第二話 まぁ、野菜をすすいだってどうしようもないしねぇ


「ぼふんという音に振り返ったら、白い煙があがって蓮安先生が子供になっていた?」

「そのとおり。ぼふんという音に振り返ったら、白い煙があがって蓮安先生が子供になっていたんだよ」


 書物が広げられたままの板間で、シロの向かいに座った十無ツナシはうなずいた。その面持ちは神妙で、けれど言っていることはどう考えても支離滅裂だ。


 シロだってこれが馬鹿らしいことであると分かってはいる。

 だがしかし、である。


「ねーぇ! 話ばっかりでぜんぜんつまらん! そとに行こうよ!」


 シロの胡座あぐらにちょこんと座った夜色の子供が、頬を膨らませて主張した。


 彼女は今や、服のみならずあちこち泥だらけだ。それもそのはず、とりあえずの事情を整理しようと部屋に連れ戻したいシロと、天気がいいのだから外に遊びに行きたい彼女との間で、殴るわ蹴るわ噛みつくわの――もちろん、子供のほうが一方的に、である――死闘があったからだ。


 いずれにせよ、十無はこれが蓮安リアンなのだという。シロは額を押さえつつ、なんとか苦労して口を開いた。


「じゃあその、この子供が仮に蓮安先生だとして、」

「かりにじゃないですー! にのまえりあんで、むぐ」

「はいはい、蓮安先生は黙っていてくださいね」シロはひっかき傷だらけの手で蓮安の口元を塞いだ。「もとに戻す方法はあるんですか? というか原因は……たとえば、これがなにかの術である可能性は?」


 十無へ尋ねながら、シロはちらりと蓮安の手元を見やった。小さな手にはくだんの奇妙な木片が握られている。「しーふーが作ってくれたんでしょ!」というのが蓮安の主張だが、シロには覚えがないし、なにせ発見されたのが井戸の中だ。


 なにより、自分が読みあげた奇妙な文句のせいで、なにかの術が発動した、ということならば笑えない。そうシロは考えるが、幸か不幸か、十無はきっぱりと首を横に振る。


「術でないのは確かだよ。それなら蓮安先生が気づくはずでしょう? 私もいろいろ試してみたけれど、上手くいかなかったし。だから、これは術じゃない何かが原因ってことなんだけど……」

「術ではない何かって、痛った!?」


 蓮安に思い切り指を噛まれ、シロは顔をしかめて手を引っ込めた。するりと逃げ出した蓮安が、幼子らしい取り繕った真面目な顔で指をぴしりと突きつける。


「しつもんばっかりせずに、自分のあたまでかんがえなさい! しーふー!」

「そ……れは、まぁ、そうですけど……」


 痛いところをつかれ、シロは頭をかいた。


「だからって、どうしろというんです? 十無さんがお手上げだと言うなら、僕に分かるはずもないでしょう。術のことはからきしですし、深灰シンハイの事情に詳しいわけでもない」

「しーふーは、せかいでいーっちばん、つよいじゅつしでしょ!」

「あのですね、蓮安先生? 僕はしーふーとやらではなくて、シロですからね?」

「しーろー?」

「おしい」


 シロが姿勢を正せば、蓮安もなにを思ったのかちょこんと正座する。その彼女にむかって、シロは「いいですか」と言った。


「シロです、シロ」

「む……」蓮安はぎゅっと眉根を寄せ、顔を歪めながら繰り返した。「し……ぃふろぅ……」

「びっくりするくらい嫌そうな顔だし、あってもない」

「ふふ。なんだかんだで、二人とも楽しそうだねぇ」

「いやいや」シロは渋い顔で振り返った。「十無さんも笑ってないで、真面目に考え、て……」


 そこまで言いさしたところで、シロの首裏のうろこがざわりと逆立った。顔を跳ね上げたと同時、新緑を日差しに染めた中庭の茂みが不自然に動く。


「しーふ、きゃっ!?」


 不思議そうに見上げた蓮安を、シロは咄嗟とっさに引き寄せた。真っ黒な人影が茂みから飛び出してきたのはその時である。


「なんですか、これ……」


 シロは思わず呟いた。


 飛び出してきた黒影は、最初こそ手のひらに収まるほどの大きさだったように思う。けれど今や、上背の高いシロよりも、さらに頭二つ分高く、横幅もあった。いかにも伝承に出てきそうな大男だが、顔はない。代わりに頭部には、赤に輝く巨大な目が一つある。


 一つ目の異形は、体全体を震わせて野太い声を上げた。大声にシロが思わず顔をしかめる中、彼の腕から抜け出た蓮安が目を輝かせる。


「ようま!」

「あ、ちょっと蓮安先生!」


 シロの手をすり抜けて、蓮安は裸足はだしで中庭へ飛び出した。懐から彼女の小さな手にあまる竹筒を取り出し、放り投げてから祝詞のりとを紡ぐ。


『きょくやにうつ、ししょくをそめる! ええと、やく……やさ……やさいをすすげ、おみずのもん!』


 柏手かしわでの音は小気味よく、なれど呪墨じゅぼくしたたる竹筒はでたらめな軌道を描いてぼとんと地に落ちた。


 あれ、と蓮安が目を瞬かせた。黒影がぶるりと体を震わせ、巨腕を振り上げた。

 そして十無はのんびりと言う。


「まぁ、野菜をすすいだってどうしようもないしねぇ」

呑気のんきに言ってる場合ですか!」


 シロは中庭へと飛び出した。すんでのところで蓮安の体をさらって巨人の腕をかわし、そのまま幼子を十無のほうへ押しやりながら怒鳴る。


「下がっていてください! 絶対にこっちには来ないでくださいよ!」


 本当に妖魔だろうか。それにしては妙な気配がする。浮かんだ疑問をしかし、シロは深く追求するのをやめた。洗濯のかけられた物干し竿を掴み、大男の巨腕が動くのにあわせてそれを振るう。


 振り下ろされた黒腕を、シロは物干し竿で受け止めた。たかが細い棒、おまけに洗濯物つきだ。いまいち締まりがないが、正しい角度と機を狙って差し込まれたそれは十二分に武器となる。


 まさか止められるとは思っていなかったのか、黒影がひるんだ。それを逃さずシロは棒を滑らせ腕を弾く。返す手で竿さおを回して引っかかっていた衣服を外し、短く息を詰めて踏み出した。


 竿の先端が黒影の顎をとらえる。嫌がるように振るわれた巨腕を、シロは素早く竿を引いて身をかがめることで避けた。地を這うように手の中で竿を滑らせ、さらに大男のくるぶしを打つ。


 大男が随分と痛そうな悲鳴を上げて飛びすさった。相変わらず、声はおどろおどろしいが、間抜けな反応にシロは拍子抜けする。敵意はあるが害意はないというか。微妙な迷いがシロの動きを止めさせた。


 そこで再び柏手が響く。


極夜きょくやに打つ、四色ししょくを染める 厄災やくさいをすすげ、流水紋りゅうすいのもん!』


 やけに鼻にかかった男の声とともに、横あいから飛び出してきた濁流が黒い巨人の体を直撃して押し流した。勝敗は一瞬、役目を終えた水が消えれば、あとには穏やかな中庭の光景が広がるばかりである。


 どうやら助けられたようだ、とシロは遅ればせながら理解する。けれど一体誰が。物干し竿片手にシロが蓮安を見やり、彼女を抱えた十無が否定するように首を横に振ったところで答えが出た。


「おいおいおい。せっかく吾輩わがはいが華麗に助けてやったというのに、なーんだね! そのうっすいリアクションは!」

「ふうむ、ヤシロさん。そういう発言は、大変に恩着せがましいと思いますがね……」

「シャーラップ、丹朱タンシュクン!」


 騒々しい声とともに、二人の男が無遠慮な足取りで中庭に入ってきた。


 一人は絶妙に胡散臭い洋装姿の黒色眼鏡サングラスの男、もう一人は気弱そうな表情を浮かべた僧服姿の若い男だ。社と呼ばれた黒色眼鏡の男は、薄くではあるが、蓮安の術と似たような気配をまとっている。


 シロは油断なく物干し竿を握りながら尋ねた。


「なんなんですか、あなたたちは」


 あれこれと言いあいをしていた男二人は、同時にシロのほうを見やった。社が「うをっふぉん」とわざとらしい咳払いをしてニヤリと笑う。


「グッドクエスチョンだ、若者クン。吾輩達はなんでも屋だ。そして今日から、この墨水堂ぼくすいどうは深灰で今最も勢いのある我輩達のベンチャー企業が買収、運営することとあいなった!」


 中庭に沈黙が落ちた。決まった、と言わんばかりに満足げな顔をする社をしりめに、シロは十無へ救いを求める。藤色の髪の少年はしかし、心底不思議そうな顔をして首をかしげた。


「うん、さっぱり分からないね?」

「むう。しーふー、わたし、あのめがねのおじさんきらい」

「……だ、そうですけど」


 シロが再び社を見やれば、彼は頬を引きつらせながら黒色眼鏡を指先で押し上げた。


「くっ、助けてやったというのに、なんと生意気な態度だね。君たちは……」

「社さん、やはり説明不足なのでは?」禿頭とくとうを掻いた丹朱が、おずおずと提言した。「あまり乱暴なやり方もよくありませんでしょう。もっと丁寧に説明をしてあげねば」

「ふん。説明するまでもなかろうが、丹朱クン。墨水堂が店として機能していないのは明白だ。見てみたまえ、ここにいるのは生意気なチビに、のほほんとした少女に、なんだか冴えない若者だけじゃないか」


 指さされた蓮安が毛を逆立てた猫のごとき勢いで社を睨みつけた。


「わたし、あのおじさんだいっきらい!」

「まぁまぁ、蓮安先生。落ち着いて」

「いやあの十無さん。のんびり笑ってますけど、あなたも女の人に間違えられてますからね?」

「だぁもう、お前らは本当に我輩を無視して話をするな!? おい、丹朱クン! 例のアレだ!」


 苛立った社に急かされ、丹朱は実に気乗りしない様子で「はぁい」と返事をする。その錫杖しゃくじょうが地面を叩いたと同時、シロたちの足元を囲むように地面に白円が描かれた。


 ほのかに立ち上り始める白光に、さすがのシロも顔色を変えた。嫌な予感に蓮安達のそばへ行こうとすれば、申し訳無さそうな丹朱の声が飛んでくる。


「案じなされるな。皆さんまとめて近くに落としますし、迎えにもいきますゆえ。では、いってらっしゃい」

「いや、いってらっしゃい、って……!?」


 問いを口にしかけたところで光がいっそう強くなり、シロはたまらず目を閉じる。


 体ごと宙に投げ出されるような浮遊感もそこそこに、シロは体をしたたかに地面へ打ちつけた。呻きながら起きあがろうとしたところで、さらに上から何かが降ってくる。


 蛙の潰れたような声をあげて再び地面に沈んだシロの上で、蓮安のやけに楽しげな笑い声と、十無ののんびりとした声が届いた。


「さすが、龍のお兄さん。受け止めもばっちりだね」

「……一応確認ですけど、わざとじゃないんですよね……?」

「やだなぁ。褒めようたってそうはいかないよ? そんな器用なこと、出来ないもの」


 するりと背中からおりた十無が、にこにことした表情で言う。シロは文句を言う気も失せ、体を起こして眼前の家を見た。


 あちこち黄ばんだ漆喰しっくいの壁、こけむした屋根瓦やねがわら、そして風雨に傷んだ墨水堂の看板。


 ここがどこなのかと、問うまでもない。シロたちは文字通り、蓮安邸の門前に追い払われたのだった。

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