エントロピー増大の法則
ささき
第1話 バラバラな世界
~~~~
雪に覆われた田んぼのあぜ道で、僕は一人でつぶやく。
「世界はごちゃごちゃしていたほうがいい」
そこにはたった一つ、小さな足跡が続いている。それは、(とても狭いが)規律正しく一定の歩幅で、真っすぐ、僕の脆弱な視力が届く限界まで伸びていた。
(僕の周りには、今、この瞬間も、何千、何万、いや、何億、何兆、いや、何千万兆の分子が浮遊していて、飛び回っている。その分子たちは、それぞれ違う方向を向いて、それぞれが違う動きをしているはずだ)
「世界はごちゃごちゃしていたほうがいい。それが正しい答えなんだ」
~~~~
<僕は、あの時目指していた都会の大学へと進学しました。相変わらず、訳の分からないことを勉強しています。都会では、どこに行っても駅があって、すぐに電車がホームにやってきます。朝、寝坊してもあせらなくていいので、とても助かっています。
どこへ行っても、たくさんの人がいます。最初は、人酔い?とでもいうのでしょうか?人込みの中で気持ち悪くなることがありましたが、最近は慣れてきました。どんなに混んでいても、人とぶつからずに真っすぐ歩けます。
ご存じの通り、人と話すのが得意ではないので、なるべく人と話さないアルバイトをしています。見たことはないでしょうか?道端に立って、カチカチと数取り器で通行する車をカウントする仕事・・・あれをやっています。一日で1万円以上もらえるので、とても割のいい仕事です。>
「ああ、寒い」
ノースフェイスのダウンを着た僕は、スマホを打つ手を止め、数取り器をカチカチを鳴らした。
都心のはずれ。
夕方。チラホラと雪が舞っている。
数年ぶりの積雪の影響で、交通量は少ない。
「今日はいつも以上に暇かもな」
僕は、またスマホを取り出す。寒さで手が震える。
<大学の勉強はとても面白いです。今日は、熱力学の授業でした。
エントロピーという言葉を知っていますか?Wikiでは、「系の微視的な乱雑さを示す量」と書いています。意味わかんないですよね。ビリヤードをイメージしてみてください。ビリヤードは最初、きっちりと並べられたビリヤードの列に、思い切り白い球をぶつけますよね?並べられていた9個のボールはどんな動きをしますか?すべてが一斉に同じ方向に、同じスピードではじけ飛ぶでしょうか?すべてが同じポケットに一斉に入るでしょうか?・・・>
カチカチ。意味もなく、2つカウントした。
<その状態は、ありえないとは言いませんが、ほとんど想像できない発生率だとおもいませんか?・・・ほとんど100%に近い確率で、すべてのボールはバラバラに、違う方向を向いて、違う速度ではじけ飛びますよね?一個や二個、たまたま同じ動きをすることはあるかもしれませんが、基本的に「バラバラにはじけ飛ぶ」が答えだと思いませんか?このバラバラ具合を数字にしたのがエントロピーだそうです。最初のきっちりと整列した状態は、言ってみればエントロピーが0・・・すべてのボールが同じ方向に飛んでいく状態がエントロピーが低い状態・・・バラバラに散らばった状態がエントロピーが高い状態・・・ということになるんだと思います>
「おい、お前、ちゃんと数えているのか!」
バイトリーダーのおじさんに怒鳴られた。
「は、はい」
僕は、スマホをポケットに隠した。
「嘘つくな!歩行者もちゃんとカウントしろ」
見ると、雪が止み。雲の狭間から微かな光が差し込んでいる。一日、缶詰状態だった周辺住民が、ここぞとばかりに外へ出てきたのだ。除雪車の到着を待つ道路を避けるため、徒歩でそれぞれの目的地へと向かっていた。
「歩行者もちゃんとカウントしろ!」
「はい!すいません」
僕は急いで(適当に)数取り器をクリックした。真っ白だった歩道に、次々と足跡が追加される。
駅へと向かう者、近くのスーパーへと向かう者、近くの居酒屋へと急ぐ者、帰宅する者、背の高い若者、急ぎ足のオバサン、はしゃぐ子供、各々が、思い思いの場所へと向かい、好き勝手に歩む。
無数の「バラバラ」な足跡が歩道を埋めつくした。
「どうせ、みんなバラバラなんだな」
と僕はつぶやいた。
次にスマホを取り出したのは、すっかり日が落ちた帰りの電車の中だった。
<物理マニアの友達に聞きました。彼が言うには、「宇宙も同じ」らしいです。宇宙の始まり、宇宙は一つでした。でも、ビッグバンが起きて・・・つまり、白いボールがぶつかって・・・それ以降、宇宙はバラバラになりました。宇宙は、膨張していると聞いたことはないでしょうか?なぜか・・・それはよりバラバラな状態に近づくためだと・・・彼は言っていました。エントロピー増大の法則です。宇宙は、離れ離れ、よりバラバラな状態になろうとする。なぜなら、それが、物理的にはより正しい状態だからです。>
電車が目的の駅に到着し、僕は人混みにもまれながら、ホームから改札まで進む。改札を抜けると同時に、僕の周りを固めていた人たちは僕を開放し、それぞれの帰路へと急ぐ。僕もまた、誰もいないワンルームへと、スマホをいじりながら歩を進める。
<彼は、こうも言っていました。「エントロピー増大の法則があるから、過去に戻ることはできない」。時間は、もとに戻すことはできないそうです。宇宙は膨張し、よりバラバラになろうとする性質をもっているから・・・もとの一つの状態には戻せない・・・そういうことみたいです>
ふと足を止める。
僕は、振り返る。
真っ白な歩道に、足跡はたった一つ。
大きな歩幅で、不均一な足跡だった。
<宇宙の膨張は止まりません>
と文章の続きを打つが、僕はそれを消去する。
<世界は、ごちゃごちゃしすぎていると思いませんか>
また消去する。
<僕は>
消去する。
<あの時>
消去する。
<本当に>
少し時間をかけて考え、続きを書く。
<時間をもとに戻すことはできないのでしょうか・・・あの時に、時間を戻せたら、僕はきっと・・・>
僕は、ふうっと息を吐き、消去する。
<君は今、何をしていますか?>
「違う」
とつぶやいて、僕は今日一日書き続けていた長い文章を一斉に消去した。
「全然違う」
すべての文字データが消え去った瞬間、画面上に通知が表示される。
【首都圏に大雪警報】
僕はスマホの画面から目を離し、空を見上げった。
星のない夜空から、白い雪が零れ落ちていた。規則正しい雪の結晶は、街灯の光を不規則に散乱させている。ノースフェイスのダウンの両肩に白い山が二つ。僕の手は、寒さで真っ赤に染まっている。
僕は、腕時計を見る。
「もうこんな時間?」
(時間が吹き飛んだみたいだ)
僕は振り返る。視線の先に、駅から続いていたいびつな足跡はない。そこにあるのは、白い平面に覆われた都会の道路。
突然、僕の中に、何一つ根拠のない仮説が浮かび上がる。
(二人の時間なら、もとに戻せるのでは?)
「はぁ」
この日一番のため息をついて、スマホを操作する。
僕は電話を掛けた。
発信相手が電話に出る前に、スマホを耳に当てながら、真っ白な平面を歩き始める。
「もしもし、久しぶり」
新たに形成さていく不格好な足跡をそっと隠すように、雪が地面に舞い降りる。
エントロピー増大の法則 ささき @hihiok111
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます