04、天国と地獄
どう考えても偶然だった。あの日はたまたまカメラの修理が終わった日で、たまたま鞄には望遠レンズが入っていて、天気が良かったし目玉焼きが双子でたまたますごく機嫌が良くて、だからあの交差点へ行く気になったのだ。
必然であったことなんか何一つない。夕真があの瞬間、彼の心の底の方へ降りて行ったことも含めて。
なので、こんな脈絡のない偶然の結果として「喜久井がいやに絡んでくる」という事実はどう考えてもバランスを欠いているとしか思えず、夕真はずっと首を捻っている。
喜久井が三度目に部室を訪れたのは、週が明けて月曜日の昼休みだった。
その時こそ「この間の部活の写真、パソコンで見せてください」なんてもっともらしい理由を嘯いていたものの、火曜からはさっそくなんの理由もなく昼休みは弁当持参で夕真のいる部室に押しかけて来て、金曜の今日ついに一週間皆勤賞だ。
大体の場合、喜久井は勝手に夕真の向かいに腰掛け、弁当を食べながら携帯をいじっている。
基本的に会話はない。なので何をしているのかは夕真には分からないし知ったこっちゃないと思っているが、ときどき「あー」とか「やば」とか独り言を呟いているので、おそらくゲームをしている。
「先輩、先輩! ちょっと手ェ貸してください」
今日も印画紙の乾燥棚を背に座っている喜久井は、自分の携帯から目を離さないまま夕真を手招きをした。
「嫌だ」
「なんで!」
「見れば分かるだろ。いま過去問の自己採点中!」
夕真が顔をしかめて見せても、喜久井は構わず「一瞬! 一瞬だけでいいから!」と顔の前で手を合わせる。埒が明かないので、結局夕真が赤ペンを置いた。
「……なに」
「あざーす! おれの代わりにガチャ引いてください」
「ガチャ? ソシャゲの?」
「こういうのは無欲な人が引いた方がいいんすよ。ここタップしてください」
と言って、喜久井は画面を夕真に向けた。詳しくは知らないけれど、夕真のタイムラインにもしばしばスクリーンショットが流れてくるアイドル育成ゲームだ。それがあんまり喜久井のキャラと一致しないので、思わず画面と喜久井の間で視線を往復させる。
「……お前みたいなパリピがやるゲームじゃないだろこれ」
「いやいやおれ、別にパリピじゃないっすもん。むしろ本質的にはオタクで陰キャっすよ」
「お前がパリピじゃないなら一体誰がパリピなんだ……」
釈然としないまま、喜久井の携帯の画面をつつく。やたらとキラキラしたモーションが繰り返し流れ、次から次に美少女が出てくる。
「いや、知らないっすけど……おれはパリピっていうよりキョロ充っすね。必死こいて周りに合わせて、舌先三寸で調子いいこと言ってるだけなんで」
「キョロ充?」
ゲームの演出を見飽きた頃、夕真は喜久井の呟いた意味深な言葉で顔を上げた。
「おれ、ちっちゃい時にデカめの病気してんすよ。それで入退院繰り返してて、こんな見た目だし小中じゃむしろいじめられっ子で。だからか親が、今でもまあまあ心配性っていうか」
「……そうなんだ」
夕真の引いたガチャは今のところハズレばかりのようで、喜久井は少し不満げに口を尖らせながら続ける。
「おれは別に、友達とかそんなにたくさんいなくても苦じゃないんすけどね。まー、親孝行の一環っす。親的には息子が部屋籠もってひとりでゲームばっかやってるより、外で友達とかけっこしてる方がきっと嬉しいでしょ? だからおれは、またもとのラレっ子ちゃんに戻んないように必死のキョロ充隠れオタクです」
ガチャの最後の演出が終わると、喜久井は露骨に肩を落として「あざーっしたー」と夕真の前からスマホを持ち去った。
「……悪いな。引きが弱くて」
「え? いやいや。まー、世の中そんなうまくいかないっすよ」
済まなそうにへつらって笑う喜久井は、やっぱり見ていて辛い。
「でも、イベントはまだ続くんだろ?」
「なんだ。知ってたんすか」
