜久井の心底弱ったような声を聞き、夕真の視点がようやく定まった。


「……ずっと仲良かったのに、ゴメンするんだ」


 他に好きな子でもいんの? とは、臆病な夕真には怖くて聞けない。


「ってなるじゃないすか! 他に好きな子いるの? とか、そういうのが嫌なんすよ!」


「ご、ごめん」


 臆病でよかった! ともう一度胸を撫で下ろし、夕真は一度置いた箸をまた手に取った。


「フツーに『今は陸上に集中したいから』とかでいいんじゃないの? 無難だろ」


「いやでもそれ、向こうもほぼほぼ状況同じだし、逆に通用しないっていうか。『お互い協力しあって一緒に頑張ろう』なんて言われちゃったら、こっちの詰みっすよ」


「そういうもんか……」


「そこまで言わせて、それでもゴメンって。自分だったら傷つきません?」


「全然わからん……」


 夢の中ならいざ知らず現実で好きな相手に告白しようという無邪気さも、振ろうとしているのに傷つけたくないとかいう甘い寝言も、どちらも夕真には全くピンと来ない。理屈は分かるが、共感はたぶん一生できない。


「そもそも、そんなに相手のこと傷つけたくないならフるなって話だろ。気持ちには応えたくない。でも傷つけたくはないって、虫が良すぎると思うけど」


「おっと。痛いところを突いてきますね……」


「どのみち傷つけることになるなら、理由を正直に話すのがまあ……誠意と言えば誠意なんじゃないの? 知らんけど」


 夕真は「キモオタ陰キャが何か言ってる……」という自嘲の笑いを堪えつつ、それでも一応「誠意」を持って考えを口にした。


 喜久井はそんな夕真の言葉を噛み締めるように「うーん」と腕を組んで唸り、やがてラインに送られて来たメッセージが出たままの自分の携帯を夕真に差し出してきた。


「……これ、見て欲しいんすけど」


「バカお前! それはいくらなんでも!」


「いいから見てくださいって! おれだって誰にでもは見せないですよ!」


 誰にでもは見せない。という言葉にあっさり釣られ、夕真は恐々とその文面を視界に入れた。陸上部での思い出話を軸に、彼女の目に映る喜久井がいかに輝かしいのかが綴られている。なかなかの甘酸っぱい大作である。


 けれど、それだけだ。なんだかミーハーというか、本人は親しみを込めて赤毛の喜久井のことを「キャロ」と呼んでいるんだろうが、あんまりいい感じはしない。


「……うん。彼女はお前の、ジャニーズ系な童顔とミニマムな身長が好きなんだなっていうのが、ものすごく伝わって来た。あと、全然振られる想定がないっていうのも」


「でしょ? で、今度はこっち見てください」


 と言って喜久井は、今度は家族写真を夕真に見せた。写真の中の喜久井は、体格の良い赤毛の青年たちに囲まれあどけない笑みを浮かべている。


「スコットランドの伯父と従兄たちです」


「ふうん。良い写真じゃん。これが何か?」


「おれ、近い将来きっとこうなります」


「……全っ然わからん。どういう意味?」


 夕真が首を傾げながら喜久井の顔を見ると、彼はひどく落ち込んだように大きく溜め息を吐き、鎮痛な面持ちで発した。


「エヴァンズ家の男はみんな、十八歳でアゴが割れるんですよ。誰と付き合うにしても、後からアゴ割れたせいで振られるとか絶対嫌だ! なんか格好悪い!」


 は? と思ってもう一度写真に視線を落とす。


「あっはははははは! ほんとだ!!」


 確かに喜久井の従兄たちは、漏れなく綺麗に顎が割れている。逞しくてかっこいいとは思うけれど、今の喜久井とのギャップがあんまり激しいので思わず笑ってしまった。


 しかし、自分の声を聞いてすぐに我に返る。よせばいいのに喜久井の顔を見て、その戸惑いがちな様子に「終わった」と目の前が暗くなった。


「ご、ごめん、悩んでんのに」


「え? いや。それは別に──ってか、先輩の笑ってるとこ初めて見たかも……」


 まじまじと注がれる視線が辛い。やっぱり今も高くて変な声だったし、きっと気持ち悪いと思われた。


「……だって、声高くてキモいだろ」


「や、そこは別に気になんなかったっすね。……うっそ。まさかそんなことで?」


 夕真が不承不承に肯くと、喜久井はそれをやっぱり手を叩いて笑い飛ばした。


「もったいなーっ! もっと笑えばいいのに!」


「は? さすがに白々しいんだが?」


「待って待って。そのキレ方は意味わかんないっす。そんなそばかす一つないキレーな顔しといて──」


と言って喜久井は夕真の頬に指の背で触れた。


「ヤダって!」


 嬉しさと照れ臭さと恥ずかしさが綯交ぜになり、咄嗟に上げた声はやっぱりか細くて甲高くて、夕真の耳にはひどく忌まわしい形で届く。


「かっわいー」


 けれど喜久井は、そんな夕真の反応にも屈託なく笑って見せた。


 彼の、そういうところを好きになってしまったんだと思う。自分が嫌だと思っている部分を、屈託なく包み込んでくれるところ──ずっと誰かに言って欲しかった言葉を、自然に差し出してくれるところを。


「そ、そんなことって言うなら、お前の方だって“そんなこと”だ!」


「えー? と言いますと?」


「ケツアゴくらいなんだって言うんだよ。お前のいいとこって、そんなんでナシになるようなとこじゃないだろ」


 返せるものでもないけれど、貰った嬉しさの分くらいの気持ちはせめて返したかった。だから真面目に、誠心誠意でそう言った。


「そうですかあ? 今回に関して言えばナシになるでしょー」


 喜久井は納得しかねる様子でそう言って、また一つ大きく溜め息を吐く。


「そう思うなら、それを正直に言えばいいじゃん。もしかしたら『ケツアゴの方がかっこいい!』って言ってくれるかも知れないし」


「……先輩。それ、本気で言ってます?」


「ごめん。ちょっとないかな」


「ですよね」


「でも、さっきの彼女はないかなってだけだよ」


 恐る恐る喜久井を見てみる。満更でもなさそうに、少し照れ臭そうに頭をかいている。


「そのうち絶対、どんなお前でも好きだって言ってくれる子に出会うよ」


「ってかそもそもなんすけどおれ、相手がおれのことどう思うかってより、ちゃんと自分が好きになった人と付き合いたいです」


 照れ隠しなのか喜久井はにやにや笑いながら、夕真の目を見てそう言った。


「……まあ、それもそうか」


 こいつはどんな子を好きになるんだろう。そう考えると、聞くまでもなく自分はお呼びでないことぐらい分かっているのに胸が痛む。


「──でもあえて贅沢言うなら、先輩みたいな人と付き合いたいな」


「は?」


「だって今んとこ、素のままのおれのことキライにならずにいてくれんの先輩だけっすもん」


 予鈴が鳴ると喜久井はすぐさま立ち上がり、軽い感じで「じゃ、また!」と言い残してさっさと部室を出て行く。


 喜んでいいのか泣くべきなのか分からなくなって、しばらく動けなかった。


 要するに喜久井は「一緒にいて気負わずに済む相手がいい」ということを言いたいだけだったような気がするけれど、だとしても罪作りが過ぎやしないか。


「……勘違いしちゃうだろ。あんなの」


 本鈴が鳴っても教室に戻る気になれず、午後は自習なのをいいことに夕真はそのまま机の上に頭を投げ出した。


 十三時を回り少しだけ傾き始めた陽の光が、窓枠の影を濃く机に落としている。その白い光の出どころを辿れば空は澄んだ水色をしていて、やけにきらきら綺麗だった。


 ほんのり温かい気持ちの奥に、そんな綺麗で静かな景色が染み込んでくる。恋をしてこんなに普通に、ドラマみたいに「嬉しい」とか「楽しい」と思っていられるなんて。喜久井に出会うまでは全然思っていなかった。


 好きになったのが喜久井で、本当によかった。突っぱねられたら耐えられないし困らせたくもないので、夕真はきっとこの温かな恋を胸に秘めたままでいる。けれどそれだって最高の初恋だ。と夕真は、その温かさを胸に刻んだ。

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