五、四、

 後悔をしているかい、と十無ツナシは、ヤシロへ出し抜けに問うたのだった。


 深灰北の長閑ちょうかんな路地で、かさかさという紙の擦れる音に関する噂について、情報を集めていた時のことだ。


 重ねていうが十無の問いは本当に突然で、話を聞き終えた通行人が立ち去るのを見送ったところで発せられた。


 そんなわけであったから、社も深く考えずに額ににじむ汗を手の甲でぬぐい、それだけでは格好がつかないと気づいたので、黒色眼鏡サングラスを指先で跳ね上げてから親指をびしりと立てたのである。


「これくらいの聞き込み、なんてことはないのだがねェ。ビジネスはすべからく、足で稼ぐことから始まるのでな」

「ふふ。暑苦しいうえに無駄な動作だね?」

「なーっはっはっはっ! なんだか吾輩わがはいの行動を全否定されたような気がするが、全く問題ナッシィング! 社員が社長に気兼ねなく意見できるフラットな職場という証拠であるからしてェ!」


 社は笑いながら歩き出したが、なぜか十無の足音が聞こえない。不思議に思って振り返れば、少年とも少女ともつかぬ面立ちをした藤色の髪の彼は、夏の日差しの中でおっとりと笑む。


「求めていた答えではないけれど、あなたが後悔をしていないことは十分にわかったよ」


 実に奇妙な言葉の真意を、社は結局尋ねそこねた。


 その直後に、正体不明の真白の子どもたちに襲撃され、社をかばった十無は子どもたちの攻撃を受けて消えてしまったからだった。



 *****



「ちょ、ちょっと待ってください……! 消えたってどういうことですか!?」


 社から事の経緯を聞いたシロは、思わず声を大きくした。


 蓮安リアンの紡いだ結界が、真白の子どもたちが放つ白球を受け止めるたびに大きく軋んでいる。外の民家はあちこちでなぎ倒され、道路はえぐれて、ひどい有様だった。ここの匣庭の主――シロたちを妙な部屋に閉じ込めた老いた男だ――は呆けたように辺りを眺めている。


 だが、シロにとってはそれどころではなかった。


 十無が消えた。そう発言した社は、重々しく息をつく。


「吾輩は最悪の事態も考えられると思っているのだがねェ。体からまるごと消えてしまったわけだから確かめるすべもないが」

「……最悪って」

「十無クンは死んだ」


 シロは顔をこわばらせた。社はずずっと鼻をすすり、意を決したように言う。


「やはり死んで詫びねばなるまいよ」

「え!?」


 シロはぎょっとした。大股で結界の外に出ようとする社を慌てて引き止める。


「ちょ、ちょっと待ってください! さすがにそれは短絡的すぎでは!?」

「いいや! 従業員の一人も守れずして、何がベンチャーの社長か! 命は万の富にも代えがたいものなのだよ!」

「珍しく正論ですけども! あなたが死んだところで、何が解決するわけでもないんですよ!?」

「止めてくれるな若人よ! 構わんとも! ヤシロ長司チョウジ、享年三十八年! 辞世の句はもっとがっぽり、稼いでベンチャー、成功させたいでよろしく頼むのだがぶほっ」

「うるさい馬鹿者」


 蓮安の肘鉄が社の後頭部に沈み、男は前のめりに倒れ込んだ。シロがぽかんとするなか、髪を結び終えた彼女は社の背中に片足をかけ、尊大に腕組みをする。


「ぎゃーぎゃー騒ぐな。十無は死なん。私の式神だぞ」

「……はい?」


 シロが思わず声を上げれば、蓮安が半眼で視線をよこした。


「なんだ、シロくん。もしかして君も気づいてなかったのか? 間抜けか?」

「いや、罵倒」

「あぁもうなんと情けない! 君たちはもう少し注意深く物事を観察すべきだよ。ほら、社の襟元えりもとを見てみたまえ……そう、それだ」


 蓮安に顎先で示されるまま、シロは藤色の紙片をつまみ上げた。上質な唐紙でつくられた人形には、流麗な筆致で文字や記号が書き込まれている。胸元に描かれているのは十だろうか。


