第17話 海 1

 海の寿命は短い。暑い日は夏休みが終わって9月になっても続くが、お盆を過ぎると海にはクラゲが出るし、海水浴をするには涼しくなる。

「私はあの日、選択を間違えた」

 大袈裟に肩を落として悲しむ涼夏の頭を、絢音が微笑みながらポンポンと撫でた。涼夏の言っているのは、夏休み序盤に行われた夏遊び会議において、海よりもプールを優先したことである。LSパークでの一日は本当に楽しかったが、プールなら夏休みの終わりまで楽しめるし、並ぶのにももう少し涼しい方がむしろ良かった。先に海に行くべきだったと、涼夏は声に悔しさを滲ませた。

「水着はあるんだし、乙ヶ浜なら中央駅から1時間で着くんだし、行くだけなら勢いで行っちゃえばいいんじゃない?」

 嘘泣きを続ける涼夏に、そう現実的な提案をする。LSパークみたいに高い入場料がかかるわけでもないし、乙ヶ浜なら電車でたったの1時間で行ける。友達と海水浴などしたことがないのでわからないが、そんなに大仰に考える必要はないのではないか。私がそう言うと、涼夏は眉間に皺を寄せて首を振った。

「そんな慰めは要らない。もっと私を責めて!」

「いや、慰めとかじゃなくて」

「全部私が悪いの!」

「いや、それを言ったら、私も風邪で倒れて、夏休みを数日無駄にしたし」

 すがりつく涼夏を押し戻すと、絢音が可笑しそうに頬を緩めた。

「弱ってた千紗都、可愛かった」

「それ、本当に私も見たかった」

 急に普通に戻って、涼夏が明るい瞳で頷いた。あの日は熱があって何も気にならなかったが、今思うと絢音に裸にされて隅々まで見られたのも、一緒に抱き合って寝ていたのも、顔から火が出るくらい恥ずかしい。とりあえず話を変えるように弾丸乙ヶ浜計画を提唱すると、涼夏が手を広げて待ったをかけた。

「私、海辺の安い民宿とか泊まって、帰宅部初合宿もまとめてやりたいと思ってる」

 合宿。青春の響きだ。中学の頃、バドミントン部に所属していたが、そういうものはなかった。帰宅部メンバーで泊まりで遊びに行きたい思いはもちろんあるが、ただでさえ敷居の高い海水浴企画が、さらに難しくなる。

「私は分けた方がいいと思う。もうお盆まで日にちがないし、今さら休みを合わせるのは難しいし、お盆は混むし」

「お盆が明けてすぐの、安い平日を狙いたい。海もぎりぎり生きてると思う」

「海は生きてる」

 絢音が突然そう繰り返して、一人でウケたように肩を震わせた。笑いのツボがよくわからない。

 海は生きている。実際、お盆が終わったからといってビーチが閉鎖されるわけではないし、暑さだって日中は灼熱だろう。クラゲも事前に調べて行けば、そこまで恐れる必要はないはずだ。

「民宿でご飯なしとかなら、一人2、3千円で泊れるところもあると思うし、ご飯なんてコンビニでもいいし。海が近かったら、荷物とか着替えとか面倒なことを考えずに済むし、シャワーだって宿で浴びればいいし。いいと思わない?」

 提案ではなく、説得だ。涼夏の中ではもう、そうすることが決定している。実際、悪いプランではないし、私も絢音も涼夏に引っ張ってもらうのが大好きだ。

「いいよ。じゃあ、また日にちを調整しよう」

 私がそう言って、絢音も同意するように頷いた。よしとガッツポーズする涼夏は、相変わらずとても可愛かった。


 その会議があったのが数日前、部屋で奈都と一緒に宿題をやりながら、何気なくその話題を切り出すと、奈都がシャープを置いて私を見上げた。

「それは、いつ?」

「まだ決めてないけど……」

 そう前置きをしつつ、今のところ考えている日にちを告げると、奈都がスッと目を細くした。

「バイトはあるけど、部活はない日だね」

「うん」

 それは事前に確認したから承知している。もちろん奈都も誘おうという意見は出たが、4人全員のスケジュールが合う日はなかった。そうなると、どうしても帰宅部の予定を優先することになる。これは帰宅部のイベントなのだ。

「私も誘おうとか、そういうことはまったく考えないんだ」

 奈都の声にわずかな苛立ちが孕む。私は思わず眉を上げて首を振った。

「考えたよ。どうしてそんなこと言うの? 私もみんなも、奈都も一緒に行きたいねって、ちゃんと予定を確認したよ」

「でも誘われてないし、私がバイトのある日に決めてるじゃん」

「他に無かったんだよ」

 困惑しながら奈都の顔色を窺うと、奈都はしばらくじっと机を見つめてから、吐き捨てるようにため息をついた。

「バイト、辞めよっかな……」

 その言葉に、ひとまず私は反応しなかった。なるべく動かずに次の言葉を待つと、奈都は不愉快そうに私を睨んだ。

「チサに誘われてバイト始めたのに、バイトのせいでチサと遊べないんじゃ、本末転倒だよ。しかも、チサは涼夏とシフトを合わせてるから、帰宅部のイベントにも私は全然参加できない」

 不貞腐れるように奈都が頬を膨らませた。それは少し違うと、私は内心で思った。

 まず第一に、奈都は帰宅部ではない。それに、プールに行った日も、奈都は他の友達と遊ぶ予定があったから来られなかった。私が暇で、奈都が部活で忙しい時だってある。必ずしもいつもバイトのせいで遊べないわけではない。

 ただ、今それを言ったら確実に喧嘩になる。奈都はただ私と遊びたいだけだ。その気持ちにケチをつけてもしょうがない。

「その日だけ、他の誰かにバイトを代わってもらえない? 一緒に行こう」

 ただでさえ期間の短いバイトを途中で辞めるなど、責任感の強い奈都がしたがるはずがない。売り言葉に買い言葉で、「じゃあ、辞めたら?」などと言おうものなら、友情に亀裂が生じかねない。

 私の提案に、奈都が少しだけ棘を含ませて息を吐いた。

「それが最初に欲しかった。とりあえず声をかけてくれればいいのに。これじゃあ、私がごねたからじゃあ一緒に行こうって言ってるようにしか聞こえない」

 奈都の言葉に、私は無性に悲しくなった。確かに奈都がそう考えてしまうのも無理はない展開だが、私がそんな気持ちで誘っているわけではないことを、奈都だってわかっているはずだ。

 涙が出そうになるのを堪えながらじっと見つめると、奈都が気まずそうに俯いて、意味もなくシャープを手に取って、もう一度机に置いた。

「ごめん。言い過ぎた」

 ぽつりと謝る奈都の隣に座って、ギュッと抱きしめる。困ったらハグだと、絢音大先生が言っていた。奈都が私の背中に手を回して、辛そうに声を絞り出した。

「チサの中で、どんどん私の存在が小さくなってる。私、涼夏もアヤも好きだけど、チサを取られたくない……」

 ギュッと、奈都が苦しいほど強く私の体を抱きしめた。まるで親に置いていかれそうな子供のようだ。

 小さくなどなっていない。ただ、大事な友達が奈都一人から、3人に増えただけだ。気持ちの絶対量が一定だと言うのなら、100%奈都だけに注いでいた気持ちが、40%くらいになってしまったかもしれない。ただ、私は気持ちの絶対量が増えたと考えている。奈都に対する愛情は何も変わっていない。

 奈都の体を抱きしめたままベッドに転がると、膝を絡めて抱きしめた。奈都の荒い息が顔にかかる。吐息を絡ませながら、奈都が眉間に皺を寄せて呻くように言った。

「部活、辞めよっかな……」

「それはダメ」

 はっきりそう言うと、奈都が驚いたように目を開けた。その鼻先に軽くキスをしてから、奈都を仰向けに寝かせて、上から体重をかけて抱きしめた。髪を撫でながら耳に唇を押し当てる。

「たぶん、私が奈都に甘えてるから、奈都を不安にさせてるんだと思う。私は、そろそろ自立しなくちゃいけない」

「全然違う。逆だよ。私はもっとチサに甘えて欲しい」

「甘えた結果がこれだよ。奈都は私をわかってくれる。好きでいてくれる。その気持ちに安心して私が何もしないから、奈都を不安がらせてるんだと思う」

「チサは元々積極的な子じゃないし、私はチサのそういうところも好きだよ? そこは変えなくていいって思うけど、私もよくわかんない……」

 そう言って、奈都が私の背中に軽く爪を立てた。奈都は私が好きで、私も奈都が好き。それを、私も奈都も互いにわかっている。それなのに気持ちがすれ違うのは、やはり物理的な距離のせいだろうか。

 帰宅部に入ってくれれば、すべて丸く収まる。そんな気はするが、中2のあの時も部活を続け、高校でも自分の意志で部活に入った奈都に、私のために部活を辞めて欲しくない。そんなことをしなくても、私は奈都が好きだし、気持ちだって離れない。

「私は奈都が好きだよ?」

 強い言葉でそう告げると、奈都ははっきりと頷いた。

「それはわかってる」

「ならいいけど。一緒に海に行こう」

「うん」

 奈都が嬉しそうに頷いて、頬を擦り寄せた。

 一体どうしたらいいのだろう。押し潰すように奈都の体に体重を預けながら、私は思った。中学の時は、奈都が部活をやりながらでも上手くいっていた。それが高校に入って、私に友達ができたことで、奈都が不安に思うようになった。奈都は私を独占したいのだろうか。その割には奈都は私を放置しているし、涼夏や絢音に私を委ねている節もある。

 よくわからない。人の心など、そう簡単にわかるものではない。

 いい匂いがする。体が気持ちいい。なんとなく首筋を甘噛みすると、奈都が「ん……」と色っぽい声を漏らした。とりあえず今日はまた、1時間チャレンジをしよう。言葉が通じない時は体温で。それが帰宅部流だ。

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