第4話
私、小学生のときにいじめに遭ってたんだよね。
─彩葉が僕にそう告げたのは、僕と彼女がいわゆる恋人という関係になってしばらくしてからのことだ。中学校の卒業式の前日。僕たち卒業生が、卒業式の予行練習のために久しぶりに登校した、その帰り道だった。
何をきっかけにして彩葉がそのことを打ち明けたのか、今でも僕には想像がつかない。卒業式を翌日に控え、何となく自分の過去を振り返ってみたのだろうか。それとも、背負っているランドセルを揺らしながら、楽しそうにはしゃぐ小学生たちとすれ違ったからだろうか。もしくは、そもそもきっかけなんてものはなくて、ふと思い出しただけなのか。それは彩葉にしか分からない。
「─それは、僕が転入する前から?」
ただこの場に流れている沈黙を遮りたいがためだけの、意味のない質問をしてしまったことに後悔する。僕が転入する前だろうが後だろうが、彩葉がいじめを受けていたという事実は変えようがない。
「うん。一通りのことはされたかな。無視されるのは日常茶飯事。物を隠されたりとか、陰口を叩かれたりとか。私にも原因があったのかもしれないけどね」
特定のグループで行動するっていうのが嫌いだったんだ、と彩葉は苦笑した。
「ひとりじゃ何もできないのか、って思ってた。周りに取り残されないように必死で仲間を探して、集団をつくって、自分たちだけの世界をつくって、その中で悦に浸って。まるでそれが当たり前のことみたいに、自分たち以外を下の位置に置く。そういうのを馬鹿みたいだなって思ってたし、関わらないようにもしてた。周りの人は、私のそういう態度が気に食わなかったのかもね」
薄桃色の桜の花びらが、ふわ、と僕たちの足元にそっと落ちた。歩道の脇に植えられた桜の木は、ちらほらとその花を咲かせ始めてはいるものの、まだ満開には至っていない。
「これは自慢でも何でもないんだけどね。あの頃の私はスポーツもできた。勉強もできた。あの当時、あの学校という空間に限って言えば、私はなんでもできる完璧な生徒だった。今にして思えば、別にそんなことに大して価値はないし、そんなことで嫉妬されたって考えるのは自惚れなんだろうけど」
彼女は一度、そこで言葉を区切る。
「─でも、それだけで充分じゃん。誰かを攻撃する理由なんてさ」
渡ろうとした横断歩道の青信号が明滅し、僕と彩葉はその手前で立ち止まる。信号が赤色に変わり、何も荷物を積んでいない軽トラックが目の前を通り過ぎて、辺りが静かになってから僕は口を開く。
「─ごめん。ふたつ」
「え?」
「気づけなかったことと、今どんな言葉を返せばいいのかわからないこと。ごめん」
しばらく考えても、僕は彩葉にかけるべき言葉を見つけることができなかった。
少なくとも僕の認識では─僕はいじめを受けた経験も、誰かをいじめた経験もないつもりだ。だから、彩葉に安易な共感をすることはきっと間違っている。
辛かったね。大変だったね。次々と自分の心に浮かんでくる、質量の無い言葉の数々は、どこまでも空虚に響くようなものばかりだった。どうすれば彼女の心を少しでも軽くすることができるだろう。そもそも、僕が彼女の心を軽くしよう、なんて考えること自体が傲慢なのかもしれない。答えを出すことのできない自分に、いじめに気がつくことのできなかった自分に、僕は苛立っていたし、情けないとも思った。
けれど、僕が謝ると、彩葉は明確に慌てた。
「ああ─えっと、違う。ごめん。急に思い出しちゃってさ。一季のことを責めてるだとか、慰めてほしいとか、全然そういうわけじゃないんだ。そういう意味では、むしろその逆」
「逆?」
「一季が転校してきてからしばらく経って、私へのいじめはなくなったよ。一季のおかげでね」
淀んだ気持ちのまま、僕は首を横に振る。
「何もしてないよ、僕は」
「そう思う?」
「だって、実際にそうだし」
そっかー、と彩葉はなぜか愉快そうに笑う。僕には彼女が笑っている理由がわからなくて、彩葉、と声をかけようとしたところで信号の色が青に変わる。
「─渡ろう?」
そう言って、彼女は軽い足取りで横断歩道を渡り始めてしまった。慌てて僕もその後を追う。
─彩葉の背中は、こうして見ると小さい。
そんな関係のないことを感じた瞬間を、僕は今でも忘れることができない。
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