 シロの指先から、するりと紙片が抜き取られた。


匣庭はこにわを狙う式神に襲撃された」蓮安は指先にはさんだ紙片を眺めながら、すらすらと言う。「遭遇したのは二枚。深灰北の匣庭は彼らによって回収されていて、そのままあなたのもとへ向かうだろう。言うまでもなく黒色眼鏡のおじさんは頼りにならないので対応を。追伸、どうせ作るなら次も藤色の髪がいい……ふんっ、人間らしい我儘わがままをいうようになったじゃないか」

「……ええと、蓮安先生。それは誰が言ったんですか?」

「十無だよ。書いてある、ここに」


 手のひらより少し大きいばかりの紙片に書かれた文字なんて読めるはずがない。シロは釈然としない気持ちで思うが、十無は死んだ、いや死んでない、ともすれば人間ですらないと言われているこの状況からして、すでに自分の理解の範疇はんちゅうをこえている。

 シロは思わず額を押さえた。


「情報量が多すぎるだろ」

「愚痴を言っている暇はないぜ、シロくん」社の後頭部を足先でつついて起こしながら、蓮安はひらひらと手を降った。「君はしばらく、子供の相手をしてくれたまえ。私は社へ、十無の直し方を教えるからな」

「随分気軽に言ってますけど、要は戦えってことですよね……? 結構えげつない音を立てて結界が揺れてますけど?」

「冗談。君なら余裕で勝てるだろう? あんなものに後れをとるはずがない」


 やけに自信ありげな蓮安の返事に、シロは顔をしかめた。それでも腹立たしいことに、彼女は正確にシロの意図を汲み取って、にやっと笑う。


「頼りにしてるよ、シロくん」


 *****


 いや、絶対にこき使うの間違いだろう。胸中で悪態をつきながら、シロは宙空にかざした手で水の気を掴んで命じた。


驟雨しゅうう砕刃さいじん


 無数の氷刃の欠片が子どもたちをぐるりと囲み、一斉に襲いかかった。ぱんっと乾いた破裂音がしたのは直後のことで、刃はさらに細かい欠片となって霧散する。


 なにかの結界が張られているのか、子どもたちには傷一つない。ならばと、すでに彼らへ肉薄していたシロは低く呟く。


恢網かいもう水嵐すいらん


 シロは呼び寄せた水槍を掴んで振るった。切っ先はやはり不可視の壁に弾かれたが、雪解け間近の氷のような、かすかな軋み音がする。


 シロは手の中で槍を回し、先と同じ場所をつかで押し込むように叩いた。さらに踏み込んで切っ先を引き寄せ、そのまま突く。


 きしりと再び音がした。瓜二つの顔をした子どもたちが片眉をそれぞれ上げ、口を開く。


「不敬」


 呪いですらない短い言葉とともに、シロの眼前に真白の光点が灯った。とっさに身を引く。その直後に光点が膨らみ弾け飛ぶ。


 今しがたまで立っていた地面が削り取られたように消失し、シロは頬を引きつらせた。さりとてあまり後退もできない。背後には蓮安と社がいる。


 真白の子どもたちは、シロをじっと眺めながら口を開いた。


「汝、匣庭たるか」


 ぴたりと揃った声音は一人分の声そのものだ。気味悪さを苦笑いに変えて、シロは水槍をぐるりと振るって構え直す。


「匣庭ではありませんよ。そういう君たちこそ、何者なんです? 人間でないことは確かなようですが」

「我らは式。主様の手足であり、匣庭を捧げて吾子あこ様の命をつなぐが使命である」

「ということは術士がいると。よろしければ、その場所を教えて頂いても?」

「愚問。主様は我らが命そのもの」子供の一人が淡々と答え、同じ温度でもう一人が言葉を継いだ。「害成すとあらば汝を討つ。これもまた我らが使命である」


 子供の姿が揺らいで消えた。直後、右手から殺気が膨らむ。


 シロは息を詰めて水槍を振るった。硬い手応え。そして、槍の切っ先を掴んだ子供の一人が姿を現す。血の一滴もこぼさないまま彼とも彼女ともつかぬ子供が指先でシロをさした。


 光点の凝縮、次いで閃光の白刃が放たれシロの頬を掠めて血が飛ぶ。シロは奥歯を噛み締め、槍を回した。子供は吹き飛ぶが、今度は頭上から空気を焦がすような音がする。


 顔を上げた。もうひとりの子供はやはり無表情のまま、シロに向かって指先から光を放とうとしている。


払暁ふつぎょう一閃いっせん


 凛とした少女の声が響き、子供の背後から刀が振るわれた。刃は不可視の壁に阻まれたが、子供の視線が背後の赤髪の少女に向けられる。その隙をついて、シロは槍を大きく振るって子供の胴に叩きつけた。