と同時に今、自分にだけ差し伸べてやれる手があることが、そこはかとなく心地いい。
「教室でやり辛いなら、ここ来ていいよ。昼は大体俺しかいないし」
こういう気持ち、なんて言ったらいいんだっけ。と少しだけ考えて、夕真はひとまずそれに『同情』とラベルを付けた。
「あ、はい。っていうか、今日までずっとそのつもりで来てましたけど」
「うっざ。俺ほんとお前のそういう図々しいとこ嫌い」
「またまたあ。そんなこと言って先輩、おれが今更お行儀よく『ヤッターいいんすかあ?先輩やっさしー』とかリアクションしたら、それはそれでキモいって言うでしょ」
図星を突かれてオロオロ目を泳がせている間に予鈴が鳴り、喜久井は夕真に反論の隙を与えず「じゃ、次体育なんでこれで!」と部室を出て行った。その身のこなしの速さが随分きれいなので、魅入ってしまったことも反論しそびれた理由の一つだ。
「……ふふっ」
けれど溢れるみたいに漏れた笑い声がやっぱり気持ち悪くて、華やいだ気持ちも一瞬で萎れる。
運動ができる奴って、やっぱ頭の回転も早いのかな。そういえば、まひるもだいぶちゃっかりしてて要領いいし。野生の勘……みたいなのが働いたり?
なんて考えていた午後一番の授業は共通テスト対策で、解答用紙のマークがずれていたことに最後の問題でようやく気付きますます自分の鈍臭さに嫌気がさした。
夕真の成績は比較的いい方ではあるが、それは時間をかけてコツコツ勉強しているからであって、要領はむしろ良くない。それだけに、普段からケアレスミスには最大限警戒している。
──が、このざまである。
基本的に夕真の頭と体は、マルチタスクには非対応だ。
そんな自分の惨めな様を思うと、一瞬でも喜久井に同情したことが恥ずかしく、また馬鹿馬鹿しくなってきた。
あの時は「こいつも苦労してるんだな」とか「助けになってやりたいな」なんて思い上がっていた。けれどよくよく考えてみれば、彼は周囲に自分を偽りつつも、ああしてちゃっかり息抜きの場を確保しているクレバーな男なわけだ。
な、なんかずるい!
いや、ずるいって言うとおかしいけど、無性に腹立つ!
「──あぅっ」
鬱憤のまま誤答を消しゴムで擦っていたら、答案が真っ二つに裂けた。
紙の破ける音と甲高くて変な声が、思いのほか大きく響く。少しすると今度はそこかしこから、人を腐したような笑い声が続く。それらをどうすることもできず、夕真は黙って破れた答案用紙の皺を伸ばし回答を続ける。
助けて欲しいのはこっちの方だ。そんなどす黒い恨み言で胸がいっぱいになった。夕真だって大概苦しいのだ。それこそシャッターを切っている時や、暗室や部室に籠もっていられる時以外の全ての時間が。
けれど、夕真にとっての「苦しい時間」は残りわずかだ。二学期が終われば、進学クラスの登校日は卒業式直前の何日かしかない。
夕真の受験先は第一志望も滑り止めも東京で、何かあって全滅さえしなければ春からは一人暮らしだ。今いる東海の片田舎よりは、きっといくらか生きやすいだろう。実際はどうあれ、少なくとも今そういう希望を持つことができる。
じゃあ、あいつは?
そう考えた時、息が詰まった。
喜久井の進路なんて夕真は知る由もないけれど、少なくともあと一年はここで自分を殺し周囲の反応を伺いながら過ごすのだ。
毎日毎晩「やっと終わった」「今日もしんどかった」「明日もきっとしんどい」「でも、何はともあれ生き延びた」「ひとまず今日は、親を悲しませずに済んだ」「明日も同じように頑張らないといけない」そう思いながら。
走ってる間だけが楽しい。あとは全部苦しい。そんな気持ちが、夕真には手に取るように分かってしまった。
するともう、あまり「ずるい」という気にはならない。ただ「自分以外には素顔を見せて欲しくない」という別のやましい感情が代わりに沸いてくるだけだ。
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