七、六、

 夜闇の中で、柔らかなぬくもりがシロに触れる。


 真っ白な指先は蝶のようにたわむれにひたいへ触れ、頬を撫で、首筋をたどって襟元えりもとにかかった。漏れそうになる息をこらえ、毛布ごとシロが手をぐっと握れば、猫のように顔を寄せた女が黒瑪瑙くろめのう色の目を光らせて笑む。


「さぁ、シロくん」


 蠱惑こわく的にささやいた彼女の指先に顎をすくわれる。見上げた先で、彼女の黒髪が解けて天蓋のように滑り落ちた。やわらかな暗闇に包まれたまま、彼女の唇が近づく。それにひとつ、喉を鳴らして唾を飲み込んで。


「だ、駄目です! やっぱり駄目ですってば!!」


 布団に押し倒されていたシロは、すんでのところで蓮安リアンの肩を掴んで引き剥がした。膝立ちしていた蓮安は、たちまち呆れ顔になる。


生娘きむすめか、君は」

「そ、そう言われても無理なものは無理ですって」

「無理とは、失礼な。こんなにも美しくて可憐かれんな女性なんて、そうそういないぜ?」

「だから……そういう問題でもないんですってば……」


 なんとか蓮安の拘束から這い出たシロは、ぐったりとしながら近くの柱に寄りかかった。


 一組の布団が敷かれた妙な部屋は夜を迎え、灯籠とうろうの明かりがゆらゆらと揺れるばかり。いかにもねやらしい趣ある風景だが、日が沈んだのはシロたちがこの部屋に入った直後――昼の二刻の頃だ。まさに匣庭はこにわらしい現象である。


 そして、ここから出る条件は実に単純で、蓮安と添い遂げること――と考えたところで羞恥の限界がきて、シロは顔を手で覆った。


 乱れた布団のうえで胡座あぐらをかいた蓮安が、半眼でぼやく。


「へたれ、弱虫、童貞わんこ」

「……情緒を大事にしてるんですよ、僕は……」

「はあ?」

「互いに心から愛しあってするものでしょう。子供を育むという行為は」


 なにいってんだこいつ、という蓮安の眼差しに咳払いをして、シロは「というか」と言葉を続けた。


「あなたにとっても大切なことでしょう。その、こういう行為というのは」

「自分の価値観を押しつけないでくれたまえ」蓮安は鼻を鳴らし、胡座に片肘をついた。「なんてことはないさ。生殖行為なんて獣でもやることだぞ。必要なのは雄と雌で、愛だ恋だなんていう感情なんざなくたってできる。もちろん君とだって例外じゃない」

「さばさばしてますね……」

「君がうじうじと考えすぎなんだ。で、覚悟は決まったのか?」


 じっと見つめられ、シロは目をそらした。


「心がない行為は、寂しいものでしょう」

「まだ言うか」

「呆れて頂いて結構です。でも、これだけは譲れません。上辺うわべだけの願いを叶えることほど虚しいことはない。こうやって夜を共にすることだって、同じはずです」


 蓮安がため息をついて立ちあがった。また実力行使に出られるのかとシロは肝を冷やしたが、なんのことはない。彼女はシロのすぐそばで、背中を向けて胡座をかく。


「髪」

「はい?」

「特別になおす許可をやる」髪飾りをシロへ突きつけて、蓮安は面倒くさそうに言った。「終わるまでに結論が出なかったら、襲うからな」

「……襲われるのは嫌だなぁ」


 シロは苦笑して、髪飾りを受け取った。艷やかで癖のない黒髪を手櫛てぐしですく。少しばかりひやりとしたそれは心地よかった。


「あれこれと騒ぐわりに、こういうのは手慣れてるよな。シロくんは」

「イチルが小さい頃は、身支度の手伝いをしてましたからね」

「お前はそうやって、すぐに幼女へ手を出す」

「そういうんじゃないんですってば。うがった見方をするの、いい加減にやめてもらえませんか」

「現実主義といいたまえ。夢見がちな君と違って、私はいつだって冷静に状況を見極めてるのさ」

「よく言う。料理があれば目を奪われ、匣庭が絡むと聞けば一も二もなく飛んでってるじゃないですか」

「ふふん。少しの瑕疵かしがあるほうが、可愛らしいというものだろう?」

「いつも思うんですが、先生は可愛いの定義から再考しなおしたほうがいいですよ」

「生意気なやつめ。なら君は、私のことをどう思ってるんだ」

「どうって」


 蓮安が振り返り、シロが手の中でまとめたばかりの黒髪が再び夜に舞った。


 灯籠の明かりが彼女の横顔に柔らかな影を落とす。黙っていれば美しい横顔は、ここ数ヶ月でずいぶんと見慣れたものになった。だからこそ、長いようで短いひとときを思い出して、シロは小さく笑う。