 子供が吹き飛び、瓦礫の山に消える。


「イチル、ありがとう」


 頬を拭いながらイチルに声をかければ、彼女はシロを見ることなく刀を油断なく構えた。


「当然のことをしたまでですわ。それよりも早くアレを討つべきよ」


 頷いたシロは、白煙のなかから姿を表した子供に眉をひそめた。数は三人。先程より、一人増えている。


 イチルが苛立たしげに息を吐いた。


「増えた一人は私が追いかけていたほうですわ。南区で行きあって、姫子ヒメコをさらって逃げ出した」

「さらって逃げ出す?」

「白い光が膨らんだと思ったら、姫子の姿が見えなくなったの。匣庭がどうとか言っていたから、何かを探しているようではあったけれど。いいえ、細かいことはいいの。数が増えようが何をしようが、全て斬ってしまえばいい。黄龍コウリュウだって、そのつもりでしょう」

「あ、ちょっと待ってくれ! イチ、うおわっ」


 駆け出したイチルを追いかけようとしたところで、シロは足払いをかけられて倒れ込んだ。背中に重み、そして面白がるような蓮安の声が届く。


「若くて血気盛んだな、イチルちゃんは。向こう見ずとも言えるがね」

「っ、言ってる場合ですか、蓮安先生! 彼女を助けに行かないと」

「社と十無を行かせたから大丈夫さ」

「ですが、」

「文句は結構。それより、残る二人を私達で相手取ってやったほうが、よっぽどイチルちゃんの助けになるとは思わないか?」


 シロが渋々うなずけば、蓮安が「よろしい」と尊大に言って立ち上がった。


 身を起こしたシロは、ゆっくりと槍を回して構え直す。幸か不幸か、真白の子供のうち、元々いた二人もシロ達と戦う腹づもりらしい。


「冷静に分析して相手取る。これが大人なやり方というものさ」シロの隣で、蓮安は実に上機嫌に言った。「手本を見せてやろうぜ。なぁ、シロくん」

「僕に足払いをかけといて、何が大人なんだか……はぁ、まぁいいです。とりあえず蓮安先生は、子どもたちの周りに張ってる結界の解除を、」

「あ、それは無理」


 シロは取り落しそうになった槍を慌てて掴み直した。なんの冗談かと蓮安をにらめば、彼女は「仕方ないだろう」と肩をすくめる。


「術の解除は十無の専売特許さ。で、今あれは社に持たせてある」

「……じゃあ、どうするんですか」

「そりゃあ君」蓮安は至極真面目な顔をしてぐっと拳を握りしめた。「これしかないだろう」

「物理かよ」


 顔をひきつらせるシロに蓮安はからからと笑い、懐から竹筒を取り出した。


「二人で足止めして、行けそうな方が結界ごと子供を討つ。これで決まりだ」

「いや、全然冷静じゃないですよね、この作戦?」

「勝手に言ってろ。さぁ行くぞ!」


 シロの返事も待たず、蓮安は子どもたちに向かって竹筒を放った。


 *****


 刃の音を響かせて、イチルの刀と真白の子供が持つ短刀がかちあった。子供が持つのは、紙で出来た短刀だ。まったくふざけた代物だが、硬度はイチルの持つ刀と遜色そんしょくない。


 だが、なによりもイチルの目をひいたのは、子供の胸元に下げられている赤紫色の宝玉だった。


 あそこに姫子がいる。そう思うだけで、刀に自然と力がこもる。


「たかが妖魔を、ずいぶんと気にしていると見える」


 子供が感情のこもらぬ声音で言い、イチルはきゅっと眉を潜めた。


「姫子を返しなさい。そうすれば見逃してさしあげてもいいわ」

「笑止。押されているのは汝であろう」


 刃を押し返していた力が不意に弱まって、イチルは思わず前のめりになった。機を逃さず子供が真下から刃を突き上げる。


 イチルは刀の柄のぎりぎりのところで受け止め、不格好に押し返した。子供は一度は距離をおいたものの、イチルの態勢が整うより早く連撃をけしかける。


「赤紫の妖魔は汝の助けなど望んではおるまい」子供は攻撃の手を緩めることなく淡々と言う。「あれは汝をえさとしてみているだけだ。匣庭に根ざして生きるが妖魔のさが。しょせんは天のことわりに沿って生きているにすぎぬ」

