第31話 ヨガ(2)

※(1)からそのまま繋がっています。


  *  *  *


 外はすでに薄暗く、相変わらず寒い。校門でバトンケースを持って立っている奈都に軽く手を振ると、奈都がニッと笑って手を振り返した。

「お待たせ。待った?」

「待った。もう、『ごめんなさい』ってメールして帰ろうと思った」

「それ、心に傷を負いそうなんだけど」

 奈都が苦笑いを浮かべる。夏場は汗だくでいつもヘトヘトになっていたが、なんだかとても余裕そうだ。顔を近付けてうなじをくんくん嗅いでみると、奈都が「ひぃ」と悲鳴を上げて飛び退いた。

「何? なんで嗅ぐの?」

「いや、汗臭いかなって思って」

「汗臭いと思ったら、普通は嗅がないでしょ!」

「私を普通と思わないでいただきたい」

 そう言って胸を張ると、奈都が冷たい眼差しで私の足下を見つめた。

「チサは普通じゃないね」

「至って平凡だから」

 人の流れがなかったので、奈都のコートのボタンを2つほど外し、指で首元を開いて中の匂いを嗅いでみた。

 少しだけ汗の匂いと一緒に、奈都の甘い香りがする。しばらく夢中で嗅いでいたら、奈都が絶望的な呟きを漏らした。

「完全に変態のムーブだ」

「奈都だって、いつも私はいい匂いがするとか言ってるじゃん」

「チサはいい匂いがする。私はそうじゃない。しかも、言ってるだけでこんなふうに嗅いでない」

 奈都が自信たっぷりに首を振る。そういえば匂いと言うと、前に奈都が、私のエッセンシャルオイルを枕元に落として寝たいとか言っていた気がする。どっちもどっちだ。

 永遠に嗅いでいたかったが、同じバトン部の子に見られると奈都の人権に関わるので、体を離して手を握った。歩きながら、今日いかに退屈だったかを語る。

「図書室にいたんだけど、宿題も終わって、勉強にも飽きて、悟りを開くところだった」

「図書室なら、本を読むのはどうだろう。ナイスアイデアじゃない?」

「写真集とか見てた。みんなでシディ・ブ・サイド行きたい」

「どこ?」

「チュニジア」

「……どこ?」

 奈都が困惑した表情を浮かべたので、私はくすっと笑った。私もついさっきまで知らなかったのだが、今は知っているから偉そうにしてもいいだろう。

「アフリカ大陸の一番北。地中海に面してる」

「うーん。地球? 地球の話をしてる?」

「地球の話をしてる。ジ・アース」

 どうやら地中海すらピンと来ていないようだ。随分と狭い世界で生きているとからかいたいが、4人の中で唯一海外に行ったことがあるので、経験的には遥かに先を行かれている。

「白い壁と青い屋根の家が並んでるの」

「あー、写真とかで見たことある!」

「たぶんそれはサントリーニ島で、また別の場所」

「難しいね、地球」

 奈都が悩ましそうに眉をゆがめる。このまま奈都と地球について語り合ってもいいが、それよりも今は目先の趣味の話を優先したい。

「話は変わるけど、奈都は寝る前って何してる?」

 サクッと話を打ち切ってそう切り出すと、奈都は「唐突だね」と笑ってから、可愛らしく首をひねった。

「マンガ読んだりとか? ゲームしたりもしてるし」

「不健康だね。寝る直前にゲームとか、眠りの質が悪くなるって聞いたことがある」

 前に睡眠について調べた時に、そんなことが書いてあった覚えがある。確か、スマホ、カフェイン、それから意外にもお酒がダメだった気がする。

 そう教えると、奈都は「直前はやってないかなぁ」と呟いた。「寝る前」という範囲にズレがあったようだ。

「寝る直前。何か寝付きがよくなることとか」

「寝る直前……」

「体を動かしたり」

 ぽそっとそう言って目だけで隣を見ると、奈都は何を思ったのか、急に顔を赤くして私の手をぎゅっと握った。

「えっと、私に何を言わせたいの?」

「えっ? うん。寝る直前にしてること」

 不思議そうに首を傾げると、奈都は何やら口をパクパクさせてから、燃え尽きたようにがっくりと項垂れた。

「それは、言えない」

「言えないようなことしてるの? 余計気になるんだけど」

「うぅ……何もしてないよ。マンガ読んで、布団に入って寝る」

 奈都が早口にそう言って顔を背けた。反応は面白いが、一体何をしているのだろう。時々見るオタクの変な踊りの練習でもしているのだろうか。それなら言いたくないのもわかる。

「今日、図書室でヨガの本を見つけて、ちょっと見てた。寝る前に10分で、1日の疲れが取れてぐっすりみたいな」

「ヨガ? 体を動かすってそういう?」

「他に何があるの? ストレッチとか、そういう話だけど」

 いつもながら、奈都の思考回路はよくわからない。奈都は一人でしばらく唸り声を上げてから、頬を膨らませてそっぽを向いた。

「チサ、嫌い」

「待って。今、何か私が嫌われる理由があった?」

「寝る前にストレッチはいいかもね。私は毎日部活で運動してるから、夜はいつもぐっすりだよ」

 奈都が話を締め括るようにそう言って、ひらっと手を振った。私としては、奈都が寝る前に一体何をしているのかとても気になるが、それを突っ込むより先に奈都が顔を綻ばせた。

「それにしても、チサがヨガっていうのは、なんだかすごくそれっぽい」

「そう?」

「うん。しそう」

 自信たっぷりに頷いて、可笑しそうに頬を緩める。

 いかにもヨガをしそうというのは、どういう感じなのだろう。マイナスイオンとか好きなスピリチュアルな人とか、オーガニック食材にこだわる自然派の人とかだろうか。どっちも当てはまらないが、苦手でもない。

「私も寝付きは悪くないから別にいいんだけど、まあ夜暇してて。今日みたいに、夕方に勉強した日は特に」

「アヤは、夕方にチサと勉強した日でも、夜にまた勉強してるって言ってたよ?」

「無理だ。さすが学年6位だ」

 最近はギターの練習に力を入れているらしいが、それでも私よりは遥かに勉強しているだろう。私は仕方なくやっているが、絢音は遊び感覚でやっている。勝てるはずがない。

 駅に着いたので、改札をくぐって電車に乗った。車内は音がうるさいので、奈都が私の耳に顔を近付けて言った。

「でも、チサはYouTubeとか見てるんでしょ? 私も別にアニメとか見てるだけだし、そんなに違わなくない?」

 それは一理ある。能動的な趣味ではないという点では類似しているが、アニメ鑑賞と比べて、YouTube鑑賞はまだ趣味として市民権を得ていない気がする。

 そう訴えると、奈都が呆れたように首を振った。

「そんなの、別にいいのに。胸を張って言えるような趣味が欲しいんだね?」

「そうかも」

「マンガとかアニメって、胸を張って言えるような趣味かなぁ。私が勝手に胸を張ってるだけで」

 奈都が困惑気味にそう言った。随分自虐的な感想だが、自分が楽しんでいたらそれでいいと言い切れるのは、自分に自信がある証拠だ。私は心のどこかで、体裁的に趣味が作りたいと思っている。

「私のは、ニワカのムーブだね」

 自戒も込めてそう呟くと、奈都は「そうだね」と苦笑した。そこは否定して欲しかったが、嘘で慰められても仕方ない。

「チサ、なんか生き急いでる感じがする」

 奈都が心配そうに私を見て、片手で私の手を包み込んだ。

 心配されるほど深刻に考えているわけではなく、ただ一人の時間を充実させたいと思っているだけだが、確かに根底にあるのは焦りかもしれない。

「中学の時は全然気にならなかったんだけど、涼夏と絢音がすごい子だから、自分のしょぼさが際立つっていうか、何か持ってないと見限られそうな怖さがある」

「あの二人はすごいね」

「うん。だから、奈都といるとすごく落ち着く」

 手を握って柔らかく微笑む。喜んでくれるかと思ったら、奈都は半眼で私を睨んだ。

「今の文脈で言われても、全然嬉しくないんだけど」

「奈都には、他人からの感謝を素直に受け止められる子になってほしい」

「どう聞いても、私のこと、しょぼいって言ったから!」

 奈都が拗ねたように唇を尖らせた。なかなかの読解力だ。可愛かったので髪を撫でてあげた。

 最寄り駅に着いたので、別れ際に軽く口づけを交わす。奈都がぼーっとした顔で唇を押さえて、「相変わらず帰宅部は情熱的だなぁ」と惚けたように言った。キスくらいいつでもしてあげるが、せっかく有り難がっているのなら、効果的に使いたい。

 一人になってスマホを見ると、涼夏から「私も」とハート付きのメッセージが来ていた。一瞬何が私もなのかと思ったが、そういえば突然「愛してる」とか送っていた。

 とりあえず「結婚しよう」とまた短いメッセージを送ってみたが、既読はつかなかった。まだバイト中なのだろう。

 家に帰ってご飯とお風呂を済ませると、涼夏から「成婚」とハート付きで返事が来ていた。ハッピーエンドだ。

 そこで放置したら電話がかかって来たので、図書室でのことを簡単に話す。涼夏にまで「千紗都はヨガっぽい」と笑われたが、自分ではまったくわからない。

 夜、色々とヨガの動画を調べ、せっかくなので『寝る前の10分ヨガ』をいくつかやってみた。どれも奇妙なポーズはなく、ストレッチの延長のようなものだったが、3つくらいやったら疲れてしまった。たぶん、たくさんやるものではない。

 気に入った一つを、明日からも続けてみよう。健康には絶対にいいだろうし、ダイエットにもなるなら大万歳だ。元々ぐっすりなので、入眠効果はわからないけれど。

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