「子供がそのまま大人になったひと、ですかね」

「……馬鹿にしてるだろ」

「してますよ、もちろん。でも、」幼子のように不貞腐ふてくされた顔をする蓮安へ、シロはそっと身を乗り出した。「尊敬もしてます。あなたは誰よりもまっすぐで、優しいから」


 夜を溶かし込んだ黒髪を指先で慎重にはらい、シロは彼女の額へそっと口づけた。追いついてきた羞恥を誤魔化すように、ぎこちなく笑って身を離す。そこで、蓮安の指先が襟元を掴んで引き止めた。


 灯籠の炎が、じりと空気を焦がす。


「蓮安先生?」

「……シロくん、君は」


 シロを見上げる蓮安の目がかすかに揺れた。けれどそこで、部屋が大きく横揺れし、シロは慌てて態勢を崩した蓮安を抱きとめる。


 驚く間もなく、ぱちんと音が鳴って周囲の景色が切り替わる。


 夜に沈む中庭が消え、淡い光を灯す灯籠が消え、ついぞ使うことのなかった布団が消え、代わりに現れたのは婚礼に賑わう元の民家、ではない。


 午後の陽光差し込む板間は屋根が破れて崩れ落ちていた。瓦礫がれきに引き裂かれた朱金しゅきんの飾りも、卓ごとひっくり返った料理をのせた皿も、無残に地面に散らばっている。


 明らかに異様な世界にシロが息を飲んだところで、聞き慣れた男の声が響いた。


「なーんっと行幸! シロくんじゃあないかねェ!」

ヤシロさん!? え、なんでこんなところに……北区にいったはずじゃ」

御託ごたくは結構なのだよ!」


 どたどたと慌ただしく駆け寄ってきた社は、シロたちを閉じ込めた老いた男と一緒だった。だが、社は元より十無ツナシと一緒だったはずだ。なぜ彼がここにいるのか。十無はどこに行ったのか。シロが問いかける前に、社が今しがた自分が来た方向を見やって警戒のにじむ声を上げる。


「奴らが来るのだよ! 総員、伏せェ!」

「は!? 伏せって、っうわっ!?」


 強引に社がシロの背中を押す。直後、頭上を真白の光の塊が通り過ぎていった。


 民家が大きく揺れ、老いた男が悲鳴を上げ、素早くシロの胸元から顔を出した蓮安が舌打ちする。


「出たな」


 低い声で吐き捨てた彼女が見つめる先に、三人の子供の姿がある。


 少年とも少女ともつかない美しい顔立ちだった。髪も肌も唐服も、上質の唐紙のように真白でいて、焼け焦げたような黒茶がところどころに混じっている。



 *****



 ほんとに気にいらねぇなと、姫子ヒメコは腕を組んだ。


 深灰シンハイ東区の果ての果てである。錆びた鉄塔の足元に打ち捨てられた民家がへばりつく土地は、実に寂れていて、姫子からすればダサいことこの上ない。


 そしてさらにダサいことに、自分たちは頭の悪そうなチンピラに囲まれていて、薄暗い路地裏の片隅に追い詰められている。


 姫子をかばうようにして前に出たイチルが、三人の男をきつく睨んだ。警戒感を隠しもしない様子は結構だが、果たして彼女は自分のそういう態度が男たちを喜ばせるということを理解しているのか。


 いいや、してねーな、と姫子はすぐさま打ち消した。それでまた腹が立った。


「あなたたち、何の用ですの」


 イチルが静かに問いかける。有象無象の男どもは互いに顔を見合わせ、にやにやと笑った。


「なにって、嬢ちゃん。散歩だよ、散歩。天気がいいっしょ?」

「妙なことを仰らないで。建物もろくにない、来ようにも路面電車しかない辺境の地よ。散歩にしては遠すぎますわ」


 ぴしゃりとした返答に、男たちはおかしそうに目配せしあった。


「いやー、なになに? ソーメイってやつじゃんね? ジャン、お前こーゆー女が好みって言ってなかったか?」

「ばっか、俺は清楚系が好みってんだろ。両足もきちんとある方がいいしさ。だからどっちかってと、そこの黒髪の子のほうが良いワケよ。声とかぜってえ可愛いじゃん?」

「でたでた、お前はすーぐに見た目で判断すんだからな!」

「……不快ですわ」


 ぼそりと吐き捨て、イチルが半身を引いた。払暁ふつぎょう一閃いっせん――低い声とともに唐傘からかさの柄を引く。


 現れた刀をイチルは振るった。姫子はしかし、これまた顔をしかめる。踏み込みが浅い。本気で男たちを切る気がないのは明白だ。そしてちんぴら共も、ちんぴらのくせにそれに気づいた。


 刃を振るったイチルの腕を、長身の男が無造作に掴む。イチルの顔が強張った。男がにたりと笑う。


「だーいじょうぶさ、おねーさん。俺はさあ、君みたいな強気の女の子が泣いちゃうとこが好きだかんね」

「ええー、困っちゃうな。そっちの子より、ヒメちゃんのほうがずっとずっと可愛いでしょお?」


 ぴんと張った空気に気づいていないふりをして、姫子は媚びた声をあげた。驚いたような男たちをぐるっと見回し、姫子は愛らしく微笑んでやりながら歩き出す。


「ヒメちゃんなら、ちゃあんと分かってるよ。おにーさんとどういう遊びをするのかさ。ねね、そういうのって、ソーメイだよね?」

「……なんなんだ、お前は」

「なに? あっはは! オニーサンたら怖気づいちゃったの? 可愛いねえ」姫子はたじろぐ男の腕を掴み、目を光らせた。「でも残念。せっかくだから、ヒメちゃんと遊びましょ? ”偶然アレア”」



 ばちんと空気が爆ぜ、姫子達と男を分かつように二つの小箱が現れた。男が苛立ったように右の小箱を薙ぎ払う。箱はあっけなく開いた。もちろん空だ。


 男の体がビクリと震え、顔がこわばる。イチルの腕を乱暴に引っ張った姫子は、鼻先で止まった不埒ふらちな手を嘲笑あざわらった。


「はーい、残念。お兄さんの負け。それでは早速、報酬時間と参りましょう」


 姫子は嬉々としていいながら、宙から掴んだ紙切れへ目を落とした。


王静ワン・ジン士大夫したいふめかけの子として生まれた。両親に愛されて育ったが、十の時に正妻に子供が生まれて人生真っ逆さま。母は色狂いに、王静は小役人として名をあげようと、賄賂わいろを積んで科挙に合格した。己より能力の劣る張偉ジャン・ウェイ以下二人の男を友人と騙っているが、常々見下している。張偉の好いた女を寝取ったのが三ヶ月前のこと。李偉リー・ウェイの給与から三割を横領しはじめたのが一年前から」


 王静と呼ばれた男が顔を青くして後ずさった。


「なっ……お前、どうしてそれを……」

「んふふ、もちろん理由を教えてあげてもいいけどね」姫子は紙切れを口元に当てて目を細めた。「それより、背中を気をつけたほうがいいんじゃないかなあ」


 王静が振り返るのと、取り巻きの男たちが怒りのままに彼へ掴みかかったのは同時だ。罵声、怒声、殴打音、果ては「騙されるお前らのほうが悪い」という開き直った反論の声。


 聞くに耐えぬ騒がしさを、姫子は一歩離れたところでうっとりと眺める。秘密が暴かれる瞬間は、これだからたまらない。


「何をしてるんですの」


 硬い声とともに袖を引かれ、姫子の機嫌は一気に冷めた。

 顔をしかめて振り返れば、イチルのとがめるような眼差しが突き刺さる。


「……なーに、きしちゃん。ヒメちゃんは今、とっても忙しいんですけどお?」

「あなた今、妖魔の力を使ったでしょう。彼らはただの人なのよ。抵抗する術を持たない相手に、一方的に暴力をふるうのは許されませんわ」

「はあ? なにそれ、超ウケるんですけど」姫子は失笑した。「暴力ふるってきたのは、あっちのほうでしょ。てか、ヒメちゃんはきしちゃんを守ってあげたんだから、感謝くらいすべきじゃない?」

「助けてなんて、言ってませんわ」

「じゃあ、きしちゃんはあいつらと寝たかったわけ? あっはは! 真面目な顔して趣味わっるいじゃん!」


 突き放すように明るく言えば、イチルの目が悲しげに揺れる。「そんなわけないでしょう」と呟く声は弱々しい。それでまた、姫子は不愉快になった。


 腕を引いて、唐服の裾をはらった。所在なげな顔をするイチルを睨む。


「自分ばっかり綺麗って顔してさ。きしちゃんって、本当に気持ち悪い」


 イチルが傷ついた顔をした。それにほんの少しだけ胸が軽くなった。かさりという紙が擦れるような音がしたのは、その時だ。


 姫子達は揃って顔を上げる。言い争っていたはずの男たちの姿は、まるで夢か幻のように消えていた。代わりにぽつんと立つのは、二人の子供だ。


 少年とも少女ともつかない顔立ちをしている。髪も肌も唐服も、上質の唐紙のように真白でいて、焼け焦げたような黒茶が混じっている。


 真夏の日差しに照らされた子どもたちは、どこか浮世離れした美しい顔立ちに感情をのせぬまま呟く。


なんじらは匣庭たるか」


 冷えた声に嫌な予感がして、姫子は反射的にイチルを突き飛ばした。幸いにして、鬱陶うっとうしい彼女の声はすぐに途切れた。目の前の正体不明の子供達が、姫子をとらえるように空間を断ち切ったからだ。


 目の前の景色が白一色に変化する。姫子は口元を引きつらせた。


「悪趣味じゃん」

「はて、捕まえられたは女が一人」子供の片方が小首をかしげて呟けば、同じ声音でもう一人が言葉を続ける。「主様の術をかいくぐって一人を逃したのであるから、ただ人ではあるまいて」

「ごちゃごちゃうっせーよ」


 姫子は吐き捨て、赤紫の燐光をまとった指先を子どもたちへ突きつけた。


偶然アレア


 子どもたちの周囲に小箱が三つ現れ、全てがあっけなく砕け散る。やはり子どもたちは動かなかった。気味悪さが腹の底をじりと冷やし、姫子は顔をしかめる。ただの術士であるなら遅れはとらない。けれど。


 何故か今しがた逃したばかりのイチルの傷ついた顔を思い出して、姫子はグッと唇を噛んだ。綺麗事ばかりの彼女の助けなんて必要ない。これくらい一人でやれる。


 弱気を笑い飛ばして、姫子は宙空から紙片を掴み取った。



 *****



 吾子あこ様、と悲鳴のような声が響き、我らは主様とともに板間に駆けつけました。


 晩春の長雨が降りしきりる日でした。昼だというのに空気は鉄紺てつこん色に暗く、縁側からは小雨が舞い込んで、床に散らばった古書に降りかかっておりました。


 空気が閃き、数拍遅れて雷鳴が響きます。古書を片手に立ち尽くした吾子様の顔は青白く、我らと主様を見やるなり怯えたような顔をしました。けれどすぐに、唇をきゅっと噛み険しい眼差しになります。


 主様が低い声で問いかけます。


「何をしている」

「別に。勉強をしてただけさ、ととさま」

「たかだか勉学で、こうも部屋が散らかるものか」

「捜し物をしてたんだ。もう終わったから片付けるよ」

「それは禁術だぞ」

「言われなくても」吾子様は手の中の古書をみやって、馬鹿にしたように笑いました。「そんなの、見れば分かる。後生大事にしまってあったもの。私に隠すようにして」


 主様が目をすがめました。吾子様はさっと巻物を懐に寄せ、首を横に振ります。


「今は返さないよ。勉強したらね」

「そんなものを学んでどうなる」

「強くなれる。当たり前のことじゃないか、ととさま」


 雨音が響くなか、吾子様は奇妙なほど穏やかに返しました。


ナナロクが言ってたよ。この術は、真名を知らなくても妖魔を祓うことができるって。すごいことじゃないか。なのにどうして、これを隠しているの? もっと公にするべきだ。そうすればきっと、家の人間も態度を改める」

「……やはりそれか」


 主様の返答に、吾子様はむっとしたようでした。「それって、なに」とぶっきらぼうに問う彼女へ、主様は呆れたように言います。


「昨日の妖魔退治で、李家の小僧に馬鹿にされたのが、そんなに気に食わなかったんだな。未熟者め」

「そうだよ、気に食わなかった」吾子様は苛立ったように返しました。「でもね、ととさまが思ってるような理由じゃない」

「くだらん」

「くだらなくない! 李周リシュウはあなたを馬鹿にしたんだぞ!? 術は塵屑ごみくずで、妖魔の一匹だって祓えないって!」


 吾子様が荒々しく一歩を踏み出し、我らが弟妹達はかさかさと音を立てて一斉に部屋の片隅に逃げ込みました。主様がため息をつきます。


「事実だろう。俺は三流にもなれん傍系の術士だ。李家のような名門の家柄が力を発揮できるように露払いをする。それで十分だ」

「そうやってすぐ諦めるから、李家の人間がつけあがるんだ! ととさまの術は三流なんかじゃない! きちんと準備をすれば、李家の人間なんかいなくても妖魔を祓えるんだよ! この禁術なんか、まさにそうじゃないか!」

「それは術士の命一つを犠牲にして発動する術だ。そんなものしか考えつかないから、俺は三流なんだよ」

「違う! ととさまは世界で一番強いんだ! だからっ」吾子様は声をつまらせて、何度も首を横に振りました。「だから……っ、李家の人間を見返したいんだよ! そうでないと、いつまでたっても、ととさまが怪我をするような戦い方ばかりさせられるじゃないか……っ!」


 吾子様の悲痛な声に、我らはうなだれました。


 主様が左腕に大やけどを負って帰ってこられたのは一昨日のことです。その前は右足の骨折で、さらに前は腹部の内臓がまるごと破裂しておりました。李家の人間は術に長けておりましたから、死なぬよう治療をして主様を我らがいおりに帰してくださったのです。それでも、怪我が治るには時間を要しますし、苦しみや痛みが消え去るわけでもありません。


 主様は忍耐強く、痛みを口に出すような方ではありませんでした。

 我らは式で、主様の許しなしに感情を口に出すことはできません。

 けれど吾子様は忍耐強くもなければ、我らのように誓約に縛られることもないのです。彼女は自由で、心優しい娘でした。


 雨音が少しばかり強くなります。雷鳴が低く空気を唸らせるなか、主様は冷静に言いました。


「そうであるとして、だからなんなんだ」


 冷たい返事に、吾子様は怯えたような顔をしました。


「なに、って……私はととさまのために」

「そんなものいらん」

「でも、」

「くどい。俺は三流だ。お前が禁術を使おうが、それによって死のうが、これは変わらん。李家の人間は馬鹿なやつめと笑って終わるだけだろう。そんなことも分からないのか」


 厳しい声に、吾子様は開いた口を閉じました。主様は恐ろしく長い沈黙のあとに言います。


「しょせん、人は自分の見たいようにしか相手を見ない。相手の言動の端々を切り取って、都合のいいように解釈して、そうやってありもしない人間像とやらを作るんだ。変えることなど、できはせん」

「っ……でも……」吾子様は弱々しく反論しました。「でもじゃあ、ただ耐えろっていうのか。嫌だよ。それじゃあ、とと様が損ばかりだ。許せないよ……」


 吾子様は顔をうつむけました。主様がため息をつき、そっと彼女に近づきます。


 彼が珍しく吾子様の名前を呼べば、何度か鼻をすすったあと、「はい」という弱々しい返事があります。


「俺がかっこ悪く見えるか」


 主様の問いかけに、吾子様はゆるゆると首を振りました。


「そんなわけない。ととさまは世界で一番かっこいい」

「なら、損はしとらん」


 吾子様がそろりと顔を上げました。主様はじっと愛娘を見つめます。


「他者から見た己の虚像を操作できぬ以上、我らは我らの心のままに生きるしかない。少なくとも、俺はずっとそうしてきた。そしてお前は、そんな俺を見て褒めてくれるのだろう。なら、これほど幸せなことはない」

「私だけじゃ意味ない……」

「俺にとってはお前だけで十分だ。万人に好かれることよりも、自分が最も大切と思う相手に認められることのほうがよっぽど難しいし、だからこそ嬉しいものだ」


 主様はだらりと垂れ下がった左腕を揺らし、右手で吾子様の黒髪をくしゃりと掴むように撫でました。吾子様はしばらくじっとしていましたが、やがて古書を投げ捨て主様に抱きつきます。


「……ととさまは、馬鹿だ」彼女は鼻をすすって、もごもごと呟きます。「これじゃあ、何も変わらないのに」

「変わることが必ずしも正義とは限らん」

「強がり」

「本心だよ。俺のな。だから今が幸いなんだ」


 主様は吾子様に腕を回し、穏やかに言いました。


「お前も、心のままに生きなさい。他者の押しつけるお前ではなく、お前自身が望む生き方を貫くんだ。それだけが、俺の望みだよ」

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