「そんなの、関係ありませんわ……っ! わたくしは、ただ義理を果たすだけのことよ! 彼女はわたくしを守ってくれたのだから……!」

「今度は自分が守り返せば、妖魔が己を好いてくれることもあるかもしれぬ、と」

「っ……」


 六度目で子供の攻撃を受けそこね、腹を乱暴に蹴られてイチルは瓦礫がれきの山に突っ込んだ。


 全身の痛みに呻きながらもイチルは刀を杖に立ち上がろうとした。けれど眼前に短刀を突きつけられ、彼女は動きを止める。


「誰かを助ければ、見返りとして自分も顧みられる。善行を積めば、悪行を積み重ねる人間を見下して居場所を得られる。汝の願いは綺麗なようでいて、大変に醜い。なるほど、よしんば妖魔が汝に助けられたとて、はたして下心がある好意を受け入れられようか」


 冷たい子供の声に、イチルは息を震わせた。


 それは何度となく姫子からかけられた言葉だ。彼女はイチルの卑怯さをすべて知っている。だからこそ、助けたところで偽善であると笑い飛ばすに違いない。


 怖いと思った。嫌われるのは怖い。きしちゃんって、気持ち悪い。別れ際に投げつけられた言葉が、本当に悲しくて、苦しくて、今だって泣きたくて。


 でも、けれど。


「……だから、なんなんですの」イチルは刀を握る手にぐっと力を込めた。「そんなことより、姫子に会えなくなるほうが、もっと嫌に決まってるでしょう……!」


 刃を地面から引き抜いて、無造作に刀を振るう。攻撃ですらない一撃は、子供を半歩退けたにすぎなかった。彼女とも彼ともつかぬ美しい面立ちは変わらず、短刀をイチルに向かって振りかざす。


天神てんじん地祇ちぎに願いたてまつるゥ! くだりて我らを守り給え!』


 鼻にかかる社の声を合図に、一ツ目の黒の巨人が子供の背後に現れた。振るわれた巨大な拳を子供はひらりとかわし、肩に飛び乗る。邪魔者は排除すると言わんばかりに指先へ光点を灯す。


 そこで、真白の体が不自然に震え、こわばった。


 子供が驚愕の眼差しを向けた先、彼とも彼女ともつかぬ面立ちをした藤色の少年が、社の隣でおっとりと笑む。


「いけないよ、。女の子は丁寧に扱ってあげなくてはね」

「十無……貴様、主様を裏切るか」

「うん? ひどい勘違いだね。元より僕が仕えるのは蓮安先生だ。だから、叶えるべき願いも当然彼女自身のものなのさ」


 右頬に滲んだ墨のようなあざをつけた十無は、手印を結んでうたった。


解錠かいじょうほどきて流れよ』


 手鏡を床に叩きつけた時のような、澄んだ破壊音が響く。イチルは刀を掴んで駆け出した。何の確証もなかったが、果たしてそれは正解だった。


 額を押さえてふらついた子供が一ツ目から転げ落ちた。その体に向かって迷いなく斬りつければ、紙を切るような手応えとともに子供の姿が揺らいで消える。


 そしてイチルは、残された赤紫の宝玉をしっかりと掴んだ。


 *****


極夜きょくやに打つ、四色ししょくを染める 厄災をすすげ、流水紋りゅうすいのもん


 轟音ごうおんとともに、子どもたちの足元から水柱みずばしらが上がった。左右に吹き飛んだ子供の片割れに狙いを定めて、シロは槍を振るう。


 五度振るった水槍の斬撃はしかし、すべて子供の眉間に触れる手前で滑った。硬い手応え、不可視の壁が軋む音、そして子供の指先に灯る光点。それら全てが予想どおりで、だからこそシロは六度目で槍を蹴り上げ、空いた片手を蓮安の喚びよせた水流へかざす。


凍月とうげつ息吹いぶき


 大量の水は瞬き一つの間もなく氷塊となった。シロは乱暴に手を振るって子供へ投げつける。白光が氷を破壊した。粉々に砕け散った破片は無数の破片となって光を弾く。


 水槍を再び掴んだシロは、勢いそのままに子供を撃つ。軋む音はいっそう大きくなったが、やはり弾かれた。


「自明の理」


 淡々と、だが嘲笑あざわらううかのように子供は言って、次の光点を放とうとする。その時だった。


 小さな体に無数の墨色の紐が絡みついて後方に引き寄せる。向かう先には同じように黒の拘束を受けたもう片方の子供がいる。


 驚いたような顔をする子どもたちを捉えたまま、蓮安は新たな竹筒を放って、にやりと笑った。


『灼熱にて燃やし尽くせ 日足紋ひあしのもん


 日輪を模した紋から熱風が吹き上がった。それが氷の破片と触れ合った瞬間、子どもたちを巻き込むように爆発する。


 シロは油断なく得物を構えながら様子を見ていたが、爆風のなから再び子どもたちの姿が現れることはなかった。


 宣言どおり、結界ごと吹き飛ばしたということらしい。馬鹿らしさに苦笑しながらも、シロはほっと息をついて体の力を緩める。


「これが、愛の力か……」


 ひどく間抜けな声が聞こえて、シロは前方を見やった。地面に座り込んだままの老いた男がいる。


 あぁそうだ、元より自分たちは、彼の創った匣庭を対処するためにここを訪れたのだ――そのことを思い出したがゆえに、シロは少しばかり気まずくなった。辺りの民家はすっかり壊れてしまっていて、とてもではないが匣庭の主の未練を聞けるような状況ではない。


「あー……ええと……」シロは男のほうへ近づきながら、頬をく。「愛じゃなくて爆発の力ですね……?」

「愛は爆発ほど強い力を持っているということだね。なんと、含蓄の深い言葉だ」

「うーん……そういう意味でもないんですが……」


 シロの戸惑いを無視して、男は何度もしきりに頷いた。


「これほどまでに強い絆を持つのだな。道理で、君を娘から引き離すことが出来なかったわけだ」

「いや、僕と蓮安先生は付き合ってもないですけどね?」

「いいんだ、いいんだ。今さら隠さずとも、もう勘当などとは言いはせんよ……君たちが互いを想って命を絶った、その後に何を今さらと言うかもしれんがね」


 老いた男はゆるりと顔を上げた。


「どうだろうか。君はこれからも娘を守ってくれるか」


 あぁもしかしてこれが、彼の未練なのか。遅ればせながらシロは気づき、しばしの後に自然と膝を折って男と視線をあわせる。


「もちろんですよ」シロはゆっくりと頷く。「彼女は僕が守ります。それくらいのことなら、できそうですから」


 男が満足そうに頷く。ぱちんと何かが弾ける音がして、その姿が光になって消えた。それを合図に、周囲の景色も少しずつ揺らぎながら変化し始める。


 瓦礫の山は消え、倒壊した家屋は消え、えぐれた石畳も消えた。古びた民家が立ち並ぶ、西区によくある古風な通りの景色が戻ってくる。世界は真夏の陽光に照らされ、住民たちの活気ある声が響いていた。


 シロは立ち上がった。少し離れたところではイチルが姫子に抱きついているのが見える。社も無事に十無を元に戻せたらしい。なにやら笑顔で声をかける社へ、十無が穏やかな表情で応じている。


 あぁ良かった、これで一件落着だ。そう思って、シロは振り返った。蓮安は数歩離れた先に立っていて、いつもと変わらない得意げな笑みを浮かべている。


 まるで子供みたいですね、とシロは言いかけた。そう言えばきっと、「子供なんかじゃない」と彼女がむくれるのも分かっていた。


 それは、ささやかな意趣返しだ。蓮安が本気で怒るはずもなく、そう確信できるだけの時間を重ねてきた証拠でもあり、これからもそんな関係が続いていくのだろうという何の根拠もない自信からくるものでもあった。


 けれどシロが口を開くよりも早く、蓮安は言う。


「おめでとう、シロくん。これが最後の一つだ」

「……はい?」


 シロは首を傾げた。そんな彼に向かって、「匣庭だよ」と蓮安は事も無げに言葉を続ける。


「残る匣庭はただ一つ、私のものだけ。さぁ、私を殺して出ていきたまえ」





 残酷なまでにまばゆい真夏の陽光が、世界と彼女を照らしている。




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