第38話 朝練(1)

 2年になっても、朝は毎日奈都と登校している。もちろん、いきなりやめる理由は私にはないが、奈都の方では大きな変化はなかっただろうか。

「おはよー」

 いつもと同じように先に来ていた奈都に小さく手を振ると、奈都は眠そうに目をこすりながら穏やかに微笑んだ。

「おはよ。今日も可愛いね」

「奈都はいつも眠そうだね」

「うん。昨日は南極に行くアニメを見てた」

 何だそれは。響きはつまらなそうだが、とても面白いらしい。

 概要を聞きながらホームに降りて、電車に乗り込む。始発駅に近いこともあって、大体毎日並びで座れる。シートに腰掛ける寸前に、奈都のお尻の下に手を置いて、柔らかな場所をひと揉みすると、奈都が変な悲鳴を上げて飛び退いた。

 周りの人が奇異の目を向ける。奈都が何か言うより先に、グッと手を引いて座らせた。

「恥ずかしいから」

 優しくたしなめると、奈都は不満げに唇を尖らせて、私の耳元に顔を寄せた。

「忘れた頃に私もやるから」

 たぶん、奈都の方が先に忘れると思うが、こういうのはやられた方はいつまでも覚えていたりするものだ。もしやられて、同じような反応をしたら私の負け、我慢できたら私の勝ちということにしよう。

 そう提案すると、奈都はそれでいいと頷いた。

 話が途切れたので、新しいクラスや部活はどうかと聞いてみた。もちろん、何度か同じテーマで喋っているが、始まったばかりの時は状況が変わりやすい。最初に席が近いから話しかけた相手が、大して気の合う子ではなかったというのもよくある。

「クラスはまあ、普通かな。去年から一緒の子と喋ってる」

「クラス、は?」

「部活は……うーん。後輩が10人くらい入ったんだけど、その内の一人に妙に懐かれてる。奈都だけに」

 奈都がため息混じりにそう言ったが、最後に付け加えた一言は何なのだろう。蛇に足を描く趣味でもあるのだろうか。

 突っ込ませて話題を逸らせる目的だろうか。本当はその後輩の話はしたくなかったが、聞かれたので渋々答えたのかもしれない。

 ここはスルーだ。

「どんな子? 可愛い?」

「チサの方が可愛いよ」

「私の容姿とその子が可愛いかどうかに、何の関係があるの?」

 やはり話をはぐらかそうとしているのだろうか。非難げに見上げると、奈都が慌てたように手を振った。

「いや、チサが嫉妬しないかと思って」

「どうして私が嫉妬するの?」

 困惑気味に聞いてみたが、さすがにそれはわざとである。奈都がどう答えるか楽しみにしていたが、奈都は顔を赤くしただけで、「もういい」と拗ねたように視線を逸らせた。

 断片的に語られた内容をまとめると、その子がバッグにぶら下げていたアニメのキャラのアクリルキーホルダーについて言及したら、オタク仲間だとロックオンされたらしい。

「私、そこまで言うほど詳しくもないし、あれはオタクじゃなくても知ってるような作品だし、それは単なるきっかけってだけで、単純に何か気に入ってくれたんだろうね、私のこと」

 そう言って、奈都は曖昧なため息をついた。好かれて困っているのかと聞くとそうでもないらしい。同担とか解釈違いとか、そういう難しい話だろうか。そう聞くと、奈都は可笑しそうに顔を綻ばせた。

「全然違うけど、チサの口からそういう単語が聞けるのは面白い」

「奈都は同担拒否だから、涼夏と絢音を憎んでる」

「憎んでないから! 親友だから!」

 相変わらず反応が大袈裟で面白い。お互いに面白がっているのは、きっといい関係なのだろう。

 上ノ水で降りて、同じ制服の生徒たちと一緒に駅を出る。電車の中は音がうるさいので、ここから学校までが本当のコミュニケーションタイムだ。

 とりあえず部活の話をもう少し聞いてみようと口を開きかけたら、背後から奈都を呼ぶ、少し高い可愛らしい声がした。

「奈都先輩!」

 反射的に振り返ると、後輩の女の子が明るい笑顔で駆け寄ってきた。後輩というのはリボンの色でわかるが、そもそも奈都を先輩と呼んだ時点で間違いない。

「同じ電車だったんですね。もしかしたら、運命かもしれません」

 肩にかけ直したバッグで、アニメのアクリルキーホルダーが揺れた。確かに、私でも見たことのあるキャラだ。今の過剰な表現といい、この子がその後輩だろう。

 奈都がマイちゃんと呼んだ子は、富元真依だと丁寧に名乗って、やはり明るい瞳で私を見上げた。

「野阪先輩ですね? 奈都先輩の正妻だとお聞きしました」

 パチっとした瞳は少し化粧っ気がある。整えられた前髪と、肩の上で内側に巻かれた髪。なかなか可愛らしい子だが、涼夏や絢音を見慣れているのでトキメキはない。あまりスポーツをするタイプには見えないが、可愛いものは好きそうだ。バトンは似合うかもしれない。

 私が挨拶を返そうとしたら、先に奈都が真顔で口を開いた。

「私がチサの正妻であって、私にはチサしかいないから、チサが私の正妻っていうのはちょっと違う」

「そこ、大事ですか?」

 富元さんが可笑しそうに口元に手を寄せる。私も「そこかよ」と思ったので、静かに頷いておいた。

「ちなみに、その情報は奈都から?」

「璃奈先輩です。ご存知ですか?」

「占い師の人だね?」

「そうなんです?」

 むしろ富元さんがその情報を知らなかったようで、確認するように奈都を見上げた。奈都はゆっくりと頷いてから、一歩私の方に近付いた。

「じゃあ、私はチサと学校に行くから、また部活で」

 何でもないように告げられたその言葉に、富元さんはもちろん、私も思わず驚いて息を呑んだ。

 すでに駅から歩き始めているし、富元さんは一人だ。行き先は同じだし、ここで別れるという選択肢は、仮に思い浮かんでもなかなか選べるものではない。少なくとも私には無理だ。

「一緒に行けばいいんじゃないかな」

 もちろん、本音を言えば奈都と二人がいい。しかし、たまの一日くらい、親友を慕う後輩と交流するのも悪くない。私に対して敵意も無さそうだし、部活での奈都のことを、他の人の口から聞くのも新鮮だ。

 奈都は何やら言いたげに眉根を寄せたが、「チサがいいなら」と仕方なさそうにため息をついた。

 それから15分ほど、これといって面白い話も新鮮な話題もなかったが、クラスの違う奈都と私が、帰宅部以外のメンバーと一緒にいることは滅多にないので、シチュエーション自体が面白かった。

 聞き手に回って楽しんでいたら、学校が見えてきた頃、富元さんが不穏なことを言い出した。

「そういえば奈都先輩、朝練の話はどうします?」

「朝練?」

 思わず私が聞き返すと、富元さんは悪いことは考えてなさそうな笑顔で言った。

「今年はコンテストとか大会に出ようかって話してて、そのために他の部活みたいに朝練とかしようって話が出ています」

「私は朝は眠いから無理かな。部活をもう少し真面目にやるのはいいけど、元々ガチじゃない部活だから入ったってのはあるし」

 奈都が消極的なことを口にする。大丈夫だろうかとハラハラしながら見ていたら、富元さんは私を見て何でもないように言った。

「今のところ、そういう意見が半々です。朝練したり、外部講師を呼んだり、そこまでしなくてもって意見も多いです」

「富元さんは?」

「朝が眠いのは同意です」

 そう言って、富元さんは綺麗に笑った。

 下駄箱で別れると、奈都が大きくため息をついた。改めて苦手なのか聞いたら、奈都はもう一度首を横に振った。

「何ていうか、チサと二人の空間にあの子がいるのは、変な緊張感がある」

「私が社交性ゼロだから、変なこと言い出さないか不安?」

「そういうのじゃないけど。ない? 別々のクラスタを混ぜたくない気持ち」

 それはわからなくもない。私も去年の今頃は、奈都と帰宅部の二人が合うかどうか気を揉んでいた。そう言うと、奈都は曖昧に笑った。

「私はそもそも混ぜたくないから、例としてはちょっと違うけど、まあそんな感じ」

 そう言って、奈都は手を振って自分の教室の方に歩いて行った。

 その背中を見送って私も教室に入る。今日はまだ涼夏は来ておらず、絢音は他のクラスの子に囲まれていた。バンド仲間の二人だ。

 絢音の所属するバンドPrime Yellowsは、ドラムの豊山さんとキーボードの牧島さん、そしてギターとボーカルを絢音が務める3人のバンドだったが、春休みの間に戸和さんが加わって、今は4人で活動している。

 戸和さんは同じユナ高の同級生で、牧島さんの友達だ。私もライブで会ったことがあり、互いに名前くらいは知っている。アコギ初心者だと聞いていたが、半年くらいみっちり練習してかなり上手になったらしい。春休みには短期でスクールにも通っていたという。

 その新生Prime Yellowsの初ライブが、ゴールデンウィークに行われる。きっとその打ち合わせだろう。今のところ帰宅部の活動に支障は出ていないが、そろそろ絢音を練習に取られるのは覚悟しなくてはいけない。

 リュックを机に置いて、小さくため息をついた。涼夏との聖域は相変わらず長井さんに侵食されているし、今朝は奈都とも二人きりで過ごせなかった。もし奈都が朝練を始めたら、私はぼっちで登校することになるし、元々帰宅部ではない奈都と一緒にいられる時間は、壊滅的になくなるだろう。

 唯一、私を最優先している絢音も、特定の時期だけはバンドを優先している。もちろん、放っておくとすべて切り捨てそうだったので、私がそうして欲しいと頼んだのだが、まさかこんなにも色々なことが一度に重なるとは思わなかった。

 重たいため息をつきながら、教科書を机の中に詰め込む。

 春休みも親愛なる仲間たちと楽しく過ごしたが、その間に3人には3人のドラマやイベントがあって、環境は少しずつ変化している。むしろ私だけが何も変わっていないのだが、私自身はもちろん、3人も私が変わることは望んでいない。

 3人の愛は疑ってないし、涼夏の愚痴も増える一方だが、このままではだんだん私はぼっちでいる時間が多くなっていくのではないだろうか。

 丁度登校してきた我らがリーダーをぼんやり眺めていたら、隣の席から声をかけられた。

「今日は浮かない顔してるね。何かあった?」

 肘をついたまま顔を向けると、隣の席の垣添さんが、好奇心半分心配半分といった顔で私を見つめていた。1年から同じクラスだが、部活もやっているし、まともに喋り始めたのは今の席になってからだ。

「人生の分岐点について考えてた」

「朝から重くない? 西畑さんが他の子に取られて嫉妬してるに10ペセタ」

 それはどこの通貨だろう。

「心が読めるの? 怖っ! 二度と話しかけないで」

 思わず川波君対応してしまったが、垣添さんは可笑しそうに笑っただけだった。危ない。つい帰宅部のノリで応じてしまった。

 実際、1年から一緒なら私と絢音の仲は周知のことだし、その絢音が他のクラスの子と喋っているのだから、容易に想像できる範疇だろう。

「絢音はバンドっ子だからね。練習に時間を取られるのはしょうがない。むしろ、その間、私は何をしようっていう地球規模の問いの答えを探してた」

「野阪さん、表現が面白いね」

「西畑式」

「私も使ってみたいけど、一定以上の学力がないと無理な気がする」

 垣添さんの成績は知らないが、私と涼夏の間くらいだろう。とりあえず日頃から訳のわからないことを言うことを勧めると、垣添さんはそれも難しそうだと曖昧に笑った。それから、ふと探るような目で私を見て、いかにも慎重に口を開いた。

「機会があったら、私も野阪さんの帰宅部に参加したさはあるね。面白そう」

「どうかなぁ。こないだは春を探すムーブとかいって、2時間くらいひたすら路傍の花の写真を撮ってたけど」

「うん。少なくとも、私にはない発想だ」

 果たしてそれは社交辞令か。

 垣添さんはバドミントン部に所属している。私も昔やっていたという話題から、こうして話すようになったが、ユナ高のバドミントン部はそれなりに強豪だ。奈都のお気楽なバトン部ですら毎日練習があって、朝練までしようと言っているのに、垣添さんが私と同じ時間に帰れるはずがない。

 ひとまず今は、親睦を深めたいという意味だと捉えるにとどめて、それ以上は聞かないことにした